体の大きい力士がぶつかり合う大相撲だが、その中でも規格外の巨漢が存在する。大相撲の歴史を彩る巨漢力士を紹介するシリーズ企画。前回の長身力士編「身長トップは229cm!、土俵を沸かせた長身力士たちが江戸時代に集中するのはなぜか」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72660)に続き、今回は体重の多い重量力士編(関取以上)をお届けする。江戸時代の力士が並んだ長身力士とは打って変わって、平成に活躍した力士が占める形となった。

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(長山 聡:大相撲ジャーナル編集長)

ベスト10のうち外国人力士が半数

 身長とは逆に体重の重い関取は、飽食の時代と言われる最近の力士ばかりなので、多くの相撲ファンには馴染みのあるしこ名が並ぶ。

 ベスト10のうち小錦、武蔵丸、曙、大喜がハワイ出身、逸ノ城モンゴル出身と外国人力士が半数を占めている。

 そんな中、日本人最高体重を記録したのが山本山だ。日大相撲部出身だが、付け出し資格*1を取れず、平成19(2007)年1月場所に前相撲からのスタートとなった。

*1:アマチュア時代の実績により、前相撲から順序を踏んで進むことなく、いきなり幕下や三段目から取り始めること

 新弟子検査では史上最高体重となる233kgを記録した。身長は191cm。平成20年9月場所新十両、平成21年1月場所新入幕と順調に出世し、最高位は前頭9枚目。巨体と明るいキャラクターで人気力士となったが、左膝を痛め関取の座から陥落。そして平成23年八百長メール問題では関与した力士に名前が挙げられ、わずか26歳で引退を余儀なくされた。

協会発表とは別の身体測定で277kgの山本山

 山本山の公式最高体重は266kg。だが、相撲診療所では毎年、協会発表とは別に身体測定を行っており、平成23年2月には277kgを計測している。もし不祥事で引退せず、けがが直って関取に復帰を果たしたら、小錦の体重を上回る可能性もあったと言われている。

 山本山を始め、最近では200kgを超える和製力士も多い。しかしかつては欧米のように極端な肥満が存在しなかった日本では、体重が200kgを超えるなどあり得ないことだった。江戸の看板力士たちは身長や体重を多少オーバーに表記していたが、それでも最高体重は釈迦ヶ嶽の180kgだった。

 長身の部で紹介した出羽ヶ嶽は、身長209cm、体重195kgで、一時は200kgを超えたという説もある。大正から昭和期にかけての日本では考えられない巨体で、「出羽ヶ嶽の195kgが、有史以来、おそらく日本人最高体重ではないか」と様々な書物に記載されている。当然、相撲界でも最高体重の記録は長い間出羽ヶ嶽が保持していた。

 前回の身長同様、近年では重い力士ほど自分の体重を少なめに発表したり、体重測定の時などは、恥ずかしげに両手で目盛を隠したりする。

 それまで自己申告だった関取の身長・体重を、現在のように東京場所前に正式に測定するようになったのは、身長編で記載した通り昭和52(1977)年9月場所からだ。

初の200kg超え力士となった高見山

 その背景にはハワイ出身の高見山の存在がある。高見山は昭和45(1970)年頃から昭和52(1977)年7月場所までずっと165~168kgぐらいで体重を公表していた。しかし、写真や映像をよく見ると昭和50(1975)年頃からあきらかに肉付きがよくなっている。

「本当は200kgぐらいあるのでは」と、関係者の間では盛んに疑問の声が上がるようになっていた。

 山本山のところで紹介した協会発表とは別の相撲診療所の身体測定では、高見山昭和52年7月に201kgを計測していた。また北の湖も相撲診療所の測定では165kg以上の体重があったが、協会発表では150kg程度と少な目に申告していた。

 あまりにいい加減な公式発表が増えたこともあり、昭和52年9月場所前の力士会で、久しぶりに体格検査が行われた。注目の高見山体重計に乗り、目盛りが200kgを差そうとした瞬間、あわてて飛び降りた。そして立ち合っていた親方にウインクして「185kgぐらいということで」と言いながら、去っていってしまったという。

 しかしいつまでもごまかすわけにもいかず、高見山は相撲界初の200kg超え力士となり、最高体重は207kgを記録した。

 相撲界の重量化に拍車をかけたのが高見山同様、ハワイ出身の小錦だ。昭和59(1984)年5月場所の新十両時の体重が210kg。以後、引退する平成9(1997)年11月場所まで常に関取ナンバー1の重量を誇り、最高体重は284kgだった。

「朝と夜では7kg体重が違った」と小錦

 小錦の登場後は、それに呼応するかのように、日本人力士にも200kgオーバーの力士が次々と誕生した。

 なお、関取最重量は現在も小錦だが、診療所での身体測定では、最高位幕下でロシア出身の大露羅が292.6kgを記録。

 ただし筆者は小錦本人から「力士時代に、最高体重が295kgぐらいあった。そして引退後、300kgを超えたことも」と聞いたことがある。

 小錦によると「朝と夜では7kg体重が違った日もある」とのことで、変化のない身長と比べ、いちいち細かい考慮をしていたらきりがないので、体重は相撲協会の公式発表をそのままで掲載させていただいた。

 小錦引退の翌年となる平成10(1998)年は、関取最重量の争いが激化(?)した。

普段は無口な豊ノ海も体重ではムキに

 5月場所では1位が十両須佐の湖の240kg、2位が横綱曙の227kg、3位が十両豊ノ海の225kg。豊ノ海は2位とわずか2kg差だったため、「食事後などは、曙より体重が重い時があるのでは?」と冗談っぽく水を向けると、真剣な顔で「向こうも食事をするから一緒だよ」と否定。ふだんは報道陣に背を向けるなど無口で知られた関取だが、この時ばかりは絶対に自分は重量ナンバー2ではないことをムキになって力説していた。

 そうした200kg級の関取が次々と引退し、平成18(2006)年5月場所の体重ベスト3は1位幕内雅山182kg、2位幕内岩木山177kg、3位十両春ノ山176kgとなった。

重い力士ほど1kg、2kgを気にする

 雅山は「うちの横綱(武蔵丸)を始め、200kgを超える関取をいっぱい見てきたので、自分が1位なんて信じられないですね」と何かピンとこない様子。続けて「でも、本当の1位は自分じゃなく、岩木山関ですよ。体重測定前には食事制限とかしているんじゃないですかねえ? 何かほっそりしてますからね。それで本場所になるとドーンとデカイでしょう。絶対におかしいですよ」とクレームをつけていた。

 体重の重い力士にとっての1kg、2kgは、必死にダイエットに励む微妙な乙女心(?)と同じようで・・・。

※長身力士編「身長トップは229cm!、土俵を沸かせた長身力士たちが江戸時代に集中するのはなぜか」へのリンクはこちら(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72660)

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