妻が複数の男性と“婚外交渉”、そのうちの1人は親友で…悩めるエリート哲学者が娘に語った嘆きの一言「この結婚の問題は…」 から続く

 倫理学者の児玉聡さんによれば、「20世紀のオックスフォードの哲学者は英国のコメディでも取り上げられるほど奇行が多かった」という。哲学者たちの多種多様な人生とその思想は密接に結びついている。

 ここでは、児玉さんによる「Webあかし」の連載を書籍化した『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店)から一部を抜粋。美しい容姿と声を持ちながら、オックスフォード哲学者の中でも「別格」の奇人だった女性哲学者・アンスコムについて紹介する。(全2回の1回目/後編を読む

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ズボンでは入店できない」と言われたアンスコムは…

 奇人変人の多いオックスフォード哲学者の中でも、エリザベス・アンスコムは別格の観がある。このことはアンスコムの名を冠するアンスコム生命倫理センターウェブサイトにも彼女の奇行がいくつも紹介されていることからも推して知ることができる。

〈(当時の大学の規則ではスカートをはくように要求されていたにもかかわらず)アンスコムはいつもズボンをはいていた。彼女は葉巻を吸い、しばらくの間は片めがねを使っていた。

 

 伝え聞くところによると、彼女がボストンの洒落たレストランに入ろうとしたところ、婦人はズボン着用で入店することはできないと言われた。そこで彼女はその場でズボンを脱いで入店した。(注1)〉

 当然ながら、これは序の口である。

女性哲学者が活躍できたワケ

 アンスコム(G. E. M. Anscombe, 1919~2001)はフィリッパ・フット、マリー・ミジリー、アイリスマードックと同世代の女性哲学者である。この世代は、第二次世界大戦中で男子学生の多くが従軍していたため、女性が活躍しやすい時期であった。ミジリーはこの時期のことを次のように回顧している。

〈 若い男たちが延々やかましく騒いで女性の気を散らすことがなかったのがよかったのだと思います――本当に哲学をやりたいと思って勉強している人しかいなかったですし。それに、将来がなさそうだったから、就職のことを考えている人もいませんでした。(注2)〉

 この時期、ライルやオースティン、エア、バーリン、ハートなどの男性哲学者たちはみな諜報機関等で働いていたが、アンスコムらと同世代のヘアなどは一兵卒として従軍し、シンガポール日本軍の捕虜となりビルマで線路を作る仕事をさせられていた(注3)。

 それはともかく、アンスコムは1937年オックスフォード大学のセントヒューズコレッジに入学し、古典学コースで学んだ。母親が古典語の教師であったため、大学に入る前からラテン語ギリシア語を習得していた。

 10代早くにカトリック信仰に目覚め、大学に入るとすぐに親の反対を押し切ってカトリック教徒になった。また、この学部生の頃にフットやマードック、ミジリーらとも知り合いになった。

 学部では好きなこと以外は勉強せず、卒業試験では哲学の一分野以外は惨憺たる出来だったが、できた部分はあまりに優秀だったため結局一等(First)で卒業したという(注4)。

 アンスコムは学部を卒業するとケンブリッジ大学で研究員となり(1942~46年)、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの講義やセミナーに顔を出すようになる。周知のように、彼女は後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』を英訳し、彼の正統な弟子の一人と見なされるようになった。

 その彼女が戦後にサマヴィルコレッジのフェロー(編注:日本の大学では教員に当たるポスト)としてオックスフォードに戻ってくると、ライルやオースティンが幅を利かせており、とりわけアンスコムによって「ウィトゲンシュタインの劣化コピー」と見なされたオースティンは、しばしば彼女の憤怒の源泉になっていたようだ。

アンスコムはなぜそこまでオースティンを嫌ったのか?

 哲学者のマリー・ウォーノックの自伝によると、アンスコムはオースティンを蛇蝎のごとく嫌っていた。

 1924年生まれのウォーノック(旧姓ウィルソン)は、アンスコムより5歳ほど年下で、1942年オックスフォード大学のレディマーガレットホールに入学したときにはアンスコムはすでにケンブリッジの研究員になっていた。だが、戦後にウォーノックが一時中断していた古典学コースに復学すると、まもなく彼女は友人を介してアンスコムと知り合いになった。

 ウォーノックが哲学をやりたいと考えていることを知ったアンスコムは、彼女を「オックスフォード哲学の害悪」から救い出す使命があると考えたという(注5)。そのオックスフォード哲学の害悪の権化が誰あろうオースティンであった。

 ウォーノックはアンスコムから英訳中の『哲学探究』を読ませてもらうなどしてかなり目をかけてもらっていたようで、先輩後輩関係というよりは、師弟的な関係だったように思われる。

 一方、戦後にオースティンバーリンと再開したセンスデータ論を批判する講義に、ウォーノックはアンスコムと一緒に出席したりもしていた。ちなみに、この講義にはのちにウォーノックの夫となるジェフリー・ウォーノックも出ていて、マリー・ウォーノックはここで彼と最初に出会った。

 ウォーノックの考えでは、アンスコムは「ウィトゲンシュタインスパイ」としてこの講義に出ていた。アンスコムはしばしば講義の途中に異論を差し挟み、侮蔑的なコメントをしたという。

 あるとき、アンスコムはいつにも増して無礼なコメントを講義中にしたため、恐れをなしたウォーノックは講義終了後にそそくさとモードレンコレッジの外に出て一人で帰ろうとした。しかし自転車の鍵を開けようとしてもたもたしているとアンスコムに追いつかれてしまう。

 そこで彼女は「ウィトゲンシュタインがあんな紛い物を生み出したと考えると、なんていまいましい!(To think that Wittgenstein fathered that bastard!)」というアンスコムの渾身の罵倒を聞かされたという(注6)。

 しばらくあとに、ウォーノックは勇気を振り絞って、現在の(いわゆる後期)ウィトゲンシュタインオースティンらが講義で主張していることの多くに同意するんじゃないでしょうかとアンスコムに尋ねた。すると、アンスコムはわなわなと怒りに震え、顔を真っ青にしてこう言ったという。

「もしあなたがオースティンウィトゲンシュタインの間に何か一つでも共通点があると考えるのなら、あなたはウィトゲンシュタインについて私が教えたことをまったく理解していなかったということだ!」(注7)

 アンスコムはオースティンの「土曜朝の研究会」には招待されなかったが、その理由の一端が垣間見えるエピソードである。

 ウォーノックはこの話の前後にオースティンやライルのオックスフォード哲学とウィトゲンシュタインの哲学との関係について興味深い思索を行っているが、その紹介は他の研究者に任せることにしよう。

アンスコムはウォーノックを見放した?

 アンスコムはウォーノックが道を踏み外さないように(すなわちオックスフォード哲学に影響を受けないように)と努力していたが、結局それはうまくいかなかった。アンスコムの意に反して、ウォーノックは戦後新たにできたB.Phil.コース(日本の大学院の哲学修士課程に相当)に進学を決めてしまったからだ。ウォーノックはアンスコムにこう言われたという。

〈「あなたは最悪な過ちを犯してしまった。なぜなら第一にあなたには哲学の才能がなく、第二にオックスフォード哲学の泥沼にさらに飲み込まれてしまうからだ。」(注8)〉

 ウォーノックはこれがアンスコムと長い会話をした最後の機会だったと言う。アンスコムがウォーノックを見放したのか、あるいはウォーノックがアンスコムの言動にいいかげん付いていけなくなったのか。

荒っぽい言葉遣いが破壊力を増すワケは…

 マリー・ウォーノックは、エリザベス・アンスコムに最初に出会ったときの印象について、自伝の中でこう語っている。

〈 彼女は不恰好な黒いズボンと、特徴のないぶかぶかのセーターを着ていたけれど、また、かなり長くてベタベタしていて特定の色合いを持たない髪を頭の後ろで「おだんご」のようにしてまとめていたけれど、彼女の顔は、片目の斜視が目につくものの、驚くほどの静謐さと美しさを備えていた。彼女は「キリストの降誕」の絵に出てくる天使のような感じだった。

 

 信者が聖母マリアの厚意を得たいと願うのと同じように、アンスコムに会った人はただちに、彼女の共感、彼女の祝福、彼女の愛情を得たいと思っただろう。そしてさらに印象的だったのは、彼女が話をするときの声の美しさだった。この事実が、後々、彼女のしばしば荒っぽい言葉遣いの破壊力をさらに増したのだった。(注9)〉

 そのような容姿と美しい声で、アンスコムはウォーノックの夫となるジェフリー・ウォーノックのことを、「あのクソ男のウォーノックthat shit, Warnock)」と呼んでいた。ジェフリー・ウォーノックはJ・L・オースティンに心酔していたため、当然ながらアンスコムには忌み嫌われていた。

 マリー・ウォーノックがB.Phil.に進学するくだりでアンスコムに非難された話をしたが、彼女が強く非難されたことがもう一つあり、それがジェフリー・ウォーノックとの結婚話だった。

 アンスコムは自分と同学年のジーン・クーツが卒業後にオースティンと結婚すると聞いたときも、あんなひどい男(someone so awful)と結婚するなんてと彼女を厳しく非難した(注10)。これから結婚する人に対して、アンスコムは祝福の言葉を述べるどころか呪いの言葉を吐き続けた。

 なお、アンスコム自身は、オースティンが結婚したのと同時期に、自分と同じカトリック教徒で哲学者(論理学者)のピーター・ギーチと結婚している。

 ギーチとアンスコムは1938年にコーパスクリスティプロセッションというカトリックの祭礼で最初に出会ったが、そのときギーチはアンスコムを別の女性と勘違いして彼女にプロポーズしたという。しかしまもなく二人は恋愛関係となり、その年に婚約して3年後の1941年に結婚した。その後、二人はアンスコムが2001年に亡くなるまでの60年間夫婦であった(注11)。彼女は結婚後もミス・アンスコムと名乗っており、夫のギーチでさえそう呼んでいたそうだ(注12)。

 カトリック教徒の二人は7人の子ども恵まれた。マリー・ウォーノックはアンスコムがセントジョン通りに住んでいた頃にその家でインフォーマルなチュートリアルを受けていたが、自分の哲学的才能が十分でないことが暴かれるのが嫌なだけでなく、家がとんでもなく臭いのでその家に行くことを恐れていたという。

 その家には子どもが「少なくとも3人、ひょっとすると4人」おり、おもちゃが床のそこら中に散らばっていた。アンスコムの書斎には使用後おむつも落ちていたという。

 あるときウォーノックは家に着くなり赤子を腕に抱かされて、あとちょっとで執筆が終わるからミルクをやっておいてとアンスコムに頼まれた。まだ赤子の扱いなど何も知らないウォーノックは、この汚くて臭い生き物を二度と見たくないと思ったそうだ(注13)。

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【注釈】

注1 所長のDavid Albert Jonesによる紹介。本文の伝記的部分は主にこの紹介文に拠っている。https://www.bioethics.org.uk/page/about_us/about_elizabeth_anscombe/ なお、アンスコム生命倫理センター2010年オックスフォードにできたが、その前身は1977年ロンドンに設立されたリナカー医療倫理センターである。カトリックの学術機関であり、オックスフォード大学には所属していない。

注2 Brown, Andrew, “Mary, Mary, Quite Contrary,” The Guardian, 13 January 2001, https://www.theguardian.com/books/2001/jan/13/philosophy 以下も参照。Midgley, Mary, The Owl of Minerva: A Memoir, Routledge, 2005, pp.123-124. なお、当時の女子学生の割合等については以下の文献に詳しい。Lipscomb, B. J. B., The women are up to something: How Elizabeth Anscombe, Philippa Foot, Mary Midgley, and Iris Murdoch revolutionized ethics, Oxford University Press, 2021.

注3 Hare, R. M., “A Philosophical Autobiography,” Utilitas, Vol.14, No.3, 2002. 本書のChapter 22も参照。

注4 Midgley, op. cit., p.113.

注5 Warnock, Mary, A Memoir, Gerald Duckworth & Co., 2000, p.53.

注6 Warnock, op. cit., p.65.

注7 Ibid.

注8 Warnock, op. cit., p.69.

注9 Warnock, Mary, A Memoir, Gerald Duckworth & Co., 2000, p.71.

注10 Warnock, op. cit., p.68. ちなみに、オースティンが結婚したのは1941年、ウォーノックらは1949年のことである。

注11 https://www.bioethics.org.uk/page/about_us/about_elizabeth_anscombe/(注1を参照)

注12 Haldane, John, “Elizabeth Anscombe, Life and Work,” John Haldane ed., The Life and Philosophy of Elizabeth Anscombe, St Andrews Studies in Philosophy and Public Affairs, 2019, sec.3. このあたりも奇行だなと思っていたが、よく考えると我が家もいまだにお互い旧姓で呼びあっているので人のことは言えない。

注13 Warnock, op. cit., p.59. とはいえ、ウォーノック夫妻も後に5人の子ども恵まれることになる。

(児玉 聡)

オックスフォード大の哲学科の建物に飾ってあるアンスコムの写真。