終身雇用をやめて、人材の流動化、労働力の流動化を進めていくことこそが産業のさらなる発展と成長を促すと言われてきましたが、実際はどうでしょうか。日本経済の分岐点に幾度も立ち会った経済記者が著書『「経済成長」とは何か?日本人の給料が25年上がらない理由』(ワニブックスPLUS新書)で解説します。

財務官僚が消費増税をそそのかす理由

■やはり最後は政治の仕事

日本のGDP50%相当のお金の配分を決める財務官僚が経済成長に関心を持たないのはなぜでしょう。

経済成長させることは「財政出動をしろ」「均衡財政を捨てろ」ということに繫がります。彼らはその議論に巻き込まれることを恐れているのでしょう。この根本には「財政法第四条の問題」があると言われますが、「財政法第四条」は「憲法第九条」と一体の問題だと思います。つまりアメリカが日本を「戦争できないようにした」ことの縛りです。

財政法はGHQ連合国軍最高司令官総司令部)による被占領下の1947年に出来た法律です。その第四条に〈国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。〉とあります。これこそまさに財政均衡主義そのものであって、「国の歳出は税収だけにしろ」と定めてあるようなものです。

日本共産党は『しんぶん赤旗』で〈この規定は、戦前、天皇制政府がおこなった無謀な侵略戦争が、膨大な戦時国債の発行があってはじめて可能であったという反省にもとづいて、財政法制定にさいして設けられたもので、憲法の前文および第9条の平和主義に照応するもの〉と説明しています。

国家主権を自ら制限するもので、いかにも日本共産党の言い分ですね。しかし、共産党が墨守する憲法解釈に、保守を自称する与党の政治家の大半が縛られるのは奇々怪々と言うしかありません。

そもそも憲法は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の尊重を謳っています。政府が財政均衡主義を貫くことでデフレ不況を引き起こし、経済をゼロかマイナス成長にしてしまうことは、国民が幸福になる権利をブチ壊すようなものです。

官僚の第一義は出世です。財政法が財政の基本に関して定めた法律である以上、そして財務官僚が出世を望む以上、彼らが財政法に忠実であることは当然のことです。そういう意味では財務官僚が財政均衡主義者なのは当然のことなのです。

財務官僚が仕事に忠実であるのは間違いありません。しかし、財務官僚が国家全体の経済を運営するとなると話は違います。国家全体の経済を運営し、責任を持つのは内閣であり総理大臣です。あるいは国会です。そういう意味で政治に責任があるのです。

その総理大臣や財務大臣に、財務官僚が「社会保障財源はどうするのですか。高齢化が進んで社会保障費は確実に毎年1兆円ずつ増えるのですよ。次世代型社会保障の財源も必要です。消費税の税収が増えれば、確実に財源に出来ます」と説得に入るのです。

しかも消費税収は税率を上げると必ず上がります。家計の消費は所得や企業収益に比べて基本的に景気の影響を受ける度合いが少ないからです。それで「安定的な財源になるから、消費税の増税はしたほうがいい」と。説得力はあります。

しかし、この論法でいけば、毎年1兆円くらい消費税の税収を上げるため、税率を上げつづけないといけなくなります。それこそヨーロッパ並みに税率を25%くらいにしないといけません。

IMFが2019年11月、日本経済について分析した報告書を公表しましたが、そのなかで増えつづける社会保障費を賄うため、2030年までに消費税率を15%に上げる必要があると提言しています。さらに複数の日本の有力経済学者も、批判せずに丸ごと同調しています。

税収の確保ということでは、景気を良くして税収を増やすという考え方がまっとうですね。これに対して財務官僚は「それでは税収が予測できない」と言います。つまり法人税所得税に頼ると税収は景気に左右される。見通しがつかない。「景気が悪くなったらどうしますか。そうしたら予算も増えませんよ」というような話ばかりします。一方で「社会保障費は確実に毎年増えますから、安定した財源が必要です。だからこれを消費税で賄うのです」というのが財務官僚の殺し文句です。

では、財務省は国家全体の経済というものを考えているか、経済の成長こそ優先しないといけないと考えているのか。これはノーです。それから財界に「国家全体の経済を我々が担っているんだ」という使命感があるかというと、これもノーです。

経団連は「法人税率を下げないので、我々は日本国外にもっと投資します。いまの税率だと日本に投資できません」と主張していましたが、法人税率が下がって、日本経済に何かいいことをしたでしょうか……相変わらず海外重視です。

結局、政治がしっかり動かないといけないということです。ほんとうは家計にもっと政治に対する影響力がないといけないのでしょう。家計はいわば有権者の財布ですから、有権者は政治家に働きかけて家計にゆとりをもたらし、国民が未来に希望を持てるようにするべきです。

人材を流動化しても増えない給料

■日本的雇用は遅れているのか?

グローバリズムの波にのまれて、日本のルールがいろいろと変えられてきたなかで、日本的雇用はダメなもの、時代遅れだと評されるようになりました。いわゆる終身雇用、新卒一斉採用、そして年功序列です。

この風潮は、終身雇用をやめて、人材の流動化、労働力の流動化を進めていくことこそが産業のさらなる発展と成長を促すというトレンドから出てきました。

しかし、ひとつの企業のなかで、その人の人生を全うしてもらおうという考えは本当におかしなことだったのでしょうか。その過程で家庭もつくって、会社も従業員も一体となって時間を過ごしていこうという考え方が、そもそも間違っていたのかということを、何も検証していないはずです。

グローバル化が始まった頃、日本型の終身雇用はそもそも間違いなのかという問いかけではなく、もうダメなのだ、世界的に遅れているのだという決めつけた言われ方をして、制度を見直していったような気がします。

マルクスの『資本論』によれば、資本主義経済では基本的に労働力は商品です。さらに資本主義はすべてを商品化すると見ています。事実、米英型資本主義、つまりアングロサクソンの世界はそうなっています。働く者は「人材」と言い換えられて自身の技能を売り、賃金報酬を得ます。

会社もその価値は株式市場で決まり、丸ごと、あるいは事業部門が売り買いされます。会社はあくまでも株主のものであり、最高経営責任者(CEO)に代表される経営者は株主価値=会社の時価総額を増やすよう求められ、従業員を整理して収益を上げて株価を押し上げ、高い価格で会社を売却するのです。

2001年アメリカが小泉改革を強力に支援した背景には、日本をアングロサクソン型の世界にしようという意図もあります。しかし日本には伝統的にそういう考えはありませんでした。米英と労働や会社に対する価値観、考え方が違うからといって、必ずしも間違いや遅れではないはずです。

日本社会のコミュニティというか共同体のなかに、この終身雇用制のようなものが戦後の混乱期、成長期でいつの間にか定着してしまったわけです。それを外から見て「おかしいぞ、労働力は商品のはずだ」とばかりに、日本を『資本論』の世界に変えてしまったのが新自由主義ではないかと思います。

新自由主義とは、すべてを資本の論理即ち市場原理にまかせれば経済はうまく回る、政府は小さくすべきだという考えで、資本主義を否定するマルクス主義とは対極にあるイデオロギーですが、極端と極端は結びつくのです。

大きなポイントは、いわゆる日本的雇用を行っているとき、日本経済状況は悪かったのかといえば、そんなことはなかったということです。むしろ、対外競争にも勝ち抜く強さが個々の企業にも実際にあった時代でした。

1970年代の前半から後半にかけて、オイルショックが2回ありました。操業短縮、生産縮小などで従業員が余剰となり、大手企業は人員整理としてレイオフを行いました。レイオフは「一時帰休」と訳されますが、業績が回復したときの再雇用を条件とする一時的な解雇のことです。ただアメリカだと、けっこうそのままクビです。

その頃、日立製作所トップに取材したら「レイオフをやる」と言う。「じゃあ、クビ切りして従業員を整理するんですね」と確認したら、「そうではない」と。工場は操業が止まっているのに、どうするのかなと思ったら、彼は「従業員には工場の敷地に生えているペンペン草をむしってもらい、給料は規定通り払う」と答えました。

工場生産の労働はカットせざるを得なくても、時間外労働はなくなってもなんとか働く環境を用意したのです。これぞ終身雇用です。

昔は企業城下町を持っている大手の企業がいっぱいありました。トヨタ自動車豊田市日立製作所日立市などはそのままの名前ですけど、それ以外にも松下電器門真市旭化成延岡市スバル太田市キッコーマン野田市ヤマハ発動機磐田市など、挙げればきりがありません。不況で余剰な労働力が生まれても、完全な解雇は行わないので、企業城下町の人口も減らずに維持されてきました。

当然、従業員の企業に対する忠誠心は強くなります。日立製作所の取材で日立市に行くと、完全に日立の街です。地元の人は日立に雇ってもらえば一生安泰、生涯万々歳というような感じでした。

それが絶対的にいいことだとは言いませんが、伝統的に日本が持っていた社会構造とも重なり合う、「働く」ということの意味を、再度問い直すときにきているのかもしれません。

田村 秀男 産経新聞特別記者、編集委員兼論説委員

(※写真はイメージです/PIXTA)