◆常軌を逸したものも出始めた統一教会関連報道

 統一教会に関する報道は「書けば売れる」という安易な状態にある。各社ともその安易さに慣れ、常軌を逸した報道を連発するようになってきた。

 その筆頭株は、毎日新聞だろう。同紙は11月7日と8日の両日にわたり、朝刊一面トップにこのような見出しを踊らせた。

「文鮮明氏『安倍派中心に』 89年発言録で判明 旧統一教会が政界工作」
「安倍氏側近と『会え』 文鮮明氏、06年に指示 首相就任直後」

 見出しを読めばあたかも「毎日新聞が掘り起こした、統一教会自民党安倍派の癒着に関するスクープだ」との印象を受ける。しかし記事の内容は全くそうではない。単に毎日新聞が『文鮮明マルスム選集』(文鮮明の発言録。教団の経典の一つ)を読み込み(しかも実物ではなく、ネット無断転載されていたものを読んだのだという)、当該発言を発見したというのだ。有り体に言えば「文鮮明がそう言っていた」という話でしかない

 だからなんだというのか。

 相手はカルト宗教である。教祖の発言の中に、一国の政治を左右するだの、その国を支配するだのといった文言が出てくるほうがむしろ自然なのだ。武力による国家転覆路線に転じる直前のオウム真理教でさえ政界進出計画を有していたし、麻原彰晃政治家に対して絶大な影響力を有していると嘯いてさえいたオウム統一教会などの〝有名どころ〟カルトだけではなく顕正会幸福の科学などのマイナーカルトでも「政府を支配する」だの「日本を統治する」だのといった言動は横行している。神だのメシアだのと自称する連中である。現実と大きくかけ離れていようとなんであろうと、自分を大きく見せたがるのが連中の性なのだ。

 居酒屋の酔客が口にする大言壮語に報道価値がないのと同じように、カルトの教祖の大言壮語にはなんの報道価値もない。一方、教祖の口走る大言壮語と現実の差を、教団がどのようにして埋めようとしているかについては、大いに報道価値があるオウム真理教麻原彰晃の吐く大言壮語と現実との差異を埋めるためテロに走ったことからもわかるように、本来社会が注目し、報道が検証しなければいけないポイントは、まさにその点だ。しかし毎日新聞は(今のところ)そうした仕事をせず、単に「ネットに転載されていた統一教会の教祖の発言」を転載しているだけである。

 これでは実質的に統一教会の宣伝機関に堕したも同然ではないか。おそらく毎日新聞も平時であればこんな愚行を犯すこともなかったはずである。「統一教会という言葉さえ含まれていれば、売れる!」という安易なムードに迎合してしまったのだろう。

◆「宗教二世」に対する安易な報道

 この安易なムードに流されるあまり、報道が具体的に人を傷つけてしまうケースも生まれ始めている。

 いわゆる「宗教二世」の取り扱いがまさにそれだ。安倍晋三横死事件を受け、ようやく世間は、深刻な悩みを抱える宗教二世の方々の存在に気づき、その声に耳を傾けるようになった。そうした世間の変化に、当事者の方々も柔軟に対応しておられ、ご多忙かつお辛い中にもかかわらず、メディアからの求めに応じて、被害実態を切実に訴えておられる。

 しかし問題はメディア側だ。メディアが採録する「宗教二世としての告発」の中には、当然さまざまな宗教の二世の声が含まれてくる。だが報道する段になるとなぜか「統一教会二世」の声だけが取り上げられるのだ。「他の宗教の宗教二世の声を採用しない」のならまだ許容できるが、中には「他の宗教の宗教二世の告発であるにもかかわらず、統一教会宗教二世の告発として紹介する」という事例さえ生まれ始めている。現にこうしたメディアの行為で深く傷ついている二世は多数存在している。

 メディア側からすれば現場の勘違いや編集のミスによって生じた〝些細な〟手違いのレベルかも知れないが、勇気を持って告発した当事者からすれば再起不能に近いダメージを受けてしまう。こんな悪質な行為が横行するのも「統一教会とさえ書いておけば、売れる」という安易なムードに流されてしまっているせいだろう。

 この安易なムードは報道だけでなく、国会での議論も歪め始めている。

◆歪み始めた国会での議論

 文部科学省はいよいよ、統一教会に対し、宗教法人法で規定された「質問権」を行使するのだという。本件に関し報道は「文科省は、旧統一教会をめぐり、組織的な不法行為を認めた民事判決が2件、使用者責任が認められた民事判決が少なくとも20件あることなどから、基準に合致すると判断した」(11月9日付 朝日新聞)などと、あたかも文科省が能動的に動いたかのように伝えているが、実態はそうではない。

 そもそも、統一教会の使用者責任や組織的な不法行為を認定した民事判決の存在を根拠に、統一教会に対して質問権を行使し、裁判所に解散命令の請求を行うべきであると文科省に要求してきたのは、野党各党だった安倍晋三横死事件発生直後から、野党各党はこの声を繰り返しあらゆるチャネルを通じて、文科省にぶつけてきた。

 しかしその度に文科省側は「質問権の行使や解散命令の請求権は、あくまでも教団そのものや、教団幹部が、刑事事件で有罪判決を受けた場合にのみ行使されるものだ」と言い張り、野党の要求を拒絶しつづけてきた。現場の文科省がそうである以上、政府見解も全く同じもので、今国会開催後の総理答弁もこの線を維持していた。

 文科省・政府のこの頑なさは一概に批判されるべき代物ではない。現に過去の「解散命令の請求」が刑事事件の有罪判決に起因するものばかりである以上、また「質問権」が宗教法人法に新設されたきっかけが、オウム事件という紛うことなき刑事事件であった以上、政府が解散命令の請求権や質問権の行使について抑制的な態度をとることはむしろ好ましい姿だと言うべきだ。

 しかしこの政府の見解が急遽、崩壊する。きっかけは10月17日から19日にかけての岸田総理の国会審議の〝崩壊〟にある。

 17日午前、総理は永岡文科大臣に統一教会に対する質問権の発動を指示した。そして総理は同日午後の衆院予算委員会で「統一教会に関しては民法709条を根拠とした組織としての不法行為を認定する判決がでている」ことに言及するとともに「質問権の発動は、解散命令の請求を視野に入れたものである」旨の答弁を行っている。しかし翌18日になって総理は、衆院予算委員会で「民法上の不法行為は、解散権の請求の根拠にならない」と、前日の答弁と全く逆の答弁を行ってしまう。政府答弁の迷走ぶりを野党が放置するわけもなく、総理は翌19日釈明に追われ、同じく衆院予算委員会にて「民法上の不法行為の認定も、解散命令請求の根拠たりうる」と明言し、政府答弁がその線で確定するという事態となった。この答弁で、質問権の行使はおろか、解散命令の請求まで、今の状態でも十分行使可能となったのだ。つまり、これまで頑なに守られてきた政府見解は一瞬にして180度の大転換を見せたことになる。

◆「民主主義の敵」は誰なのか?

 こうした岸田総理の迷走ぶりは当時「朝令暮改」とメディアからの批判を浴びていたのでご記憶の方も多かろう。だが問題は「朝令暮改」であることそのものではない。問題は、結果的にであるにせよ、政府見解が180度違ったものになったにもかかわらず、法解釈の大転換に至るに相応しい慎重な検討が政府部内において一切行われていないところにある。

 確かに「民事裁判の判決も解散命令請求の根拠たりうる」という解釈変更に関しては、総理が内閣法制局にその検討を命じたようではある。しかしそれは、18日に総理が衆院予算委員会で「民法上の不法行為は、解散権の請求の根拠にならない」と答弁してしまい、17日答弁との齟齬が生まれた後のことである。ありていに言えば、内閣法制局は、総理答弁の矛盾に対する弥縫策の策定を命じられたに過ぎない。

 本来総理は、17日午前に永岡文科大臣に質問権の発動を命じる前に、内閣法制局をはじめとする政府関係部署に、慎重な議論と法解釈変更を根拠づけるロジックの構築を命じておくべきだったのだ。だが総理はそれを怠った。そのタイミングでの慎重な検討を怠ったがために、答弁に矛盾をきたし、その矛盾を解消するためだけに政府見解を180度転換するという醜態を晒すことになったのだ。

 総理がここまで焦った理由は明白だ。総理は低下する一方の内閣支持率だけを気にしていた。どの世論調査でも統一教会問題こそが内閣支持率低下の主要因であると伝えている。拙速にすぎた永岡文科大臣への質問権発動の指示がなされた10月17日月曜日だったのは偶然ではなかろう。週末に実施された報道各社の世論調査の結果を意識していたことは明らかではないか。そう考えると総理の姿勢には、統一教会に対して断固たる処置をとる決意もなければ、世論に抗ってでも法を守ろうとする覚悟もない。これでは、単に世論に流される凧のようなものでしかないではないか。

 報道も政治も、沸騰する統一教会に対する世論に流され、報道の原則や、法治の原則を曲げるようであれば、もはや処置なしとしか言いようがなかろう。この有様では、メディアや政府の方が、統一教会よりも悪質な〝民主主義の敵〟と言わざるを得まい。
<文/菅野完

初出:月刊日本12月号

―[月刊日本]―


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