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なじみ客の清武さんと「3日前、さっぱり売れなくて困っていたら、清武さんが2回も来て全部買ってくださったの」

【前編】戦後の混乱期、13歳で花を売り始めて68年。最後の“銀座の花売り娘”81歳より続く

「お花はいかが? おみやげにいかがですか」

赤や黄色のバラを中心にアレンジした花束をいくつも抱え、黒塗りの車やタクシーが渋滞する銀座のネオン街で人びとに声をかけるが、立ち止まるどころか目を合わせてくれる者さえいない。

「昔は、花、花ってお客さんが集まってきて大変だったのよ。でもいまはぜんぜんダメね。3千円の花束を千円に値下げしても買わない。みんな余裕がなくなったのね」

銀座の西五番街通りと花椿通りが交差する一角を拠点に界隈を歩きまわり、花束を売っているのは、最後の“銀座の花売り娘”木村義恵さん、81歳だ。あざやかな青いセーターにバラ色のストール、黒いポシェットを肩掛けした木村さんは口調も足取りもはつらつとして、その年齢をまったく感じさせない。

終戦直後の混乱期、♪花を召しませ 召しませ花を~と岡晴夫が歌って大ヒットした『東京の花売娘』(※)にあるように、銀座や有楽町、新橋では多くの若い女性が通行人に花を売っていた。

木村さんが銀座で花売りを始めたのも13歳のときだ。引退した時期もあったが、復帰して40年たったいまも、土日祝日以外は夜8時から11時、時には0時過ぎまで銀座の路上で花を売り歩いている。木村さんは銀座の、いやおそらく東京で最後の“花売り娘”だ。

記者が初めて取材に訪れた10月下旬の夜は冷え込んだが、木村さんは平気な様子。

「冬でも歩いていると汗かいてくるよ。だから首のストールはタオル地。1日1万5千歩は歩くね」

そんな話をしていたとき、若いサラリーマンが声をかけてきた。

「あら、お兄ちゃん、久しぶり!」

木村さんは笑顔で立ち話。なんでも数年前に彼から「2万円くらいで飲めるいいお店を紹介して」と頼まれたのが出会いだという。

「教えてあげたら花を買ってくれて店のママに持っていったのよ。『楽しい』ってそのお店にずっと行ってる。そういう縁はうれしいわね。去年、群馬に転勤になってからはたまにしか銀座に来ないけど」

コロナ禍の緊急事態宣言のときは、木村さんも1カ月間は家にこもっていたという。いまようやく客足が戻り始めた銀座だが、戦後の混乱期、バブル景気、その崩壊から現在の不景気と、移り変わる銀座を路上から見つめながら、木村さんは花を売り続けてきたーー。

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■かつての銀座は1万円札が飛び交って。チップも1万円だったのがいまは千円が当たり前

当時の銀座は、いわゆるバブル景気の直前である。

「万札が飛び交っていたわよ。石原裕次郎は、そのころたくさんいた花売りみんなの花を全部買ってくれた。脚が長くてカッコよかったわねえ」

さらにバブルの時代、銀座で飲むときは、店のママやホステスに花を買っていくのが男たちの慣習になっていたという。

「会社の先輩から、そう教えられたっていうからね。みんな1万円札で花束を買っていった。いちばん多く稼いでいたときは、月50万円くらいの収入になったわよ」

そんなころ、東京農大を卒業して竹中工務店に就職した長女から「花売りなんて恥ずかしいからやめてよ」といわれた。

「私のことを『花売りババア!』なんていうのよ。だから『花を売ったお金で大学に行けたんだろ。そんなに嫌なら出ていけ』って。出ていかなかったけど(笑)」

銀座で木村さんの2回目の取材をしていた11月中旬である。木村さんのなじみ客である清武徹さんが花椿通りに姿を見せた。一般社団法人の会長のほか14社を経営している清武さんは、数日前の深夜も花をたくさん買ってくれている。

「僕は40年前から銀座で飲んでいるけど、昔の銀座は、“銀座村”という感じだったね。京都でいうなら祇園のようなところで、財布を持つ必要がなかった。締め日に請求書が届くだけ。調子に乗って、バブルのころは月1億円の請求がきたよ(笑)」

清武さんによれば、バブルのころは、店のホステスの管理などをする「黒服」や、車の手配や客の荷物持ちをする「ポーター」といった銀座の裏方たちへのチップは、1万円が相場だった。それがいまでは3千円や1千円が当たり前になっている。

「昔の銀座は粋だったよ。いまはキャバクラやパチンコもできて、もうぐちゃぐちゃ。このごろでは客筋も全然違うね。銀座が銀座でなくなった。いつからここは戸越銀座になったんだって(笑)」

花があまり売れなくなった木村さんと会うと、清武さんはこんな言葉をかける。

「とりあえず10時半か11時までがんばれ。それでも売れ残っていたら、俺が全部買うから」

銀座のそんな人情にも木村さんは支えられているのだろう。10年前に初めて木村さんから花を買ったという上場会社役員の赤城蘭丸さん(仮名)も、そんな一人だ。

「ちょうど家に花を飾りたい時期だったんですよ。車で銀座を通ったら、寒いなかで木村さんが花を売っていた。年齢を聞いたら2年前に亡くなった僕の母親と同じ年で、花が売り切れるまで帰れないと聞いて、全部買ったんです。母に親孝行できなかった分、お役に立ちたいと思ったんですね。それ以来、飲みにいって、たまたま会えば花を買うし、先日も『困ったことがあれば連絡くださいね』と。やっぱり亡くなった母と重ねているんですよね。でも木村さんはいまも本当にお元気で、心身ともに並み大抵ではないです」

木村さんには、以前から花を買ってくれている直木賞作家の伊集院静さんとも、数年前にちょっとおかしなエピソードがある。

「あるとき『あ、伊集院さん』と声をかけたら、黙って花を受け取らずに5千円だけ置いていったのよ。それが3回くらい続いたからさ、まるで私がタカリ屋みたいでしょ。だから伊集院さんの顔を見てもそっぽを向いてたの」

すると伊集院さんの仲間に理由を尋ねられ、「花を持っていかないなんて気分が悪いから」と答えた。

「そうしたら、伊集院さんが『全部でいくら?』と声をかけてきたの。『7千円』っていったら、1万円を出して花をちゃんと持っていった。そういうのならいいのよね」

■お客さんが『いい花を安く買えてよかった』と喜んでくれるのが、いちばんうれしい

それにしても、コロナ禍で銀座は変わったと木村さんは嘆く。

「この間なんか、男の人がお店の女のコに花を買ってあげようと5千円札を出したら、そのコがピッと取り上げちゃったのよ。『花なんていらない。明日の朝食べるパンがいい』って。女のコたちも生活が苦しいからね。いまは、2万や3万で飲める店は厳しいのよ。でも一晩100万~200万使う老舗は流行ってる。格差がすごい。高級な店のお客さんは、ビル持ちとか不労所得のある人、コロナに関係なく景気のいい会社の役員ね。IT系の社長とかも来てる」

並木通りを歩きながら話をしていると、店の場所を探しているらしきカップルがいて、木村さんが声をかけた。40年間、クラブやバーの看板を読みながら歩いている木村さんは、約3千店ともいわれる店の場所が頭に入っている。

「お花いかが。お店を探しているの? なんていうお店?」

しかしカップルはスマホの地図アプリを見ながら、顔も上げずに通り過ぎていった。

「昔はこんなふうに声をかけると、すぐにお店の名前を答えて、案内すると花も買ってくれたけどね」

無視されて心は折れないのか。

「もう慣れた。私はいろんな時代を経験してるから」

木村さんは淡々と答えた。そして、かつて花売りに復帰して数カ月後の武勇伝を話してくれる。

「お店が入ってるビルのエレベーターのところで、60代くらいのお客さんに『お花いかがですか』って声をかけたのね。そしたら、『そんな薄汚い花なんているか!』って。つぎの瞬間、私、その人を引っぱたいちゃった。自分でもびっくりしたわよ。でも後には引けないから、『私は、商品に関しましては絶対の自信を持って販売しております』って捲し立てて、持っていた花束を乱暴に振ったの。花びら一枚落ちなかった。『古い花は売ってないですから』って。

そのお客さん、真っ青になって『俺は、女房にもぶたれたことはない』って私に手をあげようとしたけど、秘書のような人が止めてくれた。『社長、売り言葉に買い言葉ですよ』って。私には『ごめんね。うちの社長は酔っ払うとダメなんですよ』と謝って、持っていた花束をみんな買ってくれたわ」

木村さんが、そこまで激昂したのには理由があった。

「私、花は今日明日で売り切るように計算して仕入れるし、最後はたたき売りみたいにしてでも売るのよ。どんなに眠くても疲れていても一生懸命働いて、変な花だけは売りたくないから」

その姿勢は、40年たった現在でも変わっていない。

「私は、お客さんが『いい花を安く買えてよかった』と喜んでくれるのが、いちばんうれしいのよ」