自分でも意識することのできない心の奥底、すなわち「無意識」を探っていくと、過去のつらい記憶や体験から抑え込んでしまっていた自分の本来の感情が見えてきます。多くの人が経験する感情の奥には、どのような真実が隠されていたのでしょうか。精神科医・庄司剛氏が解説します。※本稿で紹介するケースは、個人が特定されないように大幅に変更したり、何人かのエピソードを組み合わせたりしています。

「落ち込み」を感じるケースの精神分析

誰でも嫌なことやショックなことなどネガティブなストレスがかかると、一時的に気持ちが落ち込むもので、これは自然な感情です。このように原因が分かっていて落ち込むケースもあれば、原因が分からずに落ち込んでいるケースもあります。

後者の場合は触れたくない抑圧されたものが原因の可能性があり、それを探るのは本人にとって、かえってつらくなることかもしれません。ですから必ずしも誰にでも分析的な探求的アプローチをおすすめするわけではありません。しかし時にはそれでも隠された真実に目を向けざるを得ない場合もあるのです。

人間には、喪失を受け入れる「プロセス」がある

かけがえのない人を亡くすのは、とても悲しくつらいことです。愛情が深ければ深いほど喪失感が強くなり、立ち直るまでに時間を要します。なかには、いつまでも心の傷が癒えず、立ち直れない人もいます。

大切な人を亡くしたとき、人間には立ち直るまでのプロセスがあるといわれています。

まず、しっかりと悲しんだり傷ついたりして死を悼んだあと、失ったことを認めて受け入れていくというプロセスです。これを英語圏では「モーニング」(Mourning)といって、とても重要とされています。

日本では「喪に服す」ということで儀式化されていますが、同時に「死を悼む」という精神的な作業が行われることが意図されているといえるでしょう。初七日、四十九日、一周忌などという儀式を経ていくなかで、しっかりと悲しみ、かけがえのないものを失ってしまったということを受け入れていく重要なプロセスなのです、このプロセスがしっかりなされないと、心の整理ができず、無意識的には喪失したことを受け入れられていないなどあとあと問題になることもあります。

【CASE】15歳のときに母が急死したXさん

実際に、Xさん(仮名)の場合も心の傷を癒せずにいました。彼女の父親は出張の多い仕事だったため家庭を顧みず、母親に負担がかかっていました。母親は昼間から体調不良を訴え、寝込みがちでした。そのためXさんはいつも同じ服を着ていて、母親は食事もつくれないことが多かったため、渡されたお金で自分で買ってきて食べることも多かったようです。これはネグレクトではないかと思われますが、Xさんにそういう意識はありませんでした。

そんなある日、母親が事故に遭い、若くして突然亡くなってしまったのです。Xさんが15歳のときでした。しかしXさんは涙も出ず、いなくなっても自分の生活はなにも変わらないから心配いらないと、なんでもないことのように父親に話しました。そんな娘の言葉を信じた父親は安心し、相変わらず忙しく、初七日が済むと仕事に戻って全国を飛び回っていました。

ところが、しばらくするとしだいにXさんの気分は落ち込んでいき、学校へ行っても授業に集中できずにボーっとしていることが多くなっていったのです。母親との死別からも1年以上の時が経ち、そもそも母親のことはそれほど愛着はないと思っていたので、自分がなんでこんなにやる気が出ないのか分かりませんでした。

「感情を切り離すこと」で自分の心を守っていた

話してみるとXさんは自分の考えていることをしっかり話せる人で、母親のことについても抵抗なく話してくれました。しかし、「あの人は私の誕生日を覚えていなかった」「お弁当をつくってもらったことが一度もない」など、残念に感じたはずの思い出を、なんの感情も交えずに淡々と話すのが印象的でした。Xさん自身、それらをつらいことだとは感じておらず、そういうものだからと最初から諦めてしまっているようでした。だから母親を恨んだり憎んだりすることもまったくなかったのです。「今考えると育児放棄だと思いますけどね」と変に大人びた言い方で他人事のように語るのです。

Xさんにとってこの感情をすっかり切り離して、悟ったような大人びたとらえ方をする考え方が自分の心を守る術でした。感情を取り戻してしまったら、昔からの両親の育て方に関する恨みつらみはもちろん、母親に対する同情や父親に対する憤り、そして母親を失った痛みまで戻ってきてしまうからです。だから感情は完全に切り離しておく必要がありました。ただそうすると、なにも楽しくないしやりたいこともないし、なんのやる気も出てきません。ただ人生は空っぽで、生きている実感も得られないのでした。

そして屈託なく笑いながらこう言うのでした。「でも先生、感情なんて感じるようになったら、私耐えられなくて死んじゃうよ。先生もそれは困るでしょう?」

自分の感情をリストカットで「切り離して」いた

最初は話していませんでしたが、何回目かの面接で、生きている実感を得るためにリストカットをしているということも明かされました。自分を傷つけている時だけなにか現実とのつながりを感じるのだといいます。そしてリストカットは自分の感情を感じそうになると、それを文字通り「切り離す」ために行われるということも分かってきました。つまりリストカットすることでリアルな感情をなかったことにしてしまうのです。

もちろん主治医としてはこういった自傷行為をやめることを治療の目標にしたいところはあります。しかし本人はやめたいと思っていないし、実際やめたほうが苦しくなると思っているわけなのです。それは多分事実でしょう。それじゃあ治療にならないから治療をやめるべきなのでしょうか?

私はそうは思いません。自傷の話を聞いたり、見せられたりすることは気持ちが楽になるものでもないし、医師としての満足感もありませんが、その痛々しさに付き合いながら、ともに寄り添うことしかできないと思っています。そして患者さんが心の痛みにも向き合って感情を取り戻していこうとするタイミングを待てたらいいなと思っています。もちろん患者さんの身体的な健康や命に関わるようなときは、本人の意思にかかわらず入院などの強い介入を試みることもあります。

少し話がそれましたが、Xさんが自分の感情を取り戻し、心の痛みを受け入れられるようになったとき、そのとき初めてXさんにとっての母親の価値に気づくのでしょうし、そのとき初めて母親の死を悼むことができるようになると思います。

庄司剛

北参道こころの診療所 院長

(※写真はイメージです/PIXTA)