「VEB152」は、ドイツ初のジェット旅客機で、分断されていた東ドイツが生み出した最初の旅客機でもあります。この外形は「旅客機っぽくない」ユニークさが特徴。それはなぜで、どのような経緯をたどったのでしょうか。

1958年12月4日初飛行

軍民問わず多数の航空機を手掛け、近年ではヨーロッパの大手航空メーカーであるエアバス社の一翼を担うドイツ。同国は第2次世界大戦後、ドイツは東西に分割され、西ドイツは民主主義、東ドイツ社会主義の国となりました。この東ドイツで初めて作られた旅客機で、西ドイツとあわせてもドイツで初めてのジェット旅客機となったのが、1958年12月4日に初飛行した、「VEB152」です。この機は、現代の旅客機ファンの目から見ると、少々ユニークな外形をしているともいえるかもしれません。

この機は、全長約30m、翼幅約25m、重さは最大約45トンあります。客席数は50席前後とされていました。胴体はまるまると太ったようなデザインで、翼が胴体上部に設置された「高翼機」のスタイル。翼端に丸いフェンスが取り付けられているほか、やけに細長いエンジンを特徴としており、まるで旧東側諸国の軍用輸送機のような出で立ちです。

また、旧ソ連旅客機のように、コクピットの窓に加え、機首部分にもうひとつ窓が設置されています。操縦席は、6名体制が標準だったそうです。また主脚も形が特徴的で、2組の主脚がくっつくようになっていて、見ているとバランスが保てるのかと、なんとも不安になるレイアウトです。

なぜこのようなデザインが採用されたのでしょうか。その概要を振り返っていきます。

ソ連の支配下に置かれた東ドイツの航空技術者は、ソ連の技術向上のため同国にわたったのち、再びドイツに戻り、ジェット旅客機の開発に着手することになります。

旅客機の開発では、たとえばアメリカのダグラスの軍用機C-54「スカイマスター」が大ヒット旅客機「DC-4」へ派生したように、軍用の爆撃機輸送機を改修し、客席を設けて旅客機とする例があります。このVEB 152も同様に、東ドイツが設計した爆撃機、OKB-1 150の設計を応用して開発された機体とされ、各所に共通点が見られます。

「VEB152」はどのように“迷機”になってしまったのか

ただ、このVEB152は初飛行こそ成功したものの、その結末は先述の「DC-4」とは対照的なものとなってしまいました。

試作型である1号機は、初飛行後の翌年に実施された2回目の飛行時、高速での急降下に失敗し、墜落。事故原因は完全には明らかになってはいませんが、操作ミスの説が有力です。

VEB152は1960 年、エンジンを換装し、バランスの悪そうな主脚の設計なども見直した2機目の試作機も飛行に成功、その後、そこからさらに改修を加えた3号機も完成しました。ただ、その開発の進み方は当初の計画よりだいぶ遅れていました。

そのようななか、1950年代後半からソ連は、ソ連製のジェット旅客機の開発を優先し、VEB152についてはソ連の国内航空会社では導入しないと発表。そうなると実用化したとしても需要が見込めなくなってしまったこともあり、VEB152は東ドイツ政府からの命令により、開発計画が放棄されてしまったのです。

ドイツ統合後の1995年には、製造途中であった20機ほどのパーツを利用して、VEB 152を復元する計画が持ち上がったようですが、少なくとも筆者が知る限りでは、残念ながらこの機が完成したという情報はないようです。

ちなみにここまでこの旅客機を「VEB 152」として紹介してきましたが、実はこの機は呼称が固まりきっていないという一面があります。たとえば「バーデ152」「B.B.152」そして単に「152」などなど。これまで呼称として使ってきた「VEB」は製造メーカーの名前です。

「バーデ152」は人名からつけられています。由来となったブルノルフ・バーデ氏は東ドイツ設計チームの中心人物であり、この機の“生みの親”。旧ソ連では、機体の名称に開発者などの人名を盛り込むことが一般的であったことかから、この呼称が一般的となったのでしょう。「B.B.152」も、「“B”runolf “B”aade」の頭文字をとったものと思われます。

このように名称が固まりきっていないという面も、この機が実用化からは遠いところにあった、という経緯を示す、象徴的なエピソードの一つといえるでしょう。

当時の航空誌の記事を読んでいると、東ドイツ最初の旅客機の開発に、技術者が苦労して挑んでいる姿を知ることができます。筆者にとってこのエピソードは、どこか、国産旅客機YS-11」開発の経緯と重なって見えるところがありました。

VEB152(画像:ドイツ公文書館)。