販売改革こそ事業部制廃止の「最大のキモ」

 2000年から2006年まで松下電器産業(現パナソニックホールディングス)の社長を務めた中村邦夫氏が11月28日に83歳で亡くなった。

JBpressですべての写真や図表を見る

 中村氏と言えば「破壊と創造」を掲げ、1990年代に低迷していた松下電器をV字回復させたことで知られている。中でも「破壊」に関しては、パナソニック104年の歴史の中でも特筆されるほど大きな出来事だった。

 破壊の中で、多くの人が思い浮かべるのが「幸之助神話の破壊」だろう。「人を大切にする経営」や、「事業部制」など、幸之助が生み出し、その後、多くの企業が模倣した経営システムは数多い。しかしどのような経営システムでも、時代や環境の変化により変えざるを得なくなる。

 ところが中村氏が社長に就任した当時の松下電器は、1989年に幸之助が亡くなってから10年以上経っていながらも、幸之助の言葉は金科玉条であり、幸之助が定めた制度を変えることができずにいた。それが組織の硬直化につながり、業績は落ち込んだ。

 そこで中村氏は「創業者の経営理念以外に聖域なし」を掲げ、過去の遺産との決別に乗り出した。その最たるものが事業部制の廃止だった。

 事業部制は1933年に導入したもの。各事業部はそれぞれ傘下に工場と出張所を持ち、研究開発から生産販売に至るまで独立採算で担当した。つまり事業部が一つの会社として運営されることで、責任感を持たせるとともに経営判断の迅速化を目指した。

 しかし弊害として事業部間に壁ができる。松下電器では横串を刺す組織をつくるなどその解消を目指したがうまくいかない。しかも時代の変化に伴い、事業部同士の連携が必要な商品、システムが求められるようになったが、その対応にも出遅れた。

 こうした事業部制の弊害を解消するには事業部制そのものを廃止するしかない。そう考えた中村氏は、就任1年後の2001年、いくつかの事業部を束ねるドメイン制を導入、さらには事業部から販売部門を分離した。

 販売部門が事業部内にある場合、顧客の声がダイレクトに事業部に届くはずだが、販売担当者も身内の開発・製造部門の状況や苦労を知っているために忖度することもある。むしろ販売部門を独立させれば、販売成績の責任を問われるため、市場が何を求めているかを事業部に強く要求する。つまりプロダクトアウトからマーケットインへの大転換がもたらされることを期待した。この販売改革こそが、事業部制廃止の最大のキモだった。

「創業者が生きていたら同じことをした」

 もう一つの大きな破壊が、人員削減の断行だった。

 1929年世界恐慌が起き、日本も巻き込まれ、翌年から昭和恐慌が起きる。松下電器も売り上げが半減するが、それでも幸之助は「一人の首も切らない、給料も下げない」と宣言し、工場は半日勤務、その代わりに社員は休日返上で在庫品販売を行うことにし、社員もそれを意気に感じて苦境を乗り切った。今ではもはや伝説となったエピソードだが、以来、松下電器にとって人員削減はタブーとなった。

 しかし中村氏が社長に就任した当時、松下電器には看過できないほどの余剰人員が積み上がっていた。しかも業績が低迷しているのに「雇用は会社が守ってくれる」と危機感を持たない社員も多く、それが改革の障害となっていた。

 そこで中村氏は1万人を超える早期退職を募集、人員削減に踏み切り、人件費を削減するとともに社員に危機感を植え付けた。

 こうした改革は、一時的には退職金上積みなどのコストが必要なため、2002年3月期決算では1990億円の営業赤字、4310億円の最終赤字を計上せざるを得なかった。しかし当時、筆者のインタビューに応じた中村氏は、「高く跳ぶためには深く沈み込む必要がある」、さらに「一連の改革は幸之助イズムの否定なのか」との問いには「創業者が生きていたら同じことをした」と意に介さなかった。

 実際、松下電器は2003年3月期に1270億円の営業黒字となり、V字回復を果たす。これにより、中村氏は改革への批判を跳ね返すとともに、圧倒的な求心力を手に入れた。

終止符を打った「松下家による松下電器経営」

 これが、中村氏の松下電器における「破壊」のあらましだ。しかし中村氏は、それ以上の破壊を行っている。それは「松下家による松下電器経営」に終止符を打ったことだ。

 1990年代松下電器にとって最大のテーマは松下家3代目が社長に就任するかどうかだった。当時は幸之助の女婿で、1961年から1977年まで社長を務めた松下正治氏が会長を務めており、さらには3代目の松下正幸氏が1996年には副社長に就任、社長まであと一歩のところまできていた。

 1990年代松下電器は大荒れに荒れていた。まずはナショナルリース事件で、大阪の料亭の女将に800億円を不正融資したというものだった。さらには松下製冷蔵庫に欠陥があり、部品を供給していた他社製品にまで被害が及んだ。

 松下家はこうした状況を利用して経営陣に圧力をかけ、正幸氏の社長就任を迫ったと言われている。これに対し正治氏の次の社長だった山下俊彦相談役があるパーティで記者を前に「創業家というだけで副社長になるのはおかしい」と世襲批判を行い、松下電器社内で次期社長を巡る対立があることが公になる。

 その後、松下家の資産管理会社がバブル崩壊の影響で巨額損失を出し、それを松下電器が支援したことで松下家の影響力は急速に薄れていく。結局2000年に、当時の森下洋一社長が次期社長に指名したのは正幸氏ではなく中村氏で、正治氏は名誉会長となり一線を退いた。これにより3代目の世襲問題は決着した。

 中村氏は2006年に社長を大坪文雄氏に譲り会長に就任するが、影響力を持ち続ける。2008年には、社名は松下電器からパナソニックへ変更し、創業期から使っていて、松下電器の代名詞でもあったナショナルブランドを廃止する。当然ここには中村氏の意向も反映されている。こうして松下家と松下電器の距離はどんどん開いていった。

 正治氏はその4年後の2012年6月に65年間務めた取締役を退任、翌月、老衰のため99歳で亡くなる。2018年にパナソニックは創業100年を迎えるが、翌2019年6月、正幸氏が取締役を退任する。これにより歴史上初めて、松下家の人間が1人もボードメンバーにいなくなった。

 ただしこの段階では、正幸氏の長男、松下家4代目がパナソニックに勤務しており、大政奉還の可能性をわずかながら残していた。しかし今はこの長男も社外に去った。正幸氏は今でも顧問として財界活動を行っているが、松下家とパナソニックの関係は限りなく薄くなっている。

名経営者の評価を大きく落とした「PDP投資の暴走」

 以上、これまで「破壊と創造」のうち、破壊にばかり着目してきたが、創造についても触れておきたい。

 創造の第一歩は破壊でも触れた販売体制の一新だ。販売部門が社内ではなく顧客を向いたことで、一時的には業績を大きく伸ばすことに貢献した。

 そしてメーカーとしてのモノづくりの分野では、「ブラックボックス化」を推進した。ブラックボックス化とはキーデバイスを内製化することで、技術的にも知財的にも他社が追いつけない商品を生み出すことができるという考え方で、その象徴ともいえるのがプラズマディスプレイ(PDP)だ。

 中村氏が社長に就任した2000年は、ブラウン管から薄型テレビへの置き換えが本格的に進んだ年だ。そして薄型テレビには液晶とPDPが覇権を争っていた。両者にはそれぞれ一長一短があったが、中村氏はPDPこそ本命と考え、大規模投資を繰り返した。

 しかし結果は液晶の圧勝で、2005年頃にはその趨勢がはっきり見え始めていた。ところが松下電器は、「デジタルサイネージ(屋外などの映像表示装置)などに活用できる」と、投資を続けた。

 この路線の修正は、後に社長に就任する津賀一宏氏が、AV機器事業を統括する社内分社、AVC社社長に就任するまでできなかった。この後処理のためパナソニックは、2011、2012年度の2年間で計1兆5000億円の巨額赤字を計上、無配に転落した。

 このPDPの暴走があるために、一時はV字回復を成し遂げ「中興の祖」とまで称えられた中村氏の経営者としての評価は大きく下がることになった。つまり、破壊では大きく成果を上げたが、創造では結果が出せなかったということだ。

 ではなぜPDPの過剰投資が起きたのか。それはV字回復によって求心力を得て、絶大な権力を持つに至った中村氏の経営判断に誰もノーと言えなかったためだ。つまり中村氏が登場するまでは「幸之助の定めたことは絶対」だったものが、「中村氏の決めたことは絶対」にすり替わってしまった。その意味で、本当に破壊しなければならない部分を、中村氏は破壊できなかった。本人もそこが無念だったに違いない。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  「経営の神様」と呼ばれた稲盛和夫と松下幸之助には数々の共通項があった

[関連記事]

ソニー元社長の出井伸之氏は本当に「世界最悪の経営者」だったのか

日本の高度成長を振り返る なぜ奇蹟は起きたのか

松下電器産業(現パナソニックホールディングス)元社長の中村邦夫氏(2005年当時、写真:ロイター/アフロ)