半世紀以上に渡った、「ジャンボ・ジェット」ことボーイング747シリーズの生産が終了しました。ただ当初、この機が大ヒット機になるとは想定外のこと。それは「747の父」とされる人物にとってもそうでした。

開発当時は「超音速旅客機」の影に隠れ…

半世紀以上に渡った、「ジャンボ・ジェット」ことボーイング747シリーズの生産が、2022年12月7日に終わりました。最終号機となるアトラス航空向けの747-8F「N863GT」が米国ワシントン州シアトルの工場から出庫したのです。実はこの747シリーズはデビュー当時、ここまでのロングセラー機になるという期待を誰も持たなかったと言い切れるほどのモデルでした。

747シリーズの開発が始まった1960年代、世界が目を向けていたのはSST(超音速旅客機)でした。しかし、騒音問題などから、きちんと就航できたのは英仏共同開発の「コンコルド」のみでした。ボーイングSSTの開発に乗り出しましたが、実現しませんでした。

ただしもし、SSTが期待通りに就航し世界中を飛ぶようになれば、747は当初の予想通り、旅客機から貨物機に転用されたでしょう。747SST就航までの“つなぎ役”だったというのは、多くの人が記憶しているところです。

そして、747により航空史に名を残すこととなった人物がいます。同型機の主任設計者のジョー・サッターです。

ボーイングワシントン州シアトルに創業された5年後となる1921年3月、彼はシアトルに生まれました。幼少のころ、友人たちが操縦士に憧れる中、彼は設計師に憧れていたとのこと。このように夢を果たした彼ですが、「747の父」になるまで、ボーイングでのキャリアは“順風満帆”とはいえないものだったのです。

「747の父」どんな人物だったのか?

747を生み出す前のジョー・サッターは、ボーイングの3発ジェット旅客機727などの開発に貢献しました。しかしその後、同僚たちがSSTの設計陣へ配属された一方で、彼は志願者のいない747の設計に回されました。SSTは当時、花形と目されていたのに対し、747は地味な存在でした。サッターも、口数が少なく社内で目立たない存在だったそうです。

サッターがワシントンへ出張し、747の型式証明をめぐり連邦航空局と激烈な議論をした後に、戻ったホテルで会ったSST開発陣の同僚がサッターへ「(747の開発は)うまくいっているかい。気を落とすなよ、そっちでうまくやったら、SSTのほうに呼んでやるからな」と “上から目線”で声をかけてきたこともあったと伝えられています。

しかし、名を残したのはサッターでした。747が長年生産されたのは、SSTの失敗だけではなく、747自体の設計が良かったこともあるでしょう。その後、設計のベースは変えずにハイテク化させた747-400が生み出され、21世紀に入っても、そこから胴体を延長した747-8も誕生。こういった派生型にも対応できたことが、設計の優秀さを示しています。

サッターは晩年に、少なくとも2度来日しています。その時に筆者の知人が会った印象は、「常ににこやかで写真の撮影にも気軽に応じてくれた。設計者のイメージとして想像しがちな気難しさはなく、年齢に比して血色もよく健康そうだった」ということです、

口数が少ないことから、自らが手掛けた製品で力を示すのが技術者と思うタイプだったのでしょう。けれど、半世紀以上前は、サッター自身が歴史に名を残すとは思っていなかったかもしれません。

52年間に及び、1574機も生産された747は、大型機として異例の長寿と言ってよいでしょう。サッターも95歳まで長生きをし、2016年に亡くなりました。大量輸送を担い続ける747と設計師の夢を実現し名を残したサッター、機体も人も初志を貫いたと言えるでしょう。

ボーイング747(画像:ボーイング公式SNSより)。