インターネットと現実の境目がぼやけて、というよりも、かつては現実社会から切り離されたところにあったインターネットが今や日常生活の中に完全に組み込まれている。特に2010年代以降は、インターネット上で起こった出来事がそのまま現実社会に影響を及ぼす時代となったように思う。

 これまでは少数の発信側による情報を閲覧するなどして、いわばコンテンツとの関わり方が「受動型」だった。しかしSNSの普及によって、今では個人が誰でも、気軽にコンテンツを発信することができる「能動型」へと劇的に変遷した。

 いわゆる「1億総発信時代」への突入である。

「1億総発信時代」の“功罪”

 この「1億総発信時代」には良い面と悪い面があって、これまでオフラインに限られていたコミュニケーションや交流を活性化させた。また、情報伝達の速度上昇に加えて、アクセスできる情報量が圧倒的に多く、多様になって「ほしい情報」がすぐに手に入ったりするようにもなった。

 反対に「オフ会」のハードルがこれまでより幾分か下がったことで、インターネットを通じて出会った人から犯罪被害に遭ったり、デマの流布、偽の情報や悪意のあるコンテンツの数も増えてしまったことで、日々、目に飛び込んでくる膨大な情報量の中からひとつひとつの事象を慎重に精査しなくてはならなくなったりと、あらゆる責任が個人のネットリテラシーに委ねられる時代になったとも言える。

 特に近年問題だと感じるのは、今までの人間関係では人目をはばかられるような過激で差別的な思想が「SNS」という、より実際の人間関係に近いプラットフォームを通じて共有できるようになったことだ。たとえ人道に反する論理であっても共感してくれる「仲間」が見つかったことで、それがさも正当性を帯びていて、多くの人々に支持されている真っ当な考え方であるように錯覚してしまう。こうしたエコーチェンバー現象は、エスカレートして暴力性を生む。

SNS言論のエコーチェンバー化」については、2020年日本語学者の飯間浩明氏もツイッター上で指摘している通り、これまでもSNSの発展とともに危惧されてきた問題のひとつであるといえる。

批判したい相手をカテゴライズする人々

 例えばSNS上で何かが起きた時、批判したい相手をわかりやすい属性に雑にあてはめ、カテゴライズして「ほら、あいつらやっぱりヤバイ人たちなんだよ」という風に持論の補強材料にする人たちが多く見られる。

 最近で言えば、ひろゆき西村博之)氏が、辺野古基地新設への抗議活動が行われている場所に掲げられた看板横でピースしながら撮った写真を、Twitterに「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」という文言とともにアップした件もそうだった。

 この投稿におけるひろゆき氏の一連の発言については地元で抗議活動を行なっている当事者たちの激しい反発を買っただけでなく、日本中から批判が寄せられた。もちろん、ひろゆき氏の言動を「正しい」と支持する人々もたくさんいた。

 さらにこの投稿があった4日後には、同氏が毎週金曜日にMCを務めるネットの報道番組内(ひろゆき氏の辺野古訪問に取材で同行していたのも、同番組)で「抗議の声をどう発信? ひろゆき&せやろがいおじさん」という特集が組まれた。その生放送ひろゆき氏、アナウンサー、番組コメンテーターたちが、特集ゲストとして招かれた有識者たちと議論を交わす一幕があった。

 ただ、その日実際に番組内で起こったことは到底「議論」と呼べるようなものではなく、ひろゆき氏やコメンテーターらが、ただ単に屁理屈で有識者からの批判や指摘をかわし続けたり、的外れな返答をしたりするだけのひどい有様であった。

ひろゆき」「座り込み」という言葉がツイッターのトレンド入りする事態に

 今回の問題でカギとなっているのは「辺野古基地に賛成か、反対か」「辺野古での座り込み運動に賛同するか、そうでないか」といったことではない。

 わざわざ抗議運動の場に出向き、(工事をしている時間帯でなかったために)人がいないことをあげつらって「(自分たちがイメージしている)座り込みをやっていない」「僕たち日本の多数派にも(座り込み24時間行われているわけではないこと、看板に書かれてある日数が『連続』ではなく『合計』であることが)わかるように説明してくれないと誤解が生じる」だのと屁理屈を並べて、自分たちがこれまで全く関わろうとしてこなかった問題に声を上げ続けてきた当事者に対して、外側から彼ら彼女らの抗議する権利を侵害し、その顔を踏みつけたことが問題なのだ。

 にも関わらず、次々と論点をすり替え、番組側の面々が議論のスタート地点にすら立とうとしないあの場で、ひろゆき氏に対して「『俺にわかるように説明しろ』じゃなくてもっと勉強してください」と冷静に指摘した沖縄タイムス記者の阿部岳氏は本当にまともであったと思う。

 有識者として招かれた3人がいずれも怒りをこらえつつ、番組側が用意した議論の場に極めて冷静に、真摯に向き合おうとしていたにもかかわらず、結局は誰もひろゆき氏の暴走を止められず、あろうことか彼を擁護し、同調した。さらに暴力的な発言を次々と行なったことは、本当に残念でならない。

 そしてこの番組の放送後には、ツイッターでも様々な意見が飛び交い、結果「ひろゆき」「座り込み」という言葉がトレンド入りを果たす事態となった。

 しかしながらこの渦中、あくまで「ひろゆき氏や番組の行いは不適切であり、問題があった」と指摘・非難しただけにすぎない人々のことを「左翼(パヨク)」や「活動家」だと勝手に決めつけて(カテゴライズして)、「左翼批判」「活動家批判」をしたい人々がSNS上に殺到。次々と「お前らはいつもこうだ」と罵詈雑言を浴びせる行為が横行した(持論の補強)。

 そして、自分たちが「活動家」だとみなしている人々の過去の行いを持ち出しては「こんなことを言いながら、こいつら活動家は金を不正に受け取っている犯罪者だ」とか「自分たちの都合が悪いことを追及されたときはだんまりを決め込んだくせにw」とか勝手なことを言い始めた。

 さも今回の件について批判をしているだけの「個人」が、金を不正に受け取ったりだんまりを決め込んだその人物と同一であるかのように、罪をなすりつけて語られる様子は異常そのものであった。

2ちゃんねる化する社会」によって危うい言論が影響力を発揮

 彼らは(今回のケースでいうと)「抗議活動をしている人」や「活動家」に対してもともと少なからず偏見や批判的な目を持っていて、今回「何が問題なのか」を考える気はさらさらなく、最初から「ほら、やっぱりこの人たちヤバイでしょ?」という風に冷笑・嘲笑の的にしたかっただけではないか。

 そして反対に、ひろゆき氏とその擁護派を批判したい「だけ」の人々も、彼らを「ネトウヨ」と定義することでいよいよ「あの問題の本質はなんなのか」という部分についてはほとんど注目されず、最終的にいつものパヨク」VS「ネトウヨ」論争に帰結してしまっていた。大変残念な結果だったと思う。

 匿名のアカウントだけならまだしも、実名で顔出ししている著名人を含めたアカウントですらもこのような偏見に満ちた加害行為に加担して互いを貶し合っている。その有様を見ると、これまで「現実世界」では共有をはばかられてきた思想であっても、画面を通してであれば表明する抵抗が薄れたり、仲間が見つかりやすかったりして、歪んだ「連帯感」や「仲間意識」のようなものが醸成されてしまったのではないかと感じる。

 かつては「ただのネットの書き込み」として相手にされなかったような危うい言論ですら、現実の世界において「相当の価値があるもの」として影響力を発揮してしまっている。この現状は、「2ちゃんねる化する社会」とでも言うべきか。

 なんの努力も行動もせず、他人を蔑み、貶めることで「自分が優位に立っている」ように見せかけ、自尊心を保つのはさぞ楽なことだろう。水は低きに流れ、人は易きに流れる。その快感に依存する人が多いのも、理解はできる。

足を引っ張りあっていると社会や経済の成長は止まる

 生活保護を受給できず生活困窮している人々の問題について論じれば「自己責任外国人ナマポを許すな」という意見がSNSに溢れ、女性差別の問題を論じれば「クソフェミ」「女さん必死すぎw」などと罵倒される。ここでは書けないような差別的な言葉を投げつけられたりもする。そしてその光景を見ている人たちの中には、攻撃者の差別的な言動や思想が「正しいことだ」と錯覚し、ますますその思想を強める人も少なくない。

 社会に対して何か行動を起こそうとしている人の口を塞ぐのは簡単なことだ。けれど、それだといろいろな不均衡や社会問題はいつまで経っても解決されないままになる。「2ちゃんねる化する社会」が続けば、次の時代へ進むことは非常に困難だろうと思う。

(吉川 ばんび)

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