(北村 淳:軍事社会学者)

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 ハワイ時間で1941年12月7日午前7時40分(当時のハワイ時間は現在のハワイ時間より30分遅れていた。日本時間では12月8日午前3時10分)、ハワイオアフ島上空に接近した日本海軍真珠湾攻撃第一波攻撃指揮官・淵田美津雄中佐は米軍側が迎撃態勢をとっていないことを確認し、航空部隊に突撃命令を発した。命令を受け7時48分から日本海軍航空隊の米海軍真珠湾基地への攻撃が開始された。

 経済力も、軍事力もアメリカの足元にも及ばず燃料をはじめとする天然資源も持ち合わせていなかった小国日本が大国アメリカに対して敢行した乾坤一擲の奇襲攻撃は、戦略的にはともかく、戦闘そのものとしてはワンサイドゲームに近い大勝利であったことは間違いない。

 米海軍将校などに対する大学院レベルの講義でも、真珠湾攻撃における日本海軍の作戦準備から攻撃に至る行動は模範として扱われる。つまり、海軍というよりは軍隊ならば手本にすべき教訓が多々引き出せ、とりわけ緻密な作戦計画を実施するための徹底した猛訓練はあらゆる軍隊が見習わなければならないとしている。

 軍事組織にとって、戦闘で勝利することに次いで重要な任務は平時における訓練に他ならない。真珠湾攻撃に至る日本海軍の猛訓練は「敵ながら天晴れ」と脱帽に値する訓練であったと、米海大学校などでは高く評価しているのである。

ハワイでも記憶が薄れつつある真珠湾攻撃

 その真珠湾攻撃から81年経過した現在、日本でもアメリカでも真珠湾攻撃という事件名は知っていても年月日や大まかな概要(日本海軍空母艦載機の攻撃によってアメリカ海軍太平洋艦隊が大打撃を被り、数カ月間は行動不能に陥ったという程度の流れ)を知らない世代が増えているという。

 真珠湾攻撃が発生したハワイでも、徐々に記憶は薄れつつある。

 筆者が渡米した頃、1990年代初頭はハワイでは「パールハーバー・サバイバー」のナンバープレートを付けた車をしばしば眼にした。

 しかしちょうどその当時、湾岸戦争が始まり、大学院で机を並べていた筆者の友人の何人かはイラクに出撃した。その後もアメリカはアフガニスタン、そしてイラクでの戦争を継続し、やがて対テロ戦争という長期戦に突入してしまった。

 車のナンバープレートも「パールハーバー・サバイバー」が「湾岸戦争負傷者」「アフガン戦争出征者」などのプレートに置き換わっていった。

 アメリカのように断続的に戦争をしまくっている国では、過去の戦争の記憶より直近の戦争や現在進行中の戦争に関心が移るのは当然で、真珠湾攻撃の記憶はかなり薄れてきていても無理はない。

海軍大将と陸軍中将が発していた警告

 とはいうものの、海軍をはじめとする米軍内や軍事外交政策に関わる人々に対しては、「日本軍の周到な準備や訓練、日本側の徹底した情報統制、米側の油断と準備不足、人種偏見に基づいた失策、日本軍のロジスティックス軽視などの、真珠湾攻撃から得られる教訓を決して忘れてはならない」と釘を刺している人々も少なくはない(たとえば『米軍将校のための真珠湾攻撃ハンドブック:忘れ去られたアメリカ海軍戦闘艦隊司令官の警告』カール・オーティス・シュスター著、Amazon Kindle版)。

 とりわけアメリカ側にとって耳が痛い反省点は、日本軍による米艦隊奇襲に備えて戦力強化すべきという軍部内からの警告を首脳陣が聞き入れなかったことである。

 真珠湾攻撃が敢行される10カ月前まで真珠湾の海軍を指揮していたアメリカ海軍戦闘艦隊司令官ジェームス・リチャードソン海軍大将(注)は、日本海軍は空母6隻程度からなる機動部隊を編成しハワイの北西方面に接近し航空部隊を出撃させて、真珠湾基地を空襲するに違いないと推測していた。

(注)その当時は「太平洋艦隊」とは称されておらず、戦闘艦隊司令官が太平洋と大西洋に分割されているアメリカ海軍戦闘部隊を統括的に指揮していた。

 そして、ハワイ地区の陸軍指揮官ハワイ方面陸軍司令官あったチャールズ・ヘロン陸軍中将もリチャードソン司令官の推測に同意した。ヘロン中将は、北西方面からの日本海軍航空隊によるハワイ奇襲攻撃に対して、陸軍も海軍と共同して準備を進めて、弱体であった航空戦力(注)の飛躍的増強や、沿岸砲、対空砲に加えてレーダーシステムの充実を急務として、陸軍首脳部に戦力増強を要請した。

(注)当時アメリカ軍には空軍はなく、地上を本拠地にする航空戦力すなわち後の空軍は陸軍航空部隊であった。

 リチャードソン海軍大将も海軍首脳に、ハワイ方面の海軍戦力増強だけでなく、ヘロン中将が要求している陸軍戦力増強にも協力するように繰り返し要求した。

耳を傾けなかった軍首脳とルーズベルト政権

 しかしながら、海軍首脳陣も陸軍首脳陣も、日本軍ハワイ侵攻が「万が一にも」起こり得るとしても、それは南西方面の太平洋の島嶼を本拠地とした日本海軍水上戦闘艦隊(空母機動部隊ではない)による真珠湾の米艦隊襲撃ということになるであろう、と考えていた。そして、日本海軍の攻撃に備えるよりも、ヨーロッパ戦域での準備を優先させており、ハワイの防備はグリーンランドアイスランドフィリピンに次ぐ低い位置づけがなされていた。

 そのような軍首脳の推測をルーズベルト政権は支持していたため、ハワイの海軍司令官と陸軍司令官の意見に耳を傾けようとはしなかった。

 業を煮やしたリチャードソン海軍大将は、ハワイからワシントンDCに数回にわたって乗り込み、強硬に直談判を試みた。しかし、選挙戦の年でもあったため、ルーズベルト大統領はじめ政権幹部や軍首脳はリチャードソン司令官の警告を取り上げると選挙戦にも影響をもたらしかねないと考え、意見を受け付けなかった。

 結局、1941年2月1日付でリチャードソン海軍大将は戦闘艦隊司令官を解任されるとともに海軍少将に降格されてしまった。リチャードソン司令官の後任には、かつてルーズベルトが海軍長官時代に補佐官を務めたルーズベルトのお気に入りであったハズバンド・キンメル海軍少将が海軍大将に特進し、新設された太平洋艦隊司令官に着任した。

 さらに1週間後の2月7日、ヘロン陸軍中将もハワイ方面陸軍司令官を解任されてしまい、軍首脳の意見に忠実なウォルター・ショート陸軍中将が着任した。

 キンメル司令官とショート司令官の新体制下では、リチャードソン司令官とヘロン司令官によって進められていた日本海軍空母機動部隊による北西方面からの襲撃への防備策は真剣に取り扱われることがなかった。また、前司令官たちはハワイの日系アメリカ市民はアメリカに対して忠誠であると考えていたが、新司令官たちは日系人たちは信用できずスパイ活動や破壊活動をするものと警戒を強めていた。しかしながら、実際にスパイ活動を実施していたのはホノルル日本領事館の武官たちだけであったと言われている。

捻じ曲げられた軍事の論理

 このように、第一線で日本軍と対峙しつつ日本側の戦略や戦術を研究していた「現場指揮官」たちの声が、真珠湾攻撃に際して政府・軍の首脳陣に用いられることはなかった。

 それどころか、軍事の論理が政治の論理によって捻じ曲げられ、政権にとってのイエスマン的な軍指導者が前線に配置されてしまったため、リチャードソン大将が危惧していた通りに北西方面からの日本海軍航空部隊の奇襲を受けることになってしまったのである。

 真珠湾攻撃は、軍事において軍事の論理が政治の論理(あるいは財政の論理)によって不当に捻じ曲げられてはならない、という教訓をいまだに物語っているのである。

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真珠湾攻撃機から撮影した攻撃状況(出所:米国連邦議会図書館)