日本の経済ジャーナリズムは財政を引き締めろ、均衡財政にしろとばかりに、世論を誘導します。この結果、需要が縮小して景気が後退します。日本経済の分岐点に幾度も立ち会った経済記者が著書『「経済成長」とは何か?日本人の給料が25年上がらない理由』(ワニブックスPLUS新書)で解説します。

経済紙は大事な人の心の問題を無視する

■経済紙の宿命

日経新聞』記者時代、頻繁にアメリカに出張していたころに親しくなった人のひとりに、カトリック系新聞の記者がいます。元『フィナンシャル・タイムズ』のアメリカ総局長をやったイギリス人でした。

彼に「『フィナンシャル・タイムズ』の幹部までやったのに、なんで宗教関係の新聞の記者をやってるんだい」と聞いたら、「ミスター・タムラ、『フィナンシャル・タイムズ』って経済紙だろ。そういうお前さんも経済紙の記者。経済紙って大事な人の心の問題を無視するんだ」と答えました。

要するに、何かヒューマンな要素が経済ジャーナリズムには欠けているというわけです。経済というのは、株式、金利、企業利益など数値で表される世界が主ですから、どうしても数値化できない人の心が捨て去られてしまうのです。そして、そうしたデータ情報の出し手である政府や企業、金融機関には甘くなる。謂わば、体制に順応しがちになるのです。

ワシントン・ポスト』や『ニューヨークタイムズ』のように、ホワイトハウスとの喧嘩も辞さないという毅然とした対応はできない。実際、両紙はニクソン政権のときにウォーターゲートやペンタゴン・ペーパーズのスクープをやり、全米を震撼させました。

「書きたいことが書けない」のは経済紙の宿命みたいなものかもしれません。財務省の権威に頼らざるを得ないとか、メガバンクを揺るがすようなスクープを打つと社会に悪影響があるとか、いずれにしても取材源なので、記者はそっぽを向かれたくない。政治部の記者も時の政権に弱いということがあります。

直接取材対象になる組織や人を情報源にしなければいいのですが、一方で情報は取らないといけないので、そうも言っていられない。

どうしても人情というものもあります。ウォーターゲート事件をスクープした『ワシントン・ポスト』の記者はボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインですが、バーンスタインが自著で、大統領といつもファーストネームで呼び合うような仲では、世間を騒然とさせる大スクープは取れないと書いていたことを思い出します。人情が邪魔するのでしょう。

思えば、親しくなった経営者(貴重な情報源になった人が複数いますが)に関しては、確かに書きづらい。ただ社会的に、あるいは国民的に重大な影響がある話だったら、遠慮せずにきちっと書きます。情報源については絶対明らかにしないなど、配慮をしつつ書きます。そのほうがあえて秘密情報をリークしてくれた相手のためになりますし、結局リスペクトされると思うのです。

逆に相手のことばかり忖度して何も書かない、あるいは提灯記事を書くとバカにされるし、舐められます。日本のエリートはさすがにそういうことはわかっています。政治家でもきちんとした人はそうです。大体は「お、書いたな、君は」と評価してくれる。

私はずっと、それこそアベノミクスの前から、もっと財政出動と金融緩和の両方を積極的にやらないとデフレから脱却できないと書いてきました。それで安倍晋三元総理がアベノミクスを始めたとき、当然正しい政策だと擁護する記事を書きました。

ただ、消費税の増税をするときには猛烈に反対をしました。でも安倍さんは私を評価することはあっても、恨むことはないと確信しています。財務省の幹部は、私がきちんと筋を立てて、緊縮財政消費税増税を批判するとしっかり読んでくれても、反論しようとはしません。「金持ち喧嘩せず」、かもしれませんが。

財政均衡主義と金融経済偏重主義

■日本の経済ジャーナリズム

日本の経済ジャーナリズムは、『日本経済新聞』に代表される考え方ですが、財政均衡主義です。つまり政府の収入が支出と等しい状態を理想とします。そのため現下の日本の財政赤字を非として増税、消費税の増税を提言しています。これでいかに日本の進路を間違えてきたか。

それからもうひとつは、デフレを放置する考え方です。少し需要が拡大してきてデフレからの回復が期待できる状況になったら、すぐに消費税の増税を強く唱える。そしてまた需要を縮小させて元の木阿弥にしてしまうのです。

さらにもうひとつは、実体経済を軽んじる金融経済偏重主義です。要するにお金が余ってもいい、そのお金が金融市場に流れて大いに賑わえばそれでいいという発想です。ほんとうは余ったお金を実体経済に回すべきなのですが、その必要性は黙殺する。

さらに金融経済偏重主義に市場原理主義が加わる。市場原理が最も働きやすいのは金融市場なのです。売りと買い、つまり需要と供給に任せれば金融市場は活発に動きます。それで金融市場が栄えてくれれば、実体経済もつられてよくなると思い込んでしまっているわけです。実際そうでないことは、この四半世紀の日本経済の低迷がすべて証明しているわけですが、いまだにそういうことを言っています。

実体経済、とくに需要を動かすいちばん大きな要因になるのは財政です。ここまで何度も述べてきたように、国債に代表される財政こそは実体経済と金融経済を繫ぎ合わせるのです。ことに慢性デフレの日本経済では財政出動がなければ、人もモノもカネも実体経済のなかで回りません。

それなのに『日経新聞』のような経済ジャーナリズムはもとより、一般紙の代表格である『朝日新聞』も財政を引き締めろ、均衡財政にしろとばかりに、世論を誘導します。この結果、需要が縮小して景気が後退します。家計や企業は消費も投資もしません。そんな状況下なのに、さらに政府に財政均衡を進めて、借金を減らしなさいと主張する。

何度も言いますが、借金を減らすということは、国民から税金を吸い上げて、その税収を借金の返済に回すということです。そして返済に回されたお金は銀行へ行きます。そして銀行はデフレで経済が縮小しているので、そのお金を融資に回しません。より良い利回りを求めて、金融市場を通して海外に投資します――短期金融市場にお金が流れ、それを外国の投機的なファンドなどがどんどん吸い上げます。日本の金融機関そのものが海外に持って行くケースもあります。

本来的には日本の経済を好転させるはずのお金が日本の実体経済に回らず、金融市場を通じて海外に出て行っているのです。

これを結果的に主導している経済ジャーナリズムの桎梏から自由になって、有権者も政治家も経済成長のためには何が必要か、もう一度考えてほしいと思います。

田村 秀男 産経新聞特別記者、編集委員兼論説委員

(※写真はイメージです/PIXTA)