令和5(2023)年に開場100周年を迎える大阪松竹座。大正12(1923)年5月に道頓堀に誕生し、「映画と実演」という斬新な興行形態でスタートを切った劇場は、時代やニーズに合わせ、これまでに二度の大きな転換期を経て、今日に至っている。コラム(松)はこちら

まず、一度目の転換点は昭和の時代。終戦を迎えた昭和20(1945)年8月に興行を再開した大阪松竹座は、映画の上映をはじめ、同劇場が生み育んだ大阪松竹歌劇団(OSK日本歌劇団の前身)の公演を上演し、大阪の街に再び文化芸術のあかりを灯し始めた。戦時中禁止されていたアメリカ映画が翌年春には解禁され、名画『カサブランカ』などを上映。松竹映画の上映館に切り替えた時期があった後、洋画の封切館として再発足し、大ヒット映画『風と共に去りぬ』の上映、朝比奈隆率いる関西交響楽団のコンサート、ジャズトランペット奏者で歌手のルイ・アームストロングら海外芸術家の来日公演といった、実に多彩な興行を開催し続けた。

その後、大阪松竹座で9歳の時にデビューした大阪出身の世界的バイオリニスト、辻久子のクリスマスコンサートを昭和34(1959)年に行ったのを最後に、映画人気の高まりを受け、新作映画の封切り劇場に専念することとなった。それからは、大阪を代表する洋画中心の映画館として、『E.T.』、『ラストエンペラー』といった数々の人気作を上映し、長らく人々に親しまれてきたのである。

そんな大阪松竹座が二度目の大きな転機を迎えたのは、平成という新たな時代に入ってからだ。松竹は平成7(1995)年の創業100周年を見据え、道頓堀の再開発を計画。創建から約70年の歳月を経た大阪松竹座のリニューアルに取り掛かった。しかも、建物や設備などのハード面だけでなく、「演劇の殿堂」へとスタンスを変える大きな改革だった。大阪松竹座の藤田孝支配人は「その頃の映画興行は、大きな劇場で大規模作品を上映する時代から、複数のスクリーンを持つマルチプレックスシアターで効率的な興行をする時代へと変化し始めていました。そこで大阪松竹座は、映画から演劇専門劇場へ一気に舵を切ったのです」と経緯を語る。

『古式顔寄せ席手打式』 (c)松竹

『古式顔寄せ席手打式』 (c)松竹

平成6(1994)年4月から「喝采〜エピローグシアター」と題して名画を次々と上映し、5月8日の『風と共に去りぬ』で映画館としての役目を終えた。同月に人気グループTOKIOによる史上初の1日10ステージという2日間のコンサートを行った後、解体、新築工事に着手。そして、平成9(1997)年2月には真新しい劇場の新築開場式が開かれ、歌舞伎俳優が集結しての『古式顔寄せ手打ち式』が厳かに行われた。

現在の大阪松竹座 撮影=福家信哉

現在の大阪松竹座 撮影=福家信哉

演劇専用となった新劇場は、地上8階地下2階建てで、可動式のプロセニアム(額縁)、廻り舞台(盆)、オーケストラボックスなどを完備。多様な演劇に対応できる工夫がなされた。最も注目されたのは、「道頓堀の凱旋門」と呼ばれてきた大阪松竹座の顔であるネオルネッサンス様式のファサード(正面玄関)を遺したことだ。「以前の位置から道路側へ移動させる、大変な難工事だったと聞いています。この時、ファサードを何とか遺した先人の思いを大事にしないといけないですし、ファサードを守ったことが100周年に繋がっていると思います」と藤田支配人。平成7(1995)年1月17日阪神大震災の時には、本体の解体が終わり、ファサードだけが立っている状態だったが、大きな揺れにもびくともせず、震災を見事に乗り越えたのも、大阪松竹座にまつわる逸話のひとつである。

『松竹座新築開場記念杮葺落公演』 (c)松竹

『松竹座新築開場記念杮葺落公演』 (c)松竹

『松竹座新築開場記念杮葺落公演』は、3月から3カ月連続での歌舞伎興行。東西の重鎮、花形、若手俳優が出演する豪華な顔ぶれで、3月は文楽座の太夫と三味線も特別出演して、荘重な御祝儀曲「寿式三番叟」で幕を開けた。翁を十七世市村羽左衛門、三番叟を五世中村富十郎と十八世中村勘三郎(当時、勘九郎)という配役。この月には七世中村芝翫、四世坂田藤十郎(当時、中村鴈治郎)、二世中村吉右衛門、十五代目片岡仁左衛門(当時、孝夫)らも出演し、華々しい幕開きとなった。

4月には、関西で生まれ育った生粋の上方役者を育成しようと「松竹上方歌舞伎塾」を開塾。それまで歌舞伎を観たことの無かった一般家庭出身の若者たちが、最初の一歩を歩み出している。

演劇、そして上方の歌舞伎の新たな発信拠点として、大阪松竹座は大きな期待と使命を背負い、晴れやかに船出したのだった。

取材・文=坂東亜矢子

昭和27年9月『風と共に去りぬ』上映時の外観