超音速旅客機の代表格といえば「コンコルド」――ですが、実はそれよりも早くデビューした旅客機がソ連に存在します。どのような機体だったのでしょうか。その経緯を見てきます。

1968年12月31日飛行

超音速旅客機といえば「コンコルド」ですが、実はそれより早く初飛行に成功した、世界初の超音速旅客機があります。それが、1968年12月31日に初飛行した、旧ソ連のツポレフ設計局「Tu-144」です。この日はまだ超音速でのフライトはしていませんでしたが、それでも「コンコルド」初飛行の3か月前。また翌1969年6月5日には「コンコルド」よりも早く、マッハ2の超音速飛行を記録しています。

ただ、実際に長く旅客を乗せて飛んだ超音速旅客機は歴史上、「コンコルド」の一1型式のみ。コンコルドより早かった「世界初の超音速旅客機」とは、どのようなものだったのでしょうか。

Tu-144は、直径3mの胴体を持ち、長さ約66m、幅約29mの縦長なフォルムが特徴です。客席は、横2-3列のレイアウトで、約100席を搭載できるのがスタンダードな仕様です。とはいえ、「コンコルド」よりは少し大きいものの、尖った鼻先や特徴的な翼型は、まるで「コンコルド」そっくり。そのことから、欧米を中心とする西側諸国では「コンコルド・スキー」と揶揄されたこともありますが、一1点、外観に違いがあります。

それは機首の左右に「カナード」と呼ばれる折り畳み式の先翼が装備されていることです。機首の上下の操縦をより効率的にできるようにするためで、離着陸時に動翼として展開されます。

1950年代から世界の旅客機は、次々とジェット機が生み出されます。ただ、その飛行速度は800km/h程度と今より遅く、速い旅客機が出現したといっても、わずか数十km/hの差でした。

しかし当時も、軍用を含めれば、音速を超えるようなスピードを出せる飛行機は出現していました。これを旅客機に展開するとなると、安全性、経済性の観点からリスクのある選択でしたが、この頃は「将来的には超音速旅客機が民間市場の中心となるだろう」と予測されていた時代で、各国がこういった構想を次々に打ち出しました。

そうしたなか、1970年代に欧米でも超音速旅客機の開発が進みます。英仏共同開発の「コンコルド」のほか、アメリカではボーイング社やロッキード社が開発を計画。また、東側の航空先進国の一角であるソ連でも、国力を挙げてここに加わることになりました。

初飛行に成功したのにトホホ機に?Tu-144のその後

ソ連にはいくつか航空機メーカーの役割を担う企業がありましたが、同国は超音速旅客機の開発をツポレフ設計局に依頼します。これは過去に、超音速飛行が可能な爆撃機Tu-22を開発していたことからでした、

ただ、国の威信をかけて開発したものの、Tu-144はパリショーなどで2機が事故で損失。実用化にもこぎつけたものの、運航期間は3年ほどでした。

最初の超音速飛行を含む便は、1975年12月26日に、モスクワカザフスタン間で始まりましたが、実はこれは、旅客便ではなく、郵便物運搬などを目的とする貨物便でした。また運航期間を通して、ほとんどのフライトは貨物便としてであり、旅客機としての就航は「コンコルド」が先。Tu-144の旅客機としての飛行回数は、100回程度に留まりました。

こうして1983年にソ連はTu-144の開発を中止。ところがその後、ちょっとユニークな後半生を送ります。かつて対立していたアメリカを本拠とするNASAアメリカ航空宇宙局)がこの機を引き取り改造し、次世代の超音速旅客機研究用のテスト機に用いることになったのです。この改修機はロシア語で飛行実験室を意味する「LL」が型式末尾についたTu-144LLとして、1999年に超音速でのテスト飛行が実施されています。

実は「コンコルド」とTu-144の生産機数は、ともに16機となっています。その一方で初動こそTu-144が勝ったものの、「コンコルド」は1976年から2003年まで超音速飛行を用いた営業運航を継続しました。もしかするとTu-144は、「急ぎすぎた革新的な民間機」といえるのかもしれません。

ツポレフTu-144(画像:NASA)。