新年1月5日は「囲碁の日」だが、2023年、囲碁界で最も活躍が期待されている女性棋士がいる。上野愛咲美(あさみ/21歳)だ。

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 近年、上野の勢いは目を見張るものがある。男性のトップ棋士を次々と破る姿は圧巻の一言で、女流世界戦でも優勝を飾った。昨年は2年連続の最多勝も獲得するなど、まさに不動の強さを誇っている。

 素顔の上野は明るく屈託のないキャラクターで、ファンの間でも人気者だ。「対局前のルーティンは縄跳び777回」「棋譜並べは疲れる」──少し“天然”が入ったような言動も注目されるが、実は囲碁AI(人工知能)研究の第一人者でもある。いったい上野愛咲美とはどんな人物なのか。

「のんびり好きな碁と向き合っていこう」

 上野が囲碁を始めたきっかけは、囲碁好きでアマ6段の祖父から「囲碁は頭によさそう」と勧められたから。5歳のときに習い事の一環として「新宿こども囲碁教室」の門を叩く。上野が振り返る。

「最初は碁をおもしろいとも思わなかったのですが、教室の近くにサンリオのショップがあって、教室に行けばキャラクターグッズやポップコーンなどを買ってもらえたので、それが楽しみで続けられました。ただ、次第にスキップしながら通うようになったみたいなので、意外と碁も好きだったのかもしれません」

「新宿こども囲碁教室」を主宰する藤澤一就八段は、幼い上野の才能を見抜き、6歳からプロを目指す10人ほどの英才グループに入れた。

 当の上野は「目の前のライバルに負けたくない」という一心で碁に向き合っていたと話す。小学2年生の10月にはプロ養成機関の「院生」になるも、プロになる自覚はなく、やはり負けたくないという気持だけで対局を続けていたという。

 しかし、2年ほどなかなか勝てず、下位グループから抜け出せない時期が続く。「その時は嫌になっていたと思うけれど、すぐ忘れちゃうんですよね」と上野は笑う。ただ、決して努力は怠らず、不調から抜け出すために普段やらないことをやった。

 たとえば、棋譜並べは好きではないが、師匠の師匠である藤沢秀行名誉棋聖の碁を並べたりした。ちなみに上野はパソコンなどで碁を見るのは好きだが、実際に碁盤に並べるのは「手が疲れる」との理由で、いまだに気が進まないのだという。棋譜並べをあまりしないトップ棋士など、昭和の感覚では驚愕もので、ごく少数派だろう。

 プロ試験は小学5年生からじつに6回トライして不合格だった。

「男女一緒の一般試験で1回、女流試験で1回と2回続けて次点だったときには、どうしてあと一歩なのにプロになれないんだろうって、控え室でさすがに落ち込みました。もう諦めようかと思ったこともありましたが、碁のほかに得意なことはないし、学校の勉強も好きじゃない。それだったら、18歳の年齢制限まではとりあえずのんびり好きな碁と向き合っていこうと心に決めました」(上野)

 そして、2016年に7回目のトライで見事合格。上野が14歳のときだった。

女性棋士活躍の扉を開けた上野

 プロ入りした上野は2年目の2018年、16歳3カ月で女流棋聖戦に勝って初タイトルを獲得。翌年には、全棋士参加の「竜星戦」で準優勝する。

 決勝戦の相手は一力遼棋聖。筆者も観戦していたが、対局直前の上野は終始にこやかだった。緊張はしないのかと聞くと、「相手が強ければ強いほど打つのが嬉しい。負けてもキズにならないし、勝ったときはすごいハッピーになるから」と至って前向きな上野の姿勢が印象的だった。

 この碁は上野が一力の大石をほぼ手中に収めて追い詰めていたのに、正解がいくつもあるなかで、唯一の失敗ルートを最後の最後に選んでしまい、惜敗した。上野にしては珍しい負け方だった。とはいえ、元名人の高尾紳路九段や現タイトルホルダー許家元十段らを堂々破っての決勝進出は、女性が活躍する新しい時代を感じさせた。

 それからの上野は次々とタイトルを獲得、現在まで10タイトルを数えるまでに成長した。

 囲碁の世界は将棋と違って一般棋戦は男性も女性も同じ土俵で戦っている。とはいえ、これまで日本で女性が「名人戦」や「本因坊戦」などの一般棋戦で優勝し、タイトルを獲得することはなかった。

 しかし、上野が前出の「竜星戦」で準優勝し、あと1勝まで迫ったことで潮目が変わった。

 2020年、藤沢里菜が若手棋戦の「若鯉戦(30歳以下、七段以下が参加資格)」で優勝し、壁がひとつ破られた。そして、翌2021年、2022年と優勝し2連覇を成し遂げたのが上野だった。いまや、男性のトップ棋士に混ざって女性棋士が勝ち進むことも決して珍しくない。実力差はほとんどなくなってきている。

 若鯉戦同様、いまは藤沢と上野のツートップが女流タイトルを分け合っている状況だ。24歳の藤沢は、女流本因坊、女流名人。21歳の上野が女流立葵杯、女流棋聖のタイトルを持つ。

 上野は前述の若鯉戦のほか、昨年4月には藤沢も成しえなかった日本悲願の女流世界チャンピオン(センコーカップ)にもなった。なにしろこの2年間、連続で最多勝を獲得するほど勝ちまくっているのだ。

AI研究で磨きをかけた「独特の感性」

 上野の魅力はひとえに「殺傷力」にある。言葉は強烈だが、死ぬとは思えないような大石を狙い仕留める、プロのなかでも非常に稀で突出している力だ。

 その力を表した上野のニックネームが「ハンマー」。数年前、テレビ棋戦で解説者が「女子高生ハンマーを振り回して追いかけてくる」と上野の棋風を説明したことからこの異名がついた。NHKテレビ講座で講師を務めたときは、ポイント場面で「ハンマーパンチ!」といいながらとびきりの笑顔でピコピコハンマーを右から左に振るポーズで、囲碁ファンのハートを掴んだ。

 だが、ハンマーもやみくもに振り回しているわけではない。上野は碁の勉強を1日も欠かさない努力家だ。詰碁は何時間でもやり、気がつくと1000問を超えることもあるという。

「1日でもさぼると、読みができなくなり、囲碁がぼろぼろになるのです」(上野)

 言ってみれば、上野は目一杯にがんばる棋風なので、読みの裏付けが必須だ。がんばる図が読めないと普通の手を打つことになり、勝てなくなる。

 さらに、上野はプロの中でもかなり早期からAIでの研究を始め、いまや棋士の中でトップクラスに使いこなしている。AIを研究する学者らとも交流があり、座談会などにも引っ張りだこだ。

「AIが研究に使えるようになったことで、強い棋士と研究しても、申し訳ない気持ちがなくなりました」と上野。強い棋士と棋譜の検討をしても自分ばかりの勉強になってしまうが、AIがあれば相手にもメリットがあり、気兼ねしなくなったという。

 ただ、AIが発達しても、基本は人間同士の研究や検討が大切だ。上野もこう言う。

「AIがなぜその手を選び、なぜそのような評価値を出すのかは、結局は自分で考えなくてはいけません。そんなとき、強い先生の意見はとても大事なので聞きたいのです」

 いくら囲碁が職業の棋士だからといって、日々勉強や研究に明け暮れている棋士はどれだけいるだろうか。上野は「勉強していれば運がついてきて、いいところに手が行って打てるようになる」ときっぱり。碁に対する姿勢がよいと必ずよい結果を生むと信じ、毎日を送っているのだ。努力ができる真面目さ、そして才能と独特の感性をうまく融合できているところが、上野の強さだろう。

対局前の習慣「縄跳び777回」の意味

 もちろん気分転換も大切だ。上野のストレス解消法は好きな入浴剤でお風呂に入ること。アロマも好きで、対局中はシトラス系の香りを嗅いでリラックスしている。

 運動は嫌いなのだが、対局の前には必ず縄跳び777回跳ぶという。

縄跳びをすると不思議と勝率がいいんです。運動は嫌でも勝率が高いほうが嬉しいですしね」と話す上野だが、いまやファンの間でも有名なこの習慣、なぜ777回なのか。良い数字だからという理由だと思っていたら、どうやら違うらしい。

「院生のころから休憩時間にフラフープ縄跳び、ランニング、ダンスなどをやっていたのですが、縄跳びがもっとも勝率がいいので続けました。回数もいろいろ試して、777回のときの調子が一番よくて。このベストがわかるまで5年かかりました」(上野)

 こんなところにも緻密な裏付けがあったのだ。

 さて、上野はこれまでタイトル戦になるとなかなか勝てなかった藤沢里菜から昨年、女流立葵戦でタイトルを奪取した。「ハンマー上野」は戦いが得意な一方、藤沢は読みの力と終盤(ヨセ)の緻密さが武器。「半目(最小差)の女王」「リーナ・ゼロ」(囲碁AIソフト『リーラゼロ』をもじっている)のニックネームがついている。

 女流立葵戦で勝ったとき、上野は「苦手なヨセを勉強した成果が出た」と、着実に成長していることを実感したようだ。

 新年、1月19日から女流棋聖の防衛戦が始まる。上野の相手は若手のホープ仲邑菫三段(13歳)だ。伸び盛りの挑戦者を迎え、どんな心境なのだろうか。

「仲邑さんは(藤沢)里菜先生に勝って挑戦者になったので、強さはわかっています。楽しくやろうと思っていますが、絶対に負けたくはありません。女流名人リーグでも負けたので、連敗はイヤです」

 上野、藤沢のツートップに仲邑が肉薄してきている状況だが、子どものころからの負けん気の強さと、囲碁に対する一途な思いを原動力にして、上野は今年さらなる進化を誓う。

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