NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公の徳川家康は、どんな逆境にあっても、耐えに耐えました。決して弱音を吐かず、質素倹約を心がけ、鷹狩りで体を鍛錬し、時節が到来するのをじっと待ち続けました。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

今の時代にふさわしい武将は家康

「戦国の三英傑」を桜に喩えると、信長は「しだれ桜」、秀吉は「八重桜」、家康は「不断桜」ではないか、と私は思う。

不断桜というのは、三重県鈴鹿市の子安観音寺の境内にある「白子不断桜」のことで、四季を問わず花をつける不思議な桜の呼称だ。観音寺から家康最大の危機を救った白子港までは、そう遠くはない。

家康は信長と軍事同盟を結んでいたために、「本能寺の変」で明智光秀に命を狙われ、滞在先の堺から決死の「伊賀越え」をする決断をし、命からがら伊勢湾岸の白子港までたどり着き、そこから船に乗って三河まで無事生還できたのである。

不断桜は、春だからといって華やかに咲くわけではない。だが、夏や秋にも花を咲かせ、冬になると花の数はかなり少なくなるが、それでも咲いている。家康は、信長のような派手な人ではなく、秀吉のような陽気な人でもなく、忍耐の人。その生涯が私には不断桜と重なるのだ。

本連載は「家康の決断」がメインテーマだが、一口に「決断」といっても、「大きな決断」もあれば、「中くらいの決断」もあるし、「小さな決断」もある。毎日の生活のなかで、「これにしようか、あれにしようか」と迷ってどちらかに決めるときの「選ぶ」という行為も「ささやかな決断」である。そんなふうに誰もが数限りない決断を毎日しているが、意識しないだけだ。

ところで、2023(令和5)年のNHK大河ドラマは、信長や秀吉ではなく、信玄でも謙信でもなく、なぜ家康なのだろう。大河ドラマには「時代を映す鏡」としての側面があり、「今の時代に最もふさわしい武将は家康しかいない」と判断したからではないのか、と私は考える。

ロシアウクライナ侵攻、終わりの見えないコロナ禍、暮らしを圧迫する物価高騰、安倍元首相暗殺事件、歯止めがきかない円安、各種指標が示す国力の低下……政治も経済も混沌とし、お先まっ暗で、近い将来の予測すらつかない不安な時代が続いている。

ならば、「ここはひとつ、戦争のない平和な時代をつくった神君家康公の神通力におすがりするしかない」と考えたとしても何の不思議もない。家康は、1615(慶長20)年の「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼすと、高らかに「元和偃武」を宣言している。元和偃武とは、「応仁の乱から続いてきた戦乱の世は終わった。これからは平和な時代になる」という意味である。

家康は、どんな逆境にあっても、耐えに耐えた。決して弱音を吐かず、質素倹約を心がけ、鷹狩りで体を鍛錬した。愚直なまでに信長や秀吉に忠誠を尽くしながら、過去の失敗に学び、人格を磨き、視野を広げることを怠らず、時節が到来するのをじっと待ち続けた。

そういう地味な生き方、地道な努力を重ねるのが日本人本来の国民性であり、美徳だったはずだが、バブル期を境に失われてしまった。今こそ日本人は、「忍耐」「質素」「倹約」「努力」といった愚直な生き方を学び直す時期に来ているのではないか。そう思えてならない。

織田政権は1代限り、豊臣政権は2代で終わったが、徳川政権は15代まで続いたし、信長は49歳、秀吉は62歳で死んだが、家康は75歳まで生きたことも、長寿社会を生きる現代に通じるものがある。だからこそ、家康なのだ。

徳川家康は50代から「大勝負」

本連載では、「決断」を年代別に区切る手法をとっている。年代別に見た家康のキーワードは、10代が「波瀾」、20代は「自立」、30代は「苦難」、40代は「危機管理」で、50代が「大勝負」ときて、60代から70代までは「完璧」を目指すというように位置づけている。

10代の「波瀾」は、6歳から19歳まで続いた「人質暮らし」という「逆境のなかで培かった『選択力』と『決断力』」がテーマだ。家康は、最初は織田家、8歳のときに今川家に売られた。

親が反旗を翻そうものなら報復として命を奪われる。そんな危険と背中合わせの逆境のなかで、家康は逞しく初陣を果たし、今川義元の命で「桶狭間の戦い」にも出陣する。

20代を象徴するのは「徳川家康への改姓改名」で、「信長と結んだ天運と武将家康の『武断』」がテーマだ。今川義元の死で、ようやく自由の身となった。そんな家康に目を付けたのが、桶狭間の戦いで義元を討ち取る大金星をあげた信長だった。攻守同盟の締結を求められた家康は、受諾を決断。弱小大名が生き延びるには、それが最善と考えたのだ。同盟は本能寺で信長が死ぬまで続く。

23歳の城主家康は、「一向一揆」の洗礼を受けるが平定し、三河をほぼ制圧する。20代最後の年に「姉川の戦い」に参戦。家康は、信長が「死ぬつもりか」と驚くほど暴れまわって信長の窮地を救い、「ただ者ではない」「類まれな戦巧者だ」と評判をとる。

30代は、「弱小大名が生き残るための『賢断』」がテーマである。家康は、31歳で〝巨敵〟信玄に挑んだ「三方ヶ原の戦い」で大惨敗を喫したが、34歳のときの雪辱戦「長篠の戦い」では、信長考案の「鉄砲を駆使した新戦法」で無敵を誇る武田騎馬隊を潰滅させ、大勝利をおさめた。

一方、嫁姑問題から信長を怒らせ、正室と嫡男を自ら殺さねばならない辛い決断をし、「軍事同盟の光と影」を身をもって知る30代となった。

40代は、「本能寺の変」で堺から決死の脱出を図る「伊賀越え」で見せた「険しくも相手の虚をつく最短進路を選んだときの『速断』」が主要テーマとなる。スポーツを見ていると、追いつめられて万事休したと思われた瞬間、日頃の猛練習で身につけた技がとっさに出て逆転勝ちすることがある。それと同じで、命の危険が迫ったときの「即断」や「速断」は、それまでの体験から生まれる。

家康は、41歳の年に「天目山の戦い」で武田氏を滅ぼし、「天正壬午の乱」で織田・武田両氏の旧領を獲得するが、信長の後継者を決める「清須会議」では秀吉に先を越され、42歳で「賤ヶ岳の戦い」、43歳で「小牧・長久手の戦い」を体験、目の回るような忙しさのなかで、さまざまな決断を重ねるのだった。

50代は、いよいよ「天下分け目の戦いを制した『勇断』」がテーマである。秀吉が強行した朝鮮出兵では、有力大名らが渡海して疲労困憊し、武断派と文吏派の対立が激化するなかで、家康は朝鮮へ行くことなく、兵力の温存を図った。このことが関ヶ原の戦いを有利にした。

60代からは、政治も人生も最終局面であり、大御所となって駿府に引っ込んだふりをして、江戸の将軍との「二元政治」を開始し、徳川百年の計略を思案する。そして70代では人生の総仕上げとして戦争のない平和な世の中「元和偃武」をつくるために、平家を教訓に豊臣家を「大坂の陣」で滅したのである。

家康の人生は、降りしきる雪のなかの「竹」に似ている。葉に雪が積もると、竹は大きく撓(たわ)むが、折れずに耐え続け、バッと雪を跳ね飛ばす。「撓む」は「撓(しな)る」とも言い、音読みでは「不撓不屈」の「撓」である。どんな困難、辛苦に遭ってもくじけない。それが不撓不屈だ。

人は生涯で幾度、「決断のとき」を迎えるであろうか。自信たっぷりに笑顔で決断を下せる日もあれば、祈るような気持ちで決断する日もあるだろう。さまざまな種類の決断を過去にしてきたのと同じように、これからもしていかねばならない。そういう場面で少しでも役立つことがあれば、幸甚である。

城島 明彦 作家

(※写真はイメージです/PIXTA)