死なないはずの人が死んでしまった。

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 そのようにしか表現できません。2022年末の12月28日にもたらされた建築家、磯崎新氏の訃報です。

 磯さん。私たちはそう呼んでいました。彼の訃報は単に一建築家の死という以上の大きな損失をもたらしてしいます。

 端的に言って2023年、磯崎さんには日本のためにやってもらうべき大仕事がありました。

札幌オリンピック案」の解体です。これができるのは彼しかいなかった。その磯さんが亡くなってしまった。

 すでに2016年6月にJBpressで紹介したように(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47016)、磯崎さんは「福岡オリンピック2016」として、日本列島のみならず韓国をもアスリート船で結ぶ、前代未聞の「モバイル五輪構想」を磯崎アトリエ出身の石山修武さん(早大建築教授・当時)と打ち出し(https://db.10plus1.jp/publish/identity/v/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E5%88%B6%E4%BD%9C%E7%B7%8F%E6%8C%87%E6%8F%AE%E5%AE%A4)ます。

 サマランチ金権体質のオリンピック東アジアから鉄槌で粉砕しようという意気込みです。ところが現実には2006年8月30日、国内の候補地予選で敗れてしまいました。

 利権は理想より強し、という不潔な現実の前に、磯崎さんの旗印は折られた。

 そして、そこで勝ち残ったのが「東京」五輪だったわけです・・・。

 いま東京地検が次々に犯罪事実を明るみにしつつある金権腐敗の東京2020オリンピックへの運命がこのとき分かれたのでした。

 ちなみに票数は33:22だったとのこと。どういう集票戦略と金銭が背後で飛び交ったのか、定かなことは分かりません。

 翌2007年のある日、磯さんから電話があり、六本木の指定の店を訪ねてみると、そこには磯崎新と並んで昭和の怪人「虚業家」康芳夫氏の姿がありました。

友達の友達はアルカイダ

 康芳夫氏をご存知でしょうか?

 21世紀生まれの世代には、もう伝説かもしれません。

アントニオ猪木 対 モハメド・アリ」(1976)はまだしも、チンパンジーと人間の中間存在、ナゾの「オリバー君」招聘(1976)など、実に怪しげなイベントで知られる伝説的人物です。

 私には大学の先輩にあたり、30年ほど時差がありますが同じ学園祭の企画局長としても先輩にあたりました。

 さて、そんな康芳夫氏と私を前に、「福岡オリンピック案」を「東京五輪利権」勢に握りつぶされた直後の磯崎さん、怒りに任せていろいろ咆哮もしていました。

 同時にもっと危なっかしい話題のブレインストーミングになりました。

 磯崎さんからはリビア独裁者カダフィー大佐やイスラム原理主義勢力、さらにはクルド人勢力などからも依頼があり、これをを受けるか、あるいは断るか、といった話でした。

ノアの箱舟が流れ着いた<アララト山>の頂上にクルドゲリラがモニュメントを建てたいっていうんだけど・・・」

 とか

「条件はいいしギャラも破格なんだけど、イスラム原理主義は納期に遅れると、首切られちゃうから」

 とか

「斬首ならまだいい。石打ち刑になるとすさまじい」

 など、およそ建築とプロデューサーと音楽屋の会話とは思えない、深夜の六本木密談の大半は、まあ横に置いておくことにしましょう。

 もういまとなってはみんな死んでしまったので書きますが、「あらら」と思ったのは、ちょうどその当時、世間を騒がせまくっていた、鳩山邦夫・法務大臣(当時)の「友達の友達はアルカイダ」発言の真相です。

https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-28605420071030

 2007年10月29日、都内での講演で、安倍晋三改造内閣から福田康夫内閣にかけての法相であった鳩山邦夫氏は「友達の友達がアルカイダ」であり「その人物が偽造パスポートで日本に出入国していた」ともとれる脇の甘い発言をしたのです。

 2002年の10月、インドネシアバリ島で起きた無差別爆弾テロ事件は 202人にのぼる死者を出す大きな被害となりました。

 この事件に関係していた可能性のある国際テロ組織「アルカイダ」のメンバーが偽造パスポートで国際工作に暗躍しており、その人物から「危険なのでバリ島には出入りしない方がよい」とアドバイスを受けていた、といった内容の発言。

 これに先立って、すでに9月25日、鳩山氏は法務大臣として、今も語り継がれる「死刑ベルトコンベア発言」(https://www.amnesty.or.jp/news/2007/1010_753.html)で、社会の四方八方から矢の批判を浴びていた。

 そこに持ってきて、これまた今や伝説となってしまった、タモリ司会のお昼のお化け番組「笑っていいとも!」まがいの「友達の友達はアルカイダ」と発言してしまった。

 実はこの「友達」というのは、磯崎さんのことなのです。

 サウジアラビア王族などからも建築依頼があった磯崎さん。その中にはビン・ラディン一族もあり、のちにアルカイダに関係した人物もあったらしい。

 そこからの情報として「バリ島は危ないから近づかない方がよい」とアドバイスを受けていたのは、実はほかでもない、磯崎新、その人のことだったのです。

 鳩山邦夫法相にとっての「友達」が「磯崎新」、そして磯崎新の「友達」がアルカイダにも関わりのあった人物。

 ご存知のように磯崎さん自身はおよそテロ行為などとは縁のない知的で冷静な人物ですが、バルセロナオリンピックのスタジアム設計も手掛けた国際的建築家アトリエには、世界各国から様々な打診、依頼がある。

 その大半は結果的に断っていますが、ひとまず話を聞くというところまでは、クルドゲリラでもビン・ラディン一族でもやって来る。

 そういうスケールと広がりのある芸術家は、いま本当に数が少なくなってしまいました。

札幌オリンピックを解体できた最後の芸術家

 磯崎さんは1931年大分県大分市に生まれ、第2次世界大戦を挟んで1954年東京大学工学部建築学科を卒業後、大学院で丹下健三研究室に所属し、30歳で博士課程を単位修了する1961年まで大学にとどまった、

 実は非常にスロースターターでした。

 指導教官の丹下さんとともに高度成長期の日本で「東京計画1960」に携わります。

 引き続き丹下さんの「都市建築設計研究所」に所属して丹下建築の頂点、1964年東京オリンピックスタジアムの設計施工に携わった。

 この間1963年、32歳で「磯崎新アトリエ」を設立。

 初期の傑作とされる「大分県立大分図書館」(1967)など高度成長末期から建築作品を発表し始め、大阪万博(EXPO1970)で「お祭り広場」を丹下さんと共同で制作後、理論と実作で内外の建築、さらには芸術全般を牽引。

 冷戦後期の「ポストモダン」から1990年代「冷戦後」が完全に終結する「2022年ウクライナ戦争」までを生き切った「全身建築家」であり「全身芸術家」だった。

 それが磯崎という人の生き様、また走り様だった。

 1978年には磯崎さんと作曲の武満徹さんの協働制作として「パリの秋」芸術祭に、西欧であれば単なる虚無でしかない空間に価値を「見立てる」日本の<間>の考え方を「展示」する「間」展(http://www.watarium.co.jp/exhibition/1408isozaki/index2.html)を組織。

 音楽と建築のジャンルの違いなど無関係に、創造的な試みに驀進します。

 1983年の「つくばセンタービル」以降、ポストモダンの旗手として越境的な活動を展開するようになります。ときに52歳。

 翌1984年に創刊された岩波書店の雑誌「へるめす」は、パリの「間」展に関係した磯崎、武満、大岡信に山口昌男、中村雄二郎と大江健三郎の諸氏が編集同人として参加。

 余談ながらこの雑誌は私が大学受験に失敗して浪人していた19歳のときに創刊され、個人として決定的な影響を受けるのみならず、武満、山口、大岡そして磯崎の各氏には後年様々な意味で育てていただき「へるめすおじん」(山口さんの表現)がいなければ今の私も私の研究室も存在していません。

 そうした間も建築家として国際的に覇道をひた走り。1992年バルセロナオリンピックではスタジアムを設計。

 反逆する前衛として世界の芸術理論を牽引しつつ転倒、破壊し続ける存在となりました。

 そんな人、ほかに日本では絶無です。安藤忠雄氏など東大で人事したりしましたが、私が任官した頃にはすでにエスキースにも姿を現さず有名無実化していた。

 世界に発信する日本の建築史は磯崎に始まり、いま磯崎で止まっているような状況かもしれません。さらに磯崎さんは、本当に多くの人を育てた。

 古くは六角鬼丈、渡辺誠、八束はじめ、菊池誠、渡辺真理、岸田省吾、坂茂から吉松秀樹、高橋邦明、若い京谷友也などの各氏まで、磯崎さんが認め、アトリエで夜遅くまで汗を流した人は、大半が作家として人も知る存在になり、世に出ています。

 他のどこの事務所がどうとは言いませんが、人材を使いつぶす傾向の強いこの国で、磯崎アトリエの本質から人を育てる風土は、ただ事ではない生産性、創造性を誇ったと言わねばならない。

 全く畑違いの私も、磯さんの仕事がなければ今のようには絶対に物事を考えるようにはなっていません。

 磯崎さんと本当に近しくなったのは1996年、米フロリダ州の「アトランティック・センター・オブ・アーツ」に6週間、上記の菊池誠夫妻や吉松秀樹氏なども一緒に滞在して制作を行ったアーチスト・レジデンシー以来のことで、家族同様に暖かく導いていただきました。

「前衛の仕掛け人」として様々な知略に長けた兄貴として、裏表なくどのようなことでも戦略も戦術も相談に乗ってくださった。

 その間、警察官僚から海外の反政府組織まで、国会議員も保革の別を問わず、幅広い「友達の輪」を持ちながら芸術の志を決して曲げない磯さんの「転倒戦略」に決定的な影響を受けたと思います。

 そんな観点から改めて強く感じます。2030年札幌オリンピック招致(https://winter-hokkaido-sapporo.jp/)の動き。私は、現在準備されるようなズブズブのビジネスであれば、やめた方がよいという考えです。

 そのような声を上げるのも、実際に手を動かし足を運んで愚挙を止めさせることができたのも、本質的には磯崎さんしかいなかった。

 安藤忠雄氏ではどうにもならない。彼が東京で果たした役割を考えれば誰の目にも明らかなことです。

 領域を超え、既存の価値をひっくり返しながら、前に進む造り手の命脈を絶やしてはなりません。

 2022年は秋から、一柳慧、磯崎新と、私を前衛の極北に導いてくれた先達が相次いで亡くなりました。

 今年5月、東京都美術館で彼らのメモリアルを含む形で、かねて計画していたイベントを変更して行う予定を進めています。

 磯崎さんがいなくなってしまった日本で、彼が果たしてきたような役割を担い、若い世代を育てていくのは、残された私達の責務とも思います。

 そのようなマニフェストを磯崎さんへの形のない墓碑銘として記したいと思います。

「冥福」なんて祈ってほしいと思う磯さんでないことは分かっています。「追悼」なども嫌うでしょう。ですので、結びに「反・追悼」の賦を記します。

 追悼なんて似つかわしくないし、要らない。アバンギャルドの反逆児が跳梁するところ「磯崎新」は常に「生きている」。

 生き残った私達が、そのような2023年以降の展開を実現していくことで、磯崎新の「未完のビジョン」は更新され続けていくことになるでしょう。

 磯さん、私もその一端を担って2023年の仕事を進める念頭です。安らかに寝たりしている暇はありません。少し宙に足は浮いているかもしれないけれど、一緒に走ってください。

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磯崎新氏が設計したベルリン集合住宅・フォルクス銀行本店(JoachimKohlerBremen, CC BY-SA 4.0)