NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公の徳川家康は、幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切りません。今川義元は、家康のこうした性格を知り尽くしていたのです。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

初激突は信長27歳、秀吉24歳、家康19歳

■三英傑が初激突「桶狭間の戦い

織田信長豊臣秀吉徳川家康が「戦国の三英傑」と呼ばれ、日本史上に燦然と輝くヒーローであることはよく知られているが、彼らが敵味方に分かれて初めて「合戦」という名の同じ土俵に上がったのは1560(永禄3)年5月、今川軍(今川義元)と織田軍(織田信長)が激突した「桶狭間の戦い」だったということは、案外、知られていないのではなかろうか。

桶狭間の戦いは、駿河・遠江・三河の三国を領有する戦国大名今川義元の「上洛戦」だった。表現を変えると、「100万石の強大国主が、都へ進軍する通り道にある20万石の弱小国主を叩きつぶそうとした戦」ともいえたが、結果は読者諸兄がご存じのとおり、迎え撃った信長が義元の首を取って勝利し、戦国の勢力地図を一気に塗り替えることになる。

ここで知っておきたいのは、戦史的な評価としては、信長・家康の同盟軍が新兵器の鉄砲を使って武田勝頼を破った「長篠の戦い」よりも、信長が今川義元を撃破した「桶狭間の戦い」の方が難しい合戦だったいうことである。

当時の三英傑の年齢は、次のようだった。

信長27歳、秀吉24歳、家康(元康)19歳。

家康は当時松平元康という姓名で、「今川家の人質」となっていた関係で、今川義元の命によって参戦し、秀吉は「日吉」という名で、信長の「足軽組頭」として参戦した。

今川軍……家康 織田軍……信長、秀吉

若き日の戦国の三英傑は、こういう形で敵味方に分かれて戦ったのである。

3者の合戦体験年齢を比較すると、初陣が信長14歳、家康17歳なのに対し、秀吉はこの戦が初陣とかなり遅かったのは、武士の家系である信長や家康と違って、農民の倅という出自と関係があった。

家康は、17歳の初陣以後、生涯で50数回(諸説あり)もの戦に出陣することになる。そのなかには、小さな合戦もあれば、大きな合戦もある。「六大合戦」と呼ばれるのは、29歳のときの「姉川の戦い」、31歳のときの「三方ヶ原の戦い」、34歳のときの「長篠の戦い」、43歳のときの「小牧・長久手の戦い」、そして59歳のときの「関ヶ原の戦い」、73歳から74歳にかけての「大坂の陣」で、勝敗は5勝1敗だった。唯一の敗戦は、死にかけた三方ヶ原の戦いである。

  一方、信長は、13歳のときに元服し、幼名の吉法師から三郎信長と名を変え、翌年14歳で初陣を飾った。そのとき6歳だった家康は、信長の父信秀の手にかかって織田家の人質に取られたから、その頃から信長と家康は互いの顔を見知っていたということになる。

ところが、信長が16歳のとき、庶兄の信広が今川方に捕えられる事件が発生、「捕虜交換」という形で決着をみたことから、家康は今川義元の人質となって駿河へ連れていかれた。織田家での人質期間は家康が6歳から8歳までの約2年だったが、今川家では8歳から19歳まで足かけ12年にも及び、桶狭間の戦いを迎えることになったというわけだ。信長と家康の間には、そういう因縁浅からぬ関係があった。家康の人質に関しては、改めて詳しく後述する。

織田家では、信長が18歳のときに父信秀が死去し、家督を継いだ。

家康の松平家では、父広忠・祖父清康がともに家臣に殺され、凶行に関係した刀剣が伊勢国(三重県)桑名の刀工「村正」の作だった。この事件が“妖刀村正伝説”の生まれる発端である。父は24歳、祖父は25歳という若さでともに不慮の死を遂げたことが、家康の性格の主要な部分をなす「用心深さ」につながり、健康面では自ら漢方薬を調合する晩年の〝健康おたく〟へと発展する。

“大器の片鱗”を感じさせる元康の才能

一方、秀吉は、尾張の国(愛知県西部)の愛智郡中村という村の農民木下弥右衛門の倅だったが、「戦国乱世の時代を逆手に取って、武士になって立身出世を遂げよう」との野心に燃え、しかも仕事ぶりがまじめで、頭もよく、といっても秀才のような賢さではなく、頓智が働き、機転がよく利く頭のよさで、おまけに剽軽で憎めないネアカな人柄ときたから、信長に気に入られて織田家に仕官する道を見つけた。

そういう出自だったから、武士のような元服式もなく、織田家に仕官できたのは22歳と遅く、24歳での初陣となった次第である。

■大器の片鱗

14歳で元服して「松平元信」と名乗った家康は、2年後には今川義元の姪(瀬名姫、のち築山殿)と結婚し、名を「元康」と改め、前述したように3年後には17歳で初陣を飾ることになるが、その仔細は次のようだった。

「寺部城の城主鈴木重辰が、織田方に寝返った」との報を受けた今川義元は、ただちに城の奪還に立ち上がり、その役目を人質の松平元康に命じた。西暦では1558年のその年、改元が行われ、弘治4年が永禄元年となった2月初旬のことである。

元康は、義元の許可を得て岡崎城(愛知県岡崎市)に里帰りすると、諸将を一堂に集め、「2月5日を期して寺部城(愛知県豊田市)へ討って出る。わが初陣ぞ」と宣言した。

その日が来るのを一日千秋の思いで待ち焦がれていた老臣たちは、逞しい姿に成長した若殿を見て、一斉に大歓声を上げ、感涙にむせび、闘志をたぎらせたが、寺部城の攻略は赤子の手をひねるようにはいかない。寺部城主の鈴木重辰は、広瀬城主の三宅高清と手を結んでいるし、挙母城(豊田市)、梅坪城(同)、伊保城(同)といった諸城とも敵対している。そのあたりのことは、松平家の家臣たちもよくわかっていた。

今川義元は、当初、家臣を前に「誰か、寺部城を攻略する者はおらぬか」といった。百戦錬磨の強者が何人もいたが、言を左右して誰も名乗りを上げなかった。その理由は、はっきりしていた。寺部城攻めは、誰もが二の足を踏む〝危険と背中合わせの任務〟だったからだ。

家臣たちが引き受けようとしない命がけの厄介な任務を、なぜ義元が合戦経験が皆無の17歳の少年に命じたのかといえば、「元信が人質だったから」。このことにつきる。

戦国時代の人質の半数は殺されている。神坂次郎『徳川家康』(成美堂出版)によれば、戦国期の人質50件は、以下のようだった。

生きて返されたもの 22件 奪回したもの 3件 自力で脱走に成功したもの 2件 虐殺されたもの 23件

元康は、そういう情報を早くから知っていたのかもしれない。幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切らない。今川義元は、元康のこうした性格を知り尽くしていたのである。

だが、その一方で義元は、“大器の片鱗”を感じさせる元康の才能に早くから着目して目をかけ、義元が軍師としてあがめていた叔父で臨済宗の僧雪斎から兵法などを学ばせていた。

表面的にはそういうことだが、一筋縄ではいかない義元のこと、“したたかな計算”が働いていたと考えるべきだろう。嫡子の氏真は親の目から見ても“暗愚”としか思えず、行く末を案じて元康を補佐役候補として思い描いていた節もある。

城島 明彦 作家

(※写真はイメージです/PIXTA)