(小谷太郎:大学教員・サイエンスライター)

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 2016年、JAXAは「閉鎖環境適応訓練設備」を用いた有人試験の被験者を募集しました。宇宙ステーションなどを模した閉鎖設備に、人間が滞在し、その影響を研究するというのです。この面白そうな実験は大きな話題となり、宇宙飛行士のような体験をしてみたいという志願者が4000人以上集まりました。

 第1回目の閉鎖環境滞在試験は2016年2月に実施され、全部で6回の募集と試験が予定されました。

 しかし2018年1月、第6回目の募集は突然打ち切られ、6回目の試験は結局行なわれませんでした。

 そして2022年11月25日JAXAは記者会見を開き、「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」への「不適合」があったと発表しました。研究代表者の古川聡宇宙飛行士は戒告処分とされました。

 閉鎖環境試験にいったい何があったのでしょうか。これについての報道は、残念ながら具体性に欠いたものが多く、研究現場で何があったのか、ぼんやりとしか分かりません。

 そこで本記事では、JAXAの発表の背後に何があったのか、その事情をつまびらかに解説しましょう。

閉鎖環境滞在試験とは?

 国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士は、長期間にわたって狭い船内で強いストレスに耐えなければなりません。そのような環境で人間にはどのような影響があるでしょうか。

 これを調べる実験が、JAXA宇宙航空研究開発機構)の閉鎖環境適応訓練設備(以下、閉鎖設備)で行なわれました。長さ約11 m、直径約4 mの円筒を2個つなげた構造の閉鎖設備に、8名の被験者が2週間泊まりこみ、血液や分泌物にストレスによる変化が現れるかどうかモニターされます。被験者の精神状態や感じているストレスは、研究者との面談によって判定されることになっていました(ここは重要)。

 この研究の予算は、JAXAの研究予算と、「科学研究費補助金(科研費)」によってまかなわれました。

 科研費とは、日本のほとんどの科学研究のスポンサーとなっている競争的な予算です。研究者は個人やグループで、自分の研究のための科研費を申請し、うまく「当たれば」、つまり承認されれば、研究予算が支給されてその研究が実施できます。

 科研費で行なわれた研究の成果や予算は公開されているので誰でも見られます。

 この閉鎖環境試験は、古川聡宇宙飛行士を研究代表者とする科研費研究「無重力・閉鎖ストレスの統合的理解」*1によって実施されました。この研究の予算や研究メンバーは科研費のサイトに公開されています。それによると、実施年度は2015年度から2019年度、予算は総額約9400万円です。

 科研費の用法についてご存じないと少々分かりにくいかもしれませんが、この「無重力・閉鎖ストレスの統合的理解」という研究テーマは、別の大規模な研究「宇宙からひも解く新たな生命制御機構の統合的理解」*2の一部です。

「宇宙からひも解く・・・統合的理解」は、これも古川聡宇宙飛行士を研究代表者として、2015年度から2019年度に総額約16億円を支給されています。「無重力・閉鎖ストレスの統合的理解」は、「宇宙からひも解く・・・統合的理解」に含まれる58件のさまざまな研究テーマのひとつです。

いったい何が起きたのか?

 2022年11月25日JAXAは記者会見を開き、「長期閉鎖環境(宇宙居住環境模擬)ストレス蓄積評価に関する研究」で発生した不適切な研究行為について発表しました(この「JAXA報告書」はこちらから読めます*3)。閉鎖環境試験において、「改ざんというべき行為」があったといいます。

 そこでは、具体的にいったい何が起きたのでしょうか。 公表された資料を元に再現しましょう。(参考:2022年11月25日JAXA記者会見*4、2023年1月12日の古川聡宇宙飛行士の記者会見*5

 第1回目の有人閉鎖設備試験は、一般から公募によって8名の被験者を選び、2016年2月に行なわれました。8名は2週間にわたって閉鎖設備で生活し、さまざまな検査を受けました。

 ところがここで、予想外のことが起きました。

 この8名は、2週間狭い環境で暮らしても、ストレスを感じたり精神的なダメージを負ったりしなかったのです。担当研究者が被験者の精神状態を判断する面談では、「問題ない」を意味する「青」ばかりが記録されました。(人間は2週間程度閉じ込められても大してストレスを感じないのかもしれません。)

 9月の第2回試験の結果も同様でした。(JAXA報告書には、「ストレスマーカーに有意な変化がみられなかったので、2回目以降はストレスに弱い研究対象者を選択することとした」という、ちょっと唖然とさせられるような発言があったと記されています。)

 これでは、「ストレスに応じて血中の物質が変化することが発見された」というような、計画していたような研究成果が得られません。

 このように予想外の実験結果が出た場合、研究者はどうすればいいでしょうか。

 もちろん答えは決まっています。「この試験ではストレスは認められなかった」という報告をするべきです。それはそれで、ひとつの科学的成果です。そういう結果からは人間のストレス耐性について知識が得られ、それは次の実験を改善する役に立つでしょう。

 けれども「研究者A(JAXA報告書の呼称)」と「研究者C(同)」は、別の手法を用いました。禁じ手の手法です。

 記録上の「青」を、高いストレス状態を意味する「赤」や「黄」に書き換えたのです。

 また、「研究者F」と「研究者G」は、AとCに依頼されて、一旦「青」と判断した面談結果を「赤」や「黄」にやはり書き換えた形跡があります。

 これは、一般には「改ざん」と呼ばれる行為です。研究者が決してやってはいけないことです。(ただし、「研究不正」に当たるかどうかは議論の余地があります。)

発覚

 JAXA報告書によれば、この改ざんは、ある偶然のできごとで発覚しました。

 2017年11月の第5回試験の際、血液試料の取り違えが起きました。朝に採血した試料と夕方の試料に、それぞれ逆の表示をしてしまったのです。

 このことは、試料の分析結果から分かりました。朝に濃度が高くなるはずの「コルチゾール」という物質が、夕方と表示された試料で高かったためです。

 ミスによるこうした取り違えは、起きない方がいいですが、研究不正に当たるような重大な問題とはいえないでしょう。取り違えが発生したことに気づいた「研究者D」は、「研究者B」にすぐに報告しました。(JAXA会見では、この「研究者B」が研究代表者の古川聡宇宙飛行士であると明らかにされています。以後ここでは「古川宇宙飛行士」と呼びます。)

 古川宇宙飛行士からは、JAXA内の「人を対象とする研究開発倫理審査委員会」(以後、倫理審査委員会)へ報告が上がりました。これが2018年2月16日のことだといいます。

 この倫理審査委員会とは、文科省厚生労働省経産省の出している「人を対象とする生命科学・医系研究に関する倫理指針」というガイドラインにしたがって設置されている委員会で、ひらたくいうと、人権を無視した人体実験が行なわれないようにチェックする組織です。

 このあと、「倫理審査委員会が調べたところ、試料の取り違えばかりでなく、面談記録の改ざんという重大で深刻な問題が判明した。そのためこの研究は中止された」ということであれば、分かりやすいストーリーなのですが、JAXA報告書の記述はこのあたりの経緯がなんだか読み取りにくいです。

 2018年2月か3月に予定されていた第6回試験は、血液試料取り違えが判明すると、早々に中止されています。そして2019年11月には、この研究自体が理事長判断で中止されてしまいます。

 ところが、JAXA報告書によると、記録の改ざんが明らかになったのは、研究中止後の2019年末から2020年のことだといいます。また古川宇宙飛行士が改ざんについて知ったのも、2020年だと、記者会見で述べられています。そして「データの改ざんが強く疑われる事実」があったことを、倫理審査委員会が理事長に報告したのは2020年11月16日とされます。

JAXA報告書によれば、研究を中止した2019年の時点では、試料取り違えだけが発覚していて、改ざんは発覚していなかったように読めるのですが、いったいその程度のミスだけで、研究中止という重大な決断が下されるでしょうか。この点は少々不自然に感じられます。)

 ともあれ、2022年11月25日JAXAは記者会見を行ない、発覚した事実が「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」への「不適合事案」であったとして発表します。

 2023年1月11日には、理事長ら3人に「厳重注意」「訓告」などの処分を発表しました。古川宇宙飛行士は「戒告」処分を受けました。

 処分に続いて、1月12日に古川宇宙飛行士は記者会見を開き、謝罪の言葉を述べます。

 以上が、閉鎖環境試験の顛末です。

これは研究不正なの?

 研究不正はたいへん重大な問題です。研究不正をしたと判定された研究者は、最悪の場合、職を失い、学位を取り消され、将来研究職につけなくなります。

 では今回の記録の書き換えは、研究不正に当たるでしょうか。

 実験記録の書き換えは、もちろん倫理的に好ましくない行為で、一般には改ざんと見做されるでしょうが、これが「研究不正」の定義に当てはまるかどうかは、単純ではありません。実験記録は学術論文や学会発表などと違い、一般に向けて発表するものではないからです。

 JAXA文科省の見解は、実験記録の「改ざん」は研究成果の発表ではなく、研究不正にはあたらない、というものです。

(ちなみに記者会見では、科研費の成果報告書は研究成果の発表ではないという興味深い解釈が述べられました。今後成果報告書を書く際の参考になるかもしれません。)

 しかし実験記録そのものの改ざんは研究不正でないという見解を受け入れたとしても、論文や学会発表にそのデータが用いられていたら、それは研究不正にあたります。

 では、全5回の閉鎖環境試験のデータを用いた論文や学会発表があったかというと、JAXAの見解では存在しないということです。(私はいくつか気になる論文やプレスリリースを見かけたのですが、これについては後で調べてみます。)

誰がやったの?

 実験記録の改ざんは、たとえ研究不正にあたらなくても、倫理的に問題があって、そんな行為をしたら研究者失格だ、という考えもあります。そうなると、改ざんしたのは誰かが問題になるでしょう。

 JAXAの発表によると、記録の改ざんを行なったのは「研究者A」と「研究者C」です。(古川宇宙飛行士は「研究者B」です。)

 AとCが誰かは、科研費研究「無重力・閉鎖ストレスの統合的理解」の研究メンバーから推定することもできるかもしれませんが、 ここではそれはやめておきます。

 しかしAとCの名前が明らかにされないと、また別の問題が引き起こされる恐れがあります。それは、改ざんに加担していない研究メンバーの巻き添え被害です。

 彼ら彼女らは、何らやましいところがないのに、この研究に参加したため、実験記録を改ざんした研究者AやCではないかと今後疑われることになります。もしかしたらキャリアに悪影響がでる可能性もあります。

 JAXAが名前を公表しないならば、改ざんに加担していない研究メンバーか、あるいは研究者Aと研究者Cが自ら、そのあたりを明らかにした方がいいのではないでしょうか。

 それから、おそらく多くのかたにとって一番の関心は、古川宇宙飛行士の関与があったかどうかだと思います。

JAXAの報告によると」を何度も繰り返しますが、JAXAの報告によると、これについてはなかったとされています。実験記録の改ざんについて古川宇宙飛行士が初めて知ったのは2020年のことで、研究中止のあとだということです。

これで終わり?

 まとめですが、一般から参加できるとして注目を集めた閉鎖環境実験は、実験記録の改ざんが行なわれたことから、予想外の方向に展開し、最後は研究中止に至りました。

 これほど派手な失敗はめったにないほどの大失敗研究です。残念ながら、40名の人たちが参加したこの研究は、今後成果が発表されることはないでしょう。

 実験記録の改ざんは(JAXA文科省の見解では)研究不正にあたりませんが、それでもそれを公表し、古川宇宙飛行士や理事らの処分を行なったJAXAは潔くて立派だ、と思われるでしょうか。それとも、 経緯の公表は不十分かつ不自然で、改ざん者が正しく処罰されたとはいえないし、無実の研究メンバーが報われない、と思われるでしょうか。

 いずれにせよ、今後の展開は注意して見守る必要がありそうです。

*1:https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PLANNED-15H05943/
*2:https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-AREA-4704/
*3:https://www.jaxa.jp/press/2022/11/20221125-2_j.html
*4:https://www.youtube.com/watch?v=svEhoA9ZHYk
*5:https://www.youtube.com/watch?v=SNc5yoB6S3Y

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  国際宇宙ステーションはどうなる? ロシア国営宇宙公社総裁の不穏な投稿

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