中国共産党文献研究室が編纂(へんさん)した「トウ小平伝(1904-1974)」が20日、中国全国の書店で発売された。中国共産党がトウ小平の伝記を出版するのは初めて。生涯最大の危機であった文化大革命による失脚から復活した直後までを描く。毛沢東の立場を軽視していた時期があったなど、あまり知られていなかった事実の紹介も多いという。8月22日はトウ小平生誕110周年で、中国ではさまざまな活動が始まった。

 トウ小平は、勤労学生としてフランス留学を経験している。留学時に中国少年共産党に入党した。機関誌作成を担当し「ガリ版博士」と呼ばれるなど、実務力、実行力で突出した存在だったという。

 1927年に帰国し、ゲリラ活動に加わった。当時の中国共産党はコミンテルン(ソ連共産党が主導した共産党の国際組織)の指示により、都市部労働者による革命を目指していた。毛沢東は農村部のゲリラ活動を主張。毛沢東を支持したトウ小平は失脚した。

 毛沢東が党の主導権を握ると同時に、トウ小平も復活。毛沢東中華人民共和国建国後の1950年代に大躍進政策を発動。米英などに急速に追いつく経済成長を目指したが現実を無視した計画だった。ノルマ未達成で責任を追及されることを恐れた生産の現場が次々に「偽の報告」をしたこともあり、党中央はさらに過大な要求をするなど、悪循環が発生した。結局は推計で2000万人から5000万人の餓死者を出す、悲惨な結果となった。

 毛沢東は責任を取り国家主席の座から退いた。代わりに劉少奇が国家主席に就任し、疲弊しきった国を立てなおすことになった。トウ小平共産党中央書記処総書記として、劉少奇の右腕となって活躍した。

 「トウ小平伝(1904-1974)」は、この時代から文化大革命で再び失脚するまでの姿を生々しく描いているという。

 トウ小平は劉少奇の元で働く自らを「第1線」、毛沢東は「第2線に退いた」と見なしていたという。そのため、通常の仕事では、毛沢東に報告することが少なくなった。そのことが毛沢東の不興を招いた。トウ小平には独自の判断も多くなり、毛沢東は「あいつの耳はふさがっているのか。聞こえないのか。会議でも私から離れて座る。私を鬼神として敬遠している」と述べたという。

 文化大革命が始まったのは1966年だった。標的は劉少奇やトウ小平を中核とする「実務派グループ」だった。毛沢東を後ろ盾として、文革を推進したのが林彪や江青だったとされる。トウ小平は最初、文革をそれほど重視していなかったという。

 トウ小平が自分を巡る情勢の深刻さを悟ったのは党機関紙の人民日報1967年4月1日付で、名指しはしないがトウ小平を批判する文章を掲載した時だった。同文章は「党内のもうひとつの、走資派の道を歩む実権派」と書かれていた。すでに劉少奇は批判にさらされていた。毛沢東も「司令部を砲撃せよ」と題する文章を配布していた。「党内のもうひとつの」と言えば、トウ小平を指すことは明らかだ。

 トウ小平にとって「致命的」だったのは、毛沢東と疎遠になっていたことだった。その後は盛んに、自分の考えを示す書簡を人を介して毛沢東に送るようになった。

 トウ小平は、ある意味で「捨て身の戦法」に出た。現在の地位にとどまる気持ちはないとして、「党員としては残していただきたい。普通の党員として、小さな仕事をさせていただきたい。私の力が及ぶ労働をして、(自分の失敗を)つぐなうチャンスをください」と訴えた。

 文革推進派はトウ小平の「完全打倒」を目指していたので、党籍剥奪を主張したが、毛沢東は抗日戦争時の功績や、それまで大きな問題を出していないとの考えを示した。そして「あの男はまだ使える」などと言い、党籍は残して、何か仕事をさせればよいと宣言した。そのため、トウ小平は共産党追放は免れることができた。

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 その後の経緯を見れば、トウ小平が党籍を保ったことが、文革終了後の復活の第1の布石になったことが分かる。劉少奇は1968年10月の共産党中央政治局全体会議で、党籍を剥奪された。出席者は132人で、剥奪に反対したのは女性代表1人だったという。劉少奇は「裏切り者」とのレッテルを貼られた。

 劉少奇は自宅に軟禁状態になり発病。治療のための医師団が配置されたが、医師らは、治療をすると「裏切り者を助けた」との理由で自分が迫害されると恐れ、手をつけなかった。逆に暴行を加える医師もいたという。

 トウ小平は江西省に追放され、トラクター工場や農場での労働に従事した。過酷な条件のため、何度か倒れたという。しかし毛沢東が、党籍を残すことに同意したことで、劉少奇とは異なる扱いになったと考えられる。

 周恩来首相はトウ小平の復活工作を進め、病身の自分を補助し、経済の立て直しをさせるとの理由で、1973年3月にトウ小平を副首相の職務に就けることに成功した。

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 「トウ小平伝(1904-1974)」は文革期の失脚から復活した直後の1974年までを描く。同書の作成には8年間をかけたとされる。現在は、同復活から死去までを描く「「トウ小平伝(1975-1997)」の編纂が進められているという。

 同書には、第1次天安門事件がきっかけになった3度目の失脚、再び復活してからの権力掌握、改革開放政策推進などが記載されると思われる。また、1989年天安門事件をどう扱うかで注目される。(1976年)(編集担当:如月隼人)