NHK大河ドラマ『どうする家康』が序盤から話題を呼んでいる。いきなり「桶狭間の戦い」を迎えた初回を経て、第2回では今川義元が討たれたあと、徳川家康がいかなる選択を迫られたのか。苦悩する若きリーダーの姿が描かれた。ラストでは吹っ切れた家康に頼もしさを感じた視聴者も多くいたことだろう。第2回放送分の素朴な疑問について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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徳川家康はいつ生まれたのか?

 初回では「桶狭間の戦い」を迎えて、戦場で慌てふためく徳川家康の姿を描いたNHK大河ドラマ『どうする家康』。

 大河ドラマは主人公の幼少期から始まることが多いため、家康の両親すら出てこない展開に、驚いた視聴者も多かったことだろう。その分、激動の戦国時代にふさわしいスピーディーな展開で、家康の置かれた状況の厳しさがよく伝わってきた。

 第2回では、そんな飛ばし気味だった初回をフォローするべく、家康の幼少期が描かれることとなった。松嶋菜々子が演じる生母の「於大の方」が、家康を出産するシーンから始まる。無事に赤子、つまり、のちの家康(幼名:竹千代)が生まれると、家臣たちに披露目をしながら、於大の方は高らかにこう宣言した。

「寅の年、寅の日、寅の刻に生まれし嫡男、竹千代である。まさに虎のごとき猛将になると相違ない」

 これが大きなフリとなっている。ドラマでは、桶狭間の戦い後に家康が、自身の無力さに絶望して自害を考えるほど追いつめられる。だが、そこから気持ちを奮い立たせると、こう叫んで立ちはだかる敵軍を圧倒する。

「わしは寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ!」

 では、実際の家康はいつ生まれたのだろうか。『青年家康 松平元康の実像』(柴裕之著、角川選書)にて、家康の生年月日にまつわる諸説が詳しく解説されている。

 まず生まれた時間については、寅の刻ということは「午前3時~5時ごろ」に生まれたことになるが、裏付ける史料がなく、はっきりしない。

 一方で、生まれた日については「12月26日」の「寅の日」で間違いなさそうだ。前掲書『青年家康』にしたがって、京都の相国寺鹿苑院での公式な日記『鹿苑日録』にあたってみる。すると、確かに慶長8(1603)年12月26日のところに「将軍正誕生御祈祷」があったことが記されている。

 そして、生まれた年については、家康の側近だった僧の以心崇伝による日記に「享年は七十五歳」と書かれており、逆算すると「天文11年」となる。こちらも確かに「寅の年」となり、『松平記』の記録とも矛盾はない。

 しかしながら、異なる説もある。家康は慶長8年に征夷大将軍に就任。その際に「無病息災 延命長寿」を祈願する願文を家康自身が書いた。

 人一倍、健康に気を配った家康らしいが、そこには「六十一歳」と記載されている。数え年から逆算すると、生まれた年は天文12(1543)年となり、この場合は「寅の年」ではなく「卯年」に家康は生まれたことになる。

 誕生した年を間違えたのは、僧の以心崇伝か家康本人か。いずれの可能性もあり定かではないが、今回の大河ドラマでは、母親の於大の方が「兎などいけませぬ。狼に狩られてしまいます」と、本当は「天文12年」生まれなのを「天文11年」に前倒しして、生年をごまかしていたという“オチ”にしている。生まれ年について1年違いで見解が分かれており、かつ、家康の誕生日が年越しに近いことに着目した、巧みな脚本といえるだろう。

 歴史的出来事に諸説ある場合に、どの考えを採用するのか。大河ドラマの脚本家にとっては頭を悩ませるところだろうが、第2回は家康の生年に諸説あることをうまく逆手にとって、ストーリーの軸にするというしたたかさを見せた。今後も「諸説あり」ポイントをどう描くのかに着目したい。

家康は幼少期に織田信長と面識はあったのか?

 今作の大河ドラマでは、岡田准一演じる織田信長が「怖すぎる」ことも話題になっている。「家康は幼少期に信長からしごかれて、それがトラウマになっている」という設定だが、実際に二人に面識はあったのだろうか。

 幼い家康が今川家に人質として送られることになった背景には、尾張の織田信秀が三河に侵攻したことがある。迫りくる信秀に対抗するため、安城松平家4代当主である松平広忠は、今川家との関係をさらに強化するべく、我が子を人質に送ることを決意。それが竹千代、のちの家康である。

 ところが、田原城の戸田康光が裏切って、家康を駿府の今川家ではなく、尾張の織田家へと連れていってしまう。康光は織田信秀に永楽銭1000貫目、つまり、約1億円で竹千代を売り払ったという説もある。ただし、金額について諸説あることに加えて、近年は新史料の発見により、広忠が信秀に敗れたために、我が子を織田家に人質として渡した可能性も指摘されている。家康が織田家の人質となった経緯については、今後はまた違ったふうに描かれるかもしれない。

 今回の大河ドラマでは、いきなり織田家に送られてしまい、戸惑う竹千代の前に、粗暴な信長が現れている。残念ながら、実際に二人が会ったという記録は残されていないが、可能性は十分にあったといえそうだ。

 というのも、竹千代は、尾張熱田にあたる豪商の加藤図書助順盛に引き取られて、加藤家で生活することになった。加藤家は熱田の豪族で、信長の父である織田信秀とも縁が深かった。6~8歳を織田家の人質として過ごした竹千代が14~16歳だった信長と、少なくとも顔を合わせる機会くらいはあったのではないだろうか。

 大河ドラマの話に戻ると、第1回では、桶狭間の戦い今川義元を討ち取った信長が、大高城で右往左往する家康のもとに向かっている。そのときに信長が放った「待ってろよ、竹千代、俺の白兎」というセリフが放送後に話題になった。この「白兎」のフレーズは、第2回のオチである「家康が実は卯年生まれだった(ドラマ上の解釈で生年については前述したように諸説あり)」を踏まえると、また違う味わいを持つという仕掛けになっている。

 そんな第2回放送のタイトルは「兎と狼」。兎は家康で、狼は信長というわけだが、二人が手を結んだとき、はたしてどんな関係性に発展していくのか。「気弱なプリンス」として描かれる家康とともに、「ドSな信長」にも注目が集まりそうだ。

松平昌久はなぜ徳川家康と敵対するのか?

 桶狭間の戦い今川義元が討ちとられると、家康は留まっていた大高城から出て、妻子の待つ駿府ではなく、岡崎城へと向かう。

 第2回の大河ドラマでは、お笑いトリオ東京03」の角田晃広が演じる松平昌久が、だまし討ちを行ったことで、松平軍が壊滅状態に陥っている。家康が命からがら岡崎の大樹寺に逃げ込んだところ、昌久の軍に取り囲まれることとなった。

 文献にあたれば、家康が大高城を出たあとに岡崎城に直接入らず、大樹寺に入ったのは『三河物語』などにも記されているが、それは岡崎城にまだ今川勢がとどまっていたため。家康は、今川勢が駿河に撤退するのを見届けてから、「捨て城ならば、拾わん」(捨ててある城ならばもらおう)と岡崎城に入城している。松平昌久が家康に反旗をひるがえすのは、その後に起きる「三河一向一揆」でのことだ。

 ドラマでは、松平昌久のふるまいに怒りを覚えた視聴者もいただろうが、二人が敵対するのも無理はない。家康が返り咲いた岡崎城は、過去に松平昌久の父・昌安が支配していた。そんなときに家康の祖父・清康が戦を仕掛けて、昌安は降伏。清康に岡崎城を明け渡している。先代からの因縁を思えば、昌久がおとなしく家康に従うのは耐えがたかったのだろう。

 もともと松平一族は一枚岩ではない。初代の松平親氏は流浪の僧で、三河国加茂郡松平郷(豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉家に婿入りを果たした。松平郷を引き継いだ親氏が死去すると、弟の泰親が後を継いで2代目となる。

 2代目の泰親は松平郷を出て、岩津の城を奪って居城としている。泰親の隠居と同時に、3代目の信光に岩津城が与えられた。この信光が85歳まで生きて、実に40人以上の子どもを残したと言われている。その後、松平家は「十四松平」あるいは「十八松平」と呼ばれるほど、分派していく。そのなかで、安城松平家の流れをくむのが家康だ。一方、家康に反旗を翻した松平昌久は、大草松平家の流れをくんでいる。

 駿河の今川と尾張の織田が三河へと勢力を伸ばすなかで、松平一族はどちらにつくか選択しなければならなかった。今川家の支配から脱して独立しながら、今度は織田家へと近づいていく家康。それぞれの思惑で揺れ動く松平家の家臣たちを、どうまとめていくのか。

 今後の大河ドラマ『どうする家康』では、そんな家康のリーダーシップにも着目したい。


参考文献
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
中村孝也『徳川家康文書の研究』(吉川弘文館)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
大石泰史『今川義元』(戎光祥出版)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)

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徳川家康(写真:Mary Evans Picture Library/アフロ)