ユニクロが大胆な賃上げ方針を掲げた理由

 賃上げに関する報道を頻繁に目にしますが、それ以上に目にするのが物価上昇のニュースです。日々買い物をしていても、「えっ、こんなものまで!?」といつの間にか値上げしている商品が多く、驚いたりすることがあります。

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 日本中のあちこちから沸き起こる物価上昇への悲鳴を受けて、連合は2022年10月、2023年春闘で5%の賃上げを要請する方針を発表しました。すると、2022年12月にサントリーホールディングスが連合の要求を上回る6%の賃上げ方針を打ち出したのを皮切りに、後に続く会社が次々と現れています。

 賃上げに意欲を示していると報道されている会社は、日本生命、三井不動産、日本航空ローソン、大和証券、すかいらーくなど業界をまたいだビッグネームたちです。また、ユニクロなどを運営するアパレルメーカーのファーストリテイリングが、年収を最大4割引き上げるという大胆な方針を発表したことも話題になりました。

 賃金が上がらないままだと、物価が上昇するにつれ人々の生活は苦しくなっていきます。それは会社側も重々承知していることです。経団連の十倉雅和会長は、物価高に負けない賃金の引き上げが「企業の責務」とまで述べています。

 しかし、会社が賃上げを実施する理由は物価上昇への対応だけではありません。賃上げはほかにも会社に様々なメリットをもたらします。以下、大きく3点挙げます。

 まず1つ目は、「採用難への対策」です。コロナ禍によって求人が一気に減少したころでも、有効求人倍率が1倍を下回ることはありませんでした。

 有効求人倍率とは、求職者1人当たりの求人数です。有効求人倍率1倍ということは、求職者1人につき1件の求人がある状態を指します。厚生労働省の一般職業紹介状況によると、2022年11月の有効求人倍率は1.35。求職者より求人数のほうが多いことになります。有効求人倍率はコロナ禍真っただ中で底を打った後、ずっと右肩上がりです。

 その一方で、日本は少子化が進み、労働人口の母数は将来にわたって縮小していくことが確実です。すでに影響は表われています。令和4年版の『厚生労働白書』によると、今年4年制大学を卒業して新卒入社する年代に当たる2000年生まれは約119万人。これは団塊ジュニア世代のピークである1973年生まれの約209万人と比べて半分近くに止まる数です。

 ファーストリテイリングは大胆な賃上げ方針を掲げた理由として、「グローバルな人材獲得競争の中で賃金を海外水準に引き上げる必要性」に言及しています。いますでに求職者不足の状況にあり、人口減少で今後さらにその傾向は強まる可能性があります。人材獲得においては世界を相手にしなければならない中で、賃上げは会社にとって採用で優位に立つための有力な施策となるのです。

賃上げは「コスト」ではなく業績を向上させる「投資」

 次に、「人材流出対策」になることも賃上げのメリットです。いまや職業紹介やダイレクトリクルーティング、リファラル採用などのサービスが広がり、就業中の人に対しても転職斡旋の声がかかることは珍しくなくなりました。そして、ファーストリテイリングの例が示すように、人材獲得競争の範囲は国内に限らずグローバルです。もはや、社内にいる人材がいつ、どんな相手から声がかかって流出するかわからない時代になってきたと言えます。

 それは言い換えると、働き手から選ばれる会社でないと存続できなくなっていく可能性があるということです。賃金が上がる会社と上がらない会社があった場合、他の条件に遜色がないのであれば、選ばれる確率が高くなるのはもちろん前者です。

 最後3点目に挙げられるメリットは、「業績向上への期待」です。すでに賃上げ方針を打ち出している会社の中には、社員のモチベーション向上を理由の一つとして掲げているケースもありました。ジリジリ物価が上昇する中で、社員の生活は徐々に圧迫されてきています。それは、日々の生活の苦しさや将来への不安を感じてしまう要因です。

 会社が賃上げを実施すると、社員は物価上昇の苦しさから解放され、将来への不安も払拭されて仕事に集中しやすくなります。そして会社への信頼感やエンゲージメントが向上し、より前向きに仕事に取り組んでくれれば業績向上につながる期待も高まります。つまり、賃上げは“コスト”ではなく、業績を向上させる“投資”となるのです。

 これら3つのメリットは、いずれも会社に少なからず影響をもたらすものです。それなのに、賃上げしない会社があるのは、賃上げしたくても踏み切れない事情があるからに他なりません。

「採用難対策」「人材流出防止」「業績向上」──これら賃上げがもたらすメリットは、飽くまで“期待”です。決して“結果”までが保証されているわけではありません。賃上げしても期待通りの結果が得られなかった場合、会社の利益はその分圧迫されてしまうことになります。

 いま、景気後退を予測する声もある中で、それができる会社は自ずと限られます。すでに賃上げ方針を示している会社のように誰もが知る大企業は、賃上げして期待通りの結果が得られなかったとしても、耐えられるだけの財務体力を備えているからこそそれが可能なのです。

いざとなれば大量解雇するアメリカ型の是非

 ただ、財務体力が十分とは言えないのに、賃上げに踏み切る会社もなくはありません。それは、大きく2つのケースに分かれます。

 1つは、賃上げ以上に業績を向上させる自信がある会社。マーケットや自社商品の強みなどに鑑みて勝算があると踏み、賃上げした分のコストも十分に取り返せると予測できているケースです。

 そしてもう1つは、環境悪化に追い込まれ、勝算がないまま一か八かの賭けをする会社。同業他社が次々に賃上げした場合、自社も追随しなければ採用力が低下するのはもちろん、人材流出の不安も高まります。そのままどんどん選ばれない会社に陥ることを避けようとするあまり、勝算が見いだせていなかったとしても「エイヤ!」と目をつむって賃上げしてしまうのです。

 しかし、これは危険な賭けです。もし賃上げ効果が表われなければ、財務状況は悪化し、融資も受けづらくなり、一気に倒産の危機に陥る可能性さえあります。

 以上のように見てくると、浮かんでくるのは賃上げしたいけれどできない状況に置かれて葛藤している会社のジレンマです。「ウチの会社は賃上げしてくれそうにない」と嘆く社員がいる一方で、そんな社員の姿を横目に、賃上げしたくても踏み切れずに悔しい思いをしている会社も決して少なくないのです。

 ただ、葛藤を経たうえで賃上げしない選択をした会社は、無謀な賭けを回避してひとまずいまの雇用を守ったとも言えます。無茶をせずじっと耐えて機会を待てば、経営状況が好転することだってありえます。賃上げしないことが、会社と社員を守る堅実な選択にもなりうるのです。

 もっとも、アメリカのように業績が厳しい時は無理して雇用維持するよりもレイオフ(一時解雇)できる仕組みがあると、会社は柔軟に手を打つことができます。

 アメリカの失業率はコロナ禍の初期に15%程度にまで上がりましたが、日本では3%を上回ることはありませんでした。しかし状況が改善するとアメリカの失業率も一気に下がり、2022年12月には3.5%になっています。危機回避の仕方が、日本とは全く異なるのです。このような仕組みだといざとなれば解雇して人員調整できるので、会社としては賃上げもしやすくなります。

 ただし、日本とアメリカどちらのほうがいいと一概に言えるものではありません。レイオフが可能なアメリカでは無理な雇用維持に縛られない分、会社は採用しやすいため採用過多につながることもあります。

 いま、メタ(Meta)やアマゾン(Amazon)、グーグル(Google)などのIT大手で大幅な人員削減が報じられている背景には、好調時に採用しすぎた反動という側面もあることが指摘されています。

 その点、日本だと解雇ルールがはっきりしているようで不明確なので無理な採用は行われず、一度採用すると基本的に雇用は維持されるため社員としては安心です。一方で、柔軟な人員調整は難しく、賃上げしたくてもできないなど、会社は環境変化への適応に弱くなってしまいます。

実態がまったく見えぬ岸田政権の「構造的賃上げ」

 会社は国ごとに定められた仕組みの制約を受けるため、自力でできることにはどうしても限界があるのです。より良い仕組みづくりのためには、日本においてもレイオフとまではいかなくとも、解雇時の金銭解決ルール導入などの思い切った議論を進めつつ、柔軟な会社経営と雇用の安定を両立させられる施策について検討する必要があります。

 その点、岸田首相が掲げている「構造的な賃上げ」という方針は、文字通りの意味であればまさに仕組みを再構築する宣言です。しかし残念なことに、いまのところ構造的賃上げにつながるような具体的な取り組みは見えてきません。それどころか、政府はいまの仕組みのままで経済界に賃上げ要請しています。それだと、対応可能なのは財務体力などの条件を満たす大企業に限られてしまうのは前述した通りです。

 中小企業庁によると、2016年時点での企業全体に占める割合は、大企業0.3%に対して中小企業・小規模事業者99.7%。日本中のほとんどの会社がそう簡単に賃上げできる状況にないと言っても過言ではありません。もし大企業に追随して賃上げを行う会社が多数現れたとしたら、それだけ無理あるいは無茶をした会社が多かったことを意味します。

 日本銀行の『生活意識に関するアンケート調査』によると、2022年12月の暮らし向きについて、前年と比べて「ゆとりがなくなってきた」と回答した比率は53.0%。この比率は前回50.7%、前々回43.2%と上昇傾向が続いています。物価高がいまもジワジワと人々の生活を圧迫している中、構造的賃上げに向けた取り組み開始は待ったなしの状況です。

 それなのに、構造的賃上げという言葉が踊るだけで実態が見えないままだと、「やってる感」だけが先走りお題目で終わってしまいそうな懸念さえあります。

 政府には、労働市場のグランドデザインを描き直すような踏み込んだ取り組みが期待されます。もし、それをしないまま、賃上げしたくても踏み切れない会社に無理強いするならば、それは構造的賃上げとは相容れない、一時凌ぎの脅迫的賃上げ要請でしかありません。

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