
かつては“3K(きつい・汚い・危険)のアウトドアスポーツ”とまでいわれた登山だが、近年は若者にも人気のレジャーとなっている。その一方で、2000年以降は山の遭難事故が急増した。そして遭難事故は、多少の波はあるにせよ、増加基調で推移し続けている。
ここでは、近年の遭難事例や遭難対策を紹介し、安易な山登りに警鐘を鳴らす羽根田治氏の著書『山のリスクとどう向き合うか 山岳遭難の「今」と対処の仕方』(平凡社)より一部を抜粋してお届けする。(全2回の1回目/2回目に続く)
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壮絶なサバイバル遭難携帯電話の普及は、私たちの生活はもとより山での通信手段をも一変させ、遭難事故の発生現場からリアルタイムでの救助要請を可能にした。また、ヘリの機動力を活かした救助体制の確立と救助隊員の技術向上により、今日では迅速で的確な救助活動が実現できるようになっている。
だが、最先端のテクノロジーの光明をもってしても、奥深い山の自然の隅々まで明るく照らし出すまでには至らない。そこには、太古から変わらぬ、深い闇が潜んでいるように思う。その闇のなかに、ふとしたきっかけで落ち込んでしまったかのような遭難事故が、今でもときに起こる。
30歳男性が単独で奥秩父の両神山に向かったのは、2010年8月13日のことである。翌14日の午前10時ごろ、登山口の日向大谷から登りはじめ、午後1時半ごろには山頂に到着した。下山は登りと同じルートをたどり、夕方の最終バスが出る時刻までに下りてくるつもりだった。
だが、下りの途中にある分岐点まで来たときに気が変わった。「同じ道を下るのはおもしろくないだろう」と思い、七滝沢ルートを下りることにした。その判断が暗転のはじまりだった。斜面をトラバースしていたときに足元が滑って40メートルほど滑落し、足首上の開放骨折という重傷を負ってしまったのだ。
地面の泥水をすすり、アリやミミズを食べて飢えをしのいだ以降、男性は13日間を山のなかで過ごした。ときに地面の泥水をすすり、アリやミミズや苔を食べて飢えをしのいだ。傷口からはウジが湧き、やがて腐乱臭も漂いはじめた。死を覚悟し、「いっそ死んだほうが楽なのかな」とも考えたが、朝になると目が覚めているという日が何日か続いた。そして遭難して14日目の午後、ずっと捜索を続けていた埼玉県警の救助隊員によって発見・救助されたのだった。
救助活動は激しい雨が降るなかで行われたが、現場の沢はみるみるうちに増水して、男性が救助を待っていた場所は瞬く間に水没してしまった。まさに間一髪の救助劇であった。
両神山で男性が遭難したのと同じ8月14日、北アルプスの三俣蓮華(みつまたれんげ)岳では61歳の女性が道迷いの迷宮に足を踏み入れようとしていた。
16日間も山のなかで過ごした61歳の女性女性は前日に岐阜県の新穂高(しんほだか)温泉から入山し、3泊4日の行程で笠ヶ岳、弓折岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、北ノ俣岳と縦走して、富山県の折立(おりたて)へ下山する予定であった。ところが、14日に双六小屋から巻道コースをたどって三俣蓮華岳へ向かう途中、東側の沢のほうへと迷い込んでしまった。この日は風雨が強く、雨で登山道が水浸しになっていたので、悪路や視界の悪さなどが要因となって登山道を外れてしまったようだ。
女性が迷い込んだのは、湯俣川源流の樅沢(もみさわ)かその枝沢あたりだと思われる。以降、彼女は16日間という長い時間を山のなかで過ごすことになる。
女性の家族から岐阜県警高山署に捜索願が出されたのは、下山予定日を6日も過ぎた8月22日であった。ひとり暮らしをしていた女性と連絡がとれなくなったことから、心配した家族が女性の住居を訪れて登山計画のメモを見つけ、初めて山に行ったことを知ったのだった。
いくつもの幸運が重なったことによる生還女性が救助されたのは、偶然の賜物だった。8月30日、ガイド登山の8人パーティが、20年以上も前に廃道となった伊藤新道を三俣蓮華岳方面から下ってくる途中、赤沢の出合付近の岩陰で助けを求める遭難者の女性を発見し、連絡を受けた長野県警のヘリによって無事救助されたのである。
本人の話によると、18日までは正しいルートを探して山中を彷徨していたが、水がなくなったため沢筋に下り、岩陰でビバーク(露営)しながら沢を下っていったという。幸いだったのは、果物やお菓子、アルファ米、パン、栄養補助食品など、山小屋を利用する3泊4日の山行にしては豊富な行動食を携行していたことだ。
これらで10日以上食いつなぎ、食料が尽きてからは沢の水を飲んで空腹を満たしていた。ツエルト(簡易テント)は持っていなかったため、夜はすべてのウェアを着込み、レスキューシートにくるまって寒さをしのいだ。
遭難中は好天続きで雨が降らなかったこと、廃道となっていたルートをガイド山行のパーティが通りかかったことなど、いくつもの幸運が重なった16日ぶりの生還であった。
激しい雷雨に見舞われ、奥深い山のなかへ迷い込んでしまうその約1年後の2011年8月5日、69歳の男性が紀伊山地の大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)の弥山(みせん)~八経(はっきょう)ヶ岳~仏生(ぶっしょう)ヶ岳~釈迦ヶ岳を2泊3日で縦走する計画を立て、天川(てんかわ)村の川合から単独で入山した。初日は弥山の山頂にある弥山小屋に泊まり、翌日は奥駈道をたどって釈迦ヶ岳を越え、太古ノ辻から稜線を離れて、この日の宿泊地・前鬼(ぜんき)へと向かった。
ところが、下っていく途中で激しい雷雨に見舞われ、焦りもあっていつの間にか登山道を外れ、奥深い山のなかへ迷い込んでしまった。その日から8日までは、がむしゃらに歩き回って道迷いからの脱出を図った。しかし、道、案内板、人間、人家、宿坊、救助のヘリコプターなどが、次々と男性の前に現れては消えた。すべて幻覚だった。激しい幻覚に翻弄され、いたずらに体力を消耗した。しまいには背負っていたザックも投げ捨ててしまった。
救助隊長の閃きが発見につながることに精魂尽き果て、9日から11日までは涸れ沢のなかで動かずに過ごした。しかし喉の渇きに耐えきれず、水を求め、膝行(しっこう)して沢を下りはじめた。100メートルの距離を3時間かけて下り、ようやく水にありつけてほっとしていたときに、救助隊が男性を発見した。
男性の捜索は8、9日の2日間にわたって行われたが、「発見は絶望的」と判断され、すでに打ち切られてしまっていた。だが、救助隊長の閃きによって1日だけ捜索を再開することになり、それが発見につながったのだった。
北アルプスで男性6人が遭難、体の一部が10センチの氷漬けで発見され…“吹雪の山”で相次いだ悲惨な事故 へ続く

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