美術の世界で羽ばたくことを夢みる若い女性作家に、「僕なら有力な批評家やコレクターを呼んであげられる」と声をかけたのは、国際的に活躍する著名キュレーターの男性でした。彼は女性作家に企画展を開くと約束したうえで、打ち合わせと称してホテルに呼び出し、関係を迫りました。

美術業界では、権威を持つキュレーターや美術館の学芸員、批評家、大学教員の多くが男性であり、若い女性作家に対する性暴力やセクハラが絶えません。しかし、告発すれば将来の仕事に影響するため、泣き寝入りする被害者は少なくないのです。

弁護士ドットコムニュース編集部では、1年以上かけて美術業界における被害実態を取材してきました。その集大成として、このたび書籍『ギャラリーストーカー 美術業界を蝕む女性差別と性被害』(猪谷千香著/中央公論新社)を発刊しました。

本書では、多くの被害者への取材から、美術業界でハラスメントが起きる構造を明らかにしています。

この記事では、本書を一部抜粋し、地方の若い女性作家である坂田真帆さん(仮名)の体験を紹介します。華やかな美術の舞台裏で何があったのでしょうか――。

●最初は軽いボディタッチから始まった

「僕なら有力な批評家やコレクターを呼んであげられる」

当時、地方の大学院で絵を学んでいた坂田真帆さん(仮名)は、著名なキュレーターの男性から告げられた言葉を、今でもよく覚えている。男性は、美術業界であれば知らない人はいないほどのビッグネームだ。

現在は作家として活躍する坂田さん(30代)は、この後に起きたことを誰にも話したことはない。取材で初めて打ち明けてくれたという。

その頃、男性は坂田さんが在学していた大学院に教えにきていた。坂田さんはまもなく大学院を修了して、作家として独り立ちしようという時だった。

「当時私は、発表の場を東京に持ちたいという思いが強くなっていた頃で、どうしたらチャンスがつかめるか、同級生たちと先生に相談をしに行きました。そうしたら、先生は有名な美術館や美術家の名前を挙げて、そこで活躍しているというすごいキラキラした世界の話をされて、本当にすごいなと思いました」

男性は海外で開かれる有名な国際美術展にキュレーターとして度々参加していた。世界的に知られた美術家やキュレーターたちと親しく付き合いながら、一流の仕事をする。男性の語る華やかな美術業界は、若い作家にとってどれほどまぶしいものだったか、容易に想像がつく。

まだ20代で、これから作家としてのキャリアを積むにはどうしたらよいのか、真剣に悩んでいた坂田さんに、男性は少しずつ近づいてきた。

最初は、学生たちのグループ展を東京で開いてくれるという話だった。坂田さんは、男性に自分の作品について話しているうちに、一対一で食事やドライブに誘われるようになっていった。

「自分としても、美術業界の面白い話が聞けるし、有名なキュレーターの人に気に入られていることが嬉しかったです。ただ、特別な感情はなく、ちょっと仲の良い先生、ぐらいに思っていました」

今思えば、坂田さんは大学院生とはいえまだ学生であり、教員でもあった男性はこうした行為だけでもセクハラにあたるといわれても仕方ない。ところが、男性の行為はエスカレートしていった。

最初は軽いボディタッチ。頭をなでられたり、写真を撮る時に肩を組んできたり。ちょっと気になり、ボディタッチが多いことを指摘すると、男性は悪びれずに「僕は海外で仕事をするから、日本人とスキンシップが違うんだ」と言った。

●呼び出しがカフェからホテルへと変わる

坂田さんは大学院を修了してから本格的に作家活動をスタートさせ、男性も大学を離れてそれまでのように顔を合わせる機会はなくなった。しかし、しばらく経ってから、男性は坂田さんの作品を購入していたこともあり、坂田さんが住む地域に出張で来る際に、会うことになった。

「私も久しぶりに色々と話を聞きたいと思って会いに行きました。何回かそういうことが続いたあと、作家としてステップアップしたいと相談したら、展示を組んであげるよと言ってくれたんです。僕はお前のお父さんみたいなものだからと言ってました」

男性は国際的に活躍するキュレーターでもあり、美術業界での権威でもあった。そんな人物が自ら展覧会を企画してくれると言ってくれたら、若い作家であれば、誰でも嬉しいだろう。坂田さんも当然、喜んだ。

その後、具体的に展示の相談をするため、一対一で会うことがまた増えていったが、呼び出される場所がカフェやレストランではなく、ホテルのバーになっていったという。

「自分は忙しいから、ホテルじゃないと時間が取れない」

男性の説明を、坂田さんは心のどこかでおかしいなと思いつつ、会いに行った。

「展示の企画も進んでいるし、話さないといけないことがあったので、言われた通りにしていました。実際にとても忙しい人ではあるので、仕方ないかなと思いました」

ある時、男性は「けがしているから、会うなら部屋がいい」と言い出した。坂田さんは悩んだが、付き合っている男性もいなかったし、相手は親子ほど年が離れた既婚者で、けがもしているのだからと思い、部屋を訪ねていった。

「今にして思えば、甘かったと思います。けがも全然大したことはなくて。部屋で色々と話しているうちに、キスをされてしまい、うわーと思ったのですが、あとはもう流れでした」

そこで坂田さんが真っ先に考えたことは男性が進めていた展示のことだった。

「もし私がここで拒否したら、展示の企画が全部なくなってしまうのではないかと思いました。深く考えないようにして、もういいやと……」

坂田さんはこれまで以上に、寝食も忘れて制作に取り組んでいった。展示の企画は坂田さんにとって、男性が垣間見(かいまみ)せたキラキラした世界への切符だった。それも、鈍行ではなく、一気に目的地へ到着する特急だ。

男性が一声かければ、企画展には有名な美術評論家やメディア関係者らが駆けつけるはずだ。華やかなオープニングを想像した。

男性を生理的に受け付けない気持ちもあったが、夢の切符のために思考を止めた。

●誘いを断ると、態度が一変した男性キュレーター

一度、一線を越えてしまうと、男性の態度はもっと図々しくあからさまになっていった。

「もう無理だなと思いました。気持ち悪いし、理由をあれこれつけて誘いを断るようにしました。展示の相談だったら会う必要はない、電話でもメールでもできるはずだと思って」

すると、男性の態度がおかしくなっていった。「お前は絶対に結婚するな」とか、「そんな態度では、作家としてはやっていけない」などの暴言を坂田さんにぶつけるようになった。

耐えかねた坂田さんが、はっきりと拒絶すると、「もうわかった」と言われて、携帯は着信拒否にされ、LINEもブロックされた。展示の相談はもうできなくなってしまった。

「そのあと、なんとか展示はできたのですが、その人が呼んでくれると言っていた、評論家やコレクターは一切、来てくれませんでした」

ただ、坂田さんは自分が被害に遭ったというよりも、誘惑に負けてしまったという思いが強いという。

「自分でも、打算的だったと思います。作家としてステップアップするには、著名な評論家に評価されたり、有力なコレクターに購入してもらうことがとても重要です。私は特に地方の学生だったので、それまで知らなかった美術のキラキラした世界を見せられて、その世界へのコネクションを持っている人からの誘いに乗ってしまいました。コンペの審査員もされているので、断ったら作家としてやっていけなくなるのでは、という恐怖感もありました。でも、その人との関係ありきの作家になるのはダメだと思ったんです」

これまで、坂田さんはこの話を誰にも伝えられなかった。

「展示のためにそういうことをしてしまった自分が恥ずかしかった。ただ、一方的に被害に遭ったとは思っていません」

坂田さんは、最後にこうきっぱりと言った。

【この記事は、『ギャラリーストーカー 美術業界を蝕む女性差別と性被害』(中央公論新社)から一部抜粋しています】

企画展と引き換えに…「著名キュレーター」に関係迫られた女性作家 美術業界の「権威」による性暴力