
「きんも」「菌がうつる!」中1の1学期に突然イジメられ…不登校になった私を救ってくれた“うるさいギャル”の存在 から続く
地方の貧困家庭で育った、ノンフィクションライターのヒオカさん(27)。幼い頃から父親の暴力にも晒される生活を送ってきた。2022年9月には彼女の壮絶な人生を綴った著書『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)を上梓し、反響を呼んでいる。
ここでは、同書より一部を抜粋。進学校の高校に入学したヒオカさんが、同級生との会話で感じた“カルチャーショック”とは——。(全2回の1回目/1回目から読む)
◆◆◆
うちは制服を買えなかった多くの人にとって、高校の制服を着る時期は生涯でいちどしかない。中学時代とは違って少し着崩してもいいし、ティーン向けの雑誌では毎回制服の着こなし特集が組まれる。
10代にとって制服を着ることは1つの憧れかもしれない。
私の家には、制服を買うお金はなかった。
私が通うことになったX高は何十年も制服のデザインが変わっていない。そこで、知人からお古をもらうことになった。しかし、私の身長は170センチ。ブレザーがパツパツで、腕を上げると生地が引きつれ、ボタンが取れそうになる。スカート丈が短くて膝を隠しきれないので、制服検査では早々に先生に目を付けられてしまった。
丈が短いのが気になり、別の人から大きめのお古をもらった。すると今度は横に広くて、瘦せ型の私にはだぶついた。縫い目や肩が不自然な位置にきて、不格好だった。採寸して各々の体にぴったりと合ったみんなの制服を見ては、胸がチクリとした。
周囲と私の違いはそれだけではなかった。
「わしのご飯をつくるのが遅くなる」という理由で部活動を制限うちの高校は文武両道を校風に掲げ、部活への加入は絶対だった。私は中学の時の無念もあり、運動部に入ろうと体験入部に参加した。しかし、父に言われた。
「お願いだから運動部はやめてよ。お母さんが迎えで遅くなったら、わしのご飯つくるのが遅くなる」
自分のご飯をつくるのが遅くなる。そんな理由で部活をあきらめろなんて、あきれ果てて何も言い返せなかった。が、理由はそれだけではなかった。
部活動にかかる道具やユニフォーム、合宿費などは自己負担だ。私は高校も奨学金で通っていたし、とてもそんなお金を出す余裕はなかった。習い事は一切できなかった家だ。
ある意味当然だった。塾や習い事など、あきらめたことはたくさんあった。しかし、部活まで制限されるとは思いもしなかった。
アスリートを見て思う時がある。彼らは確かに稀有な才能を持ち、並々ならぬ努力を重ねた。そして、才能が開花の兆しを見せるまで、投資してもらえる環境があった。努力できる環境に身を置けるのは、ある程度お金がある人だけだ。音楽も同じだ。ピアノをはじめ、楽器に触れる環境がなければ、そもそも何が好きで、何が得意なのかすら、わからない。
好きなことって何?
得意なことって何?
私にはそれがわからなかった。
勉強はそれなりに好きで得意だけれど、進学校にいれば上には上がいることに容易く気づく。周りの友達はバンド活動をしたり、ダンスに明け暮れたり、陸上でインターハイを目指したりしていた。人生を懸けるとまではいかなくても、好きかも、と思えるものに出会い、真っ直ぐそれに打ち込める。その姿が眩しくて、遠い存在のように思えた。
進学校に貧困家庭の子はいない高校生活はいきなりオリエンテーション合宿という名の勉強合宿からはじまった。
中学からの友達はほぼいないところからのスタートだったが、この高校には様々な中学校から生徒が集まってきているということもあって、人間関係はみな探りさぐりだった。
中学時代、教室にいられなかった私にとっては、まずは普通に学校生活を送ることが課題だった。義務教育ではないので、不登校になれば退学せざるを得なくなる。
最初のうちこそ集団生活が息苦しくて、休憩時間になると誰もいない教室に逃げたりしていた。それも友達ができてからは次第に落ち着いていった。
X高で驚いたのは、あまりに治安がいいことだった。同じ中学校から来た面々だけ見ても、穏やかな平和主義の子たちばかり。いじめは3年間まったくなかった。グループはできるが風通しもよく、クラスの中心にいるグループの子たちも友好的だった。肌なじみがいいというか、色んなタイプの子が共存できる環境だった。
そして、高校に入って感じたのは、どの子も両親が安定した職についているということだった。経済的に中流以上の家の子がほとんどだった。
自分はレアキャラだと気付いた瞬間思えば中学時代、相談室まで給食を届けにきてくれた友達は、余裕で進学校に行ける成績だった。でも、シングルマザー家庭に育った彼女は「親に負担をかけたくないから」と、あえて進学校を受けなかった。団地の子、フリースクールで出会った子、相談室の子たちは、みな定時制や商業高校に行った。
「親が高校出たら働けって」
「うちは大学なんか行けん」
不安定な家庭の子たちは、義務教育を終え高校を選ぶ時点で、選択肢が消えていったのかもしれない。
私は高校に進学はしたものの、家では大学の話は一切、出てこなかった。一方で、高校の友達はみな、「大学行くのは当たり前って感じ」「親が就職のためにいい大学行けってうるさい」と言っていた。
「え? 大学行けって、いつから言われるん?」
「中学とかかな? 気づいたら塾行かされてるしなー」
カルチャーショックだった。たまたま成績がよくて、大学や就職のことなんて1ミリも考えず、勧められるままに進学校に流れ着いた私。物心ついた時から大学に行くことを運命づけられ、ほぼ必然的に進学校に来た子たち。ここでは自分はレアキャラだ、と気づいた瞬間だった。
「成績悪いと親に怒られる」「塾に無理矢理行かされる」。そんな話を聞いて、ショックだった。私があれほど行きたかった塾は、他の子にとっては無理矢理行かされる場所らしい。
うちは、親戚を含めて中卒が当たり前だった。高卒は贅沢なんだよ、と親から聞かされて育った私は、親の世代ではそれが当たり前のことだと思っていたし、昭和には大学が存在しなかったんだろうというくらいの世間知らずな認識だった。両親が大卒という友達に囲まれ、今までの常識が音を立てて崩れ落ちた。
お金があっても悩みはある高校で最初に仲良くなり、今に至るまでずっと仲良くしている2人がいる。しょうことはるだ。しょうこの家はお父さんが祖父の代から続く家業を継いでいる。はるのお父さんは政治家だ。その後仲良くなった子たちも、父が海外勤務、両親が教師などで、親がフリーターや日雇い労働者という子はいなかった。
生活で違いを感じることがたくさんあった。最新のスマホ、ブランドものの財布、毎日色が変わるカーディガン、栄養バランスが考えられ、色とりどりのおかずがぎっしりと敷き詰められたお弁当。コンビニに立ち寄れば、迷いなくお菓子や飲みものを買い、好きなアーティストのグッズにお金を惜しまない。みんなの生活のあらゆるところから、私にはない余裕が垣間見える。
それでも、彼女たちを一方的にうらやむことはあまりなかった。みんなが抱える事情や痛みも、同時に見えていたからだ。
うちでは考えられない友人たちの環境部活がない時は、高校から近い友達の家に遊びにいった。友達の親御さんはいつも私によくしてくれた。どの家も玄関だけでうちの1部屋はありそうなほど立派で、田舎ではなかなか見ないようなピカピカの車を持っている。
みんな笑顔で迎えてくれたけれど、なんとなく、不穏な空気を感じ取る時もある。さりげなく友達に聞くと、「成績が悪くて、親に漫画を捨てられた」とか、「進路のことで親と喧嘩していて」という事情を打ち明けられることもあった。「〇〇大学以上じゃないと大学じゃない」と言われたり、成績が下がるといろいろ制限されたりという友人たちの環境は、うちでは考えられないことだった。他にも、引きこもりのきょうだいがいて不仲だったり、進路や成績について執拗に叱責されたりする友達を見ながら、「人には人の地獄がある」と悟った。
親が決めた枠のなかで進路を選ぶ子供は本当にしあわせなのかしょうこは幼い頃から習い事をいくつも掛け持ちした。でも何がやりたいのかわからなくなり、どれも途中でやめたと言う。
「しょうこはなんで親の仕事を継ぐの?」と聞いたことがある。「小さい時から見てきたから自然と。それ以外、考えたことがない」という答えだった。「弟ばっかり期待されるのが悔しくて。親が言う大学に受かれば、ちょっとは私のことも見てくれるかなって」とこぼしていた。そう言うしょうこの顔は少し寂しげだった。
しょうこだけではない。他にも親と同じ職業を目指す子は何人かいた。
親の職業。私の父は職を転々として、もはや今何をしているのかわからないような状態だ。母もパート勤務で「親の職業」と呼べるものは、私にはない。親の職業に影響を受けるという感覚が、私にはまったくわからなかった。
社会的に見ると、私はみんなとは対照的な家庭で育った。勉強しろとか、進路はこうしろとか、そういうことを言われたことはいちどもなかった。教育の投資は受けられなかった。しかし、高校に合格した時には「うちから進学校に行くなんて奇跡みたい」と無条件に喜んでくれた。それがいいのか悪いのかはわからない。ただ、たっぷりとお金をかけてもらっても、「自分が本当にしたいことがわからない」と言いながら、それでも親が決めた枠のなかで進路を選ぶ友達が本当にしあわせなのか正直わからなかった。
“普通とは違う”自分の境遇を憎めなかったもう1つの理由お金があるからしあわせとは限らない。
他人を表層だけ見て決めつけない。
それぞれ抱える事情がある。
人には言えない苦しみがある。
私が“普通とは違う”自分の境遇を憎めなかった理由がもう1つある。貧しいなかでも、懸命に、痛いほどに私のことを愛してくれた母の存在だ。
周囲との違いに対する戸惑いや寂しさに、思春期の不安定さが重なり、母に恨みをぶつけてしまうことも少なくなかった。それでも母はいつも静かに受け止めてくれた。私がどんな態度をとっても、母は変わらなかった。母は、言葉や態度の奥にある、痛みを見ることができる人だった。体調を崩しがちな私のことを、いつも心配していた。雑炊やりんごをすりおろしたものを用意してくれた。肩や首が凝って、頭痛がひどい時には、1時間かけてマッサージをしてくれた。学校に行けなくなった時、よくドライブに連れていってくれたのも母だった。
何があっても母は私の味方だった。

コメント