―[言論ストロンスタイル]―


◆今や、日本人北朝鮮人民を笑えなくなった

 まだ、このくだらない世の中が続くのか……。

 検討使岸田文雄首相の綽名(あだな)だ。最初に名付けたのは、国民民主党玉木雄一郎代表だったと記憶している。しかし、最近は「検討使」も返上か。「検討を指示」することが多くなった。自分で検討すら行わない。しかし、すべてを岸田首相一人の責任にはできまい

 今や、日本人北朝鮮人民を笑えないほど、文明から隔離されているとしか言いようがない。北朝鮮人民にも外国に旅行に出る人もいれば、外国人の様子をテレビなどで目にすることもある。かつて我々日本人は「どうして自分たちの状態をおかしいと思わないのだろう」と訝しがっていたが、何十年もあの異様な体制のままだ。金一族による朝鮮労働党独裁体制は揺らぐ気配が無い。しかし、今の日本も北朝鮮の如く、世界の不思議と化している。その典型例がコロナ(以下、新コロ)だ。

◆この期に及んで今すぐではないコロナの5類への移行

 1月27日に、ようやく岸田内閣は新コロの5類への移行を閣議決定した。ただし、時期はゴールデンウィーク明けの5月8日。この期に及んで今すぐではない。政府の大臣と官僚は大馬鹿三太郎さんの集まりか? 頭に蛆(うじ)でも湧いているのか?

 世界中、とっくにコロナ禍を終わらせている。外国人観光客が日本に来て、「タイムスリップしたみたいだ」と驚く。地上波は世界中さもコロナ禍が続いているかのように「マスクをしている外国人」を写そうと必死だが、無理がある。東京オリンピックでも、日本ではマスクソーシャルディスタンスだが、次期開催地のパリは「ノーマスクで三密」だった。これを見て、何とも思わない。思ったところでどうにもできない。今の日本人北朝鮮人民の、どこがどう違うのだろう。

 北朝鮮では人民が気付いたところで、どうにもならない。金一族と特権階級に圧殺されるだけだ。一方の日本は、国民主権の民主主義のはずだ。もし愚かな選択を続けているとすれば、国民自身が愚かなのだ。いいかげん、我々日本国民は、「自分たち自身が愚かなのではないか」と自己検証すべきではないのか。

◆国民自身の同調圧力による制裁は政府によるリンチの推奨

 その手始めが新コロだ。’19年12月の初動では、「未知の伝染病」だった。「もしかしたらペストやエボラのように危険な伝染病かもしれない」と警戒するのにも理由があった。初動で悲観論に立ち、感染拡大防止に努めたのも理由なしとは言えない。

 だが、いったん恐怖を植え付けられた人々のパニックは収まらない。動揺する国民に対し、政府は全く必要のない緊急事態宣言を繰り返し、マスク生活を強要した。しかもその手段は法による責任ある手法ではなく、「要請」「お願い」などの無責任な方法であり、制裁手段は国民自身による同調圧力を使った。政府による私的制裁(リンチ)の推奨である。恐怖に打ち克たねばならない時に、パニックをまき散らした。大失政である。そこにさらなる失政をまき散らした。ワクチンである。

◆「コロナが何なのか」の証明は、誰もしていない

 ここでワクチンの科学的根拠はさておく。私は「たった1年でできるワクチンなんて信じられるのか」と疑問に思っていたが、科学的なことはよくわからない。仮に、このコロナペストやエボラのように危険な伝染病ならば、究極の選択として「より少ない被害」を選ぶために、リスクを甘受しても、全国民にワクチンを義務付けるのもやむを得なかっただろう。ところが、「コロナが何なのか」の証明は、誰もしていない。少なくとも、ペストやエボラのように危険な伝染病であるとの証明も無く、「感染者が増えてはならない」との初動での掛け声が何も考えずに繰り返された。

 ちなみにイーロン・マスク氏がツイッター社を買収してから、ワクチンリスクSNSで流れるようになった。よほどの言論統制が行われていたと考えるのが自然だろう。

 ここで百歩譲る。仮に人心鎮撫の目的でのワクチン普及ならば、意義が認められただろう。しかし、日本政府はワクチン普及の際に、「1日100万本」などの、数値目標だけを独り歩きさせた。しかも専門家と称するヤブ医者どもは「ワクチンが普及しても、マスクは外せません」などと吹聴、国民は従った。

◆日本のコロナ禍は人災にすぎない

 このワクチン普及にしても、そんなに必要ならば「任意」などにせず、強制にすればよかったではないか。結局、「コロナペストやエボラのように危険な伝染病である。だから、リスクを冒してでも全国民がワクチンを接種する義務がある」と証明できないから、「なんとなく接種」「強制ではないから好きにしてくれ」となったのではないのか。無責任極まりない。

 諸外国は「ワクチンを打てばコロナは終わり」で、終わらせた。一方の日本は何の為にワクチンを打ったのか、意味不明だ。今の日本のコロナ禍は人災にすぎない。

 どうせコロナ脳の人間には何を言っても無駄なので、言ってやろう。

◆日本政府(学歴秀才型の官僚)に政権担当能力はない

 初動ならいざ知らず、少し時間を置いてみれば、新コロなど「変わった風邪」であると冷静な人間は気づいていたではないか。専門家と称するヤブ医者どもが、ムキになって自分の過ちを認められなかっただけで。そしてそのようなヤブ医者どもに振り回された、日本政府に政権担当能力はない。日本政府とは自民党政治家のことではない。官僚の事だ。

 どうして、こうなったか。日本人は、未知の出来事に対して無力だ。結局、誰かが決めた正解を探す、学歴秀才型の人間が指導する社会と化したから、こうなったのではないか。昔軍人、今官僚。

 まさに大東亜戦争も、そのような学歴秀才が指導して敗れた。確かに学歴秀才たちは、誰かが決めた正解を探し出す能力には長けている。しかし戦場に限らず、現実には何が問題なのかを自分で見つける、あるいは決めねばならない局面だらけだ。

◆今の指導者に圧倒的に足りない「哲学」

 では指導者には、何が必要か。哲学である。哲学とは「それは何なのか」「それは何の為にやるのか」の二つに収斂(しゅうれん)される。コロナ禍でも大東亜戦争でも、この二つが決定的に欠けた。一度決まったことを何も考えずに、やめられなかっただけだ。そこに秀才型の屁理屈が加わると正論が通らない。

 自民党に限らず、選挙で選ばれた政治家が官僚をシンクタンクとして使ってきた。その官僚がヤブ医者どもに頭を丸投げした。

 殺されたくなければ、自分の頭で考えるしかない。

【倉山 満】
’73年、香川県生まれ。憲政史研究者。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、「倉山塾」では塾長として、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交についてなど幅広く学びの場を提供している。主著にベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』や、『13歳からの「くにまもり」』を代表とする保守五部作(すべて扶桑社刊)などがある。『沈鬱の平成政治史』が発売中

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1月20日、岸田文雄首相は新型コロナの位置づけについて、現在の「2類相当」から、インフルエンザと同様の「5類」への引き下げへの検討を加藤勝信厚生労働相ら関係閣僚に指示した 写真/産経新聞社