岸田総理の「社会が変わってしまう」に、荒井勝喜元総理秘書官の「見るのも嫌だ」。性的少数者や同性婚のあり方をめぐって驚くべき発言が繰り返されました。欧米メディアからも“G7で唯一同性婚を認めない国”と報じられ、今後の対応次第では先進国としての立場が揺らぎかねない状況です。

◆人気アーティストのMVをめぐって巻き起こった議論

 では、LGBTQへの理解が進んでいるとされる欧米はどうかというと、いまある音楽をめぐって議論が巻き起こっているのです。

 それは「Stay With Me」の世界的大ヒットで知られる歌手、サム・スミスの新曲「I’m Not Here to Make Friends」のMV。全身ピンクドレスからスリットの入った黒のロングスカート着替え、最後はキラキラと飾りのついたコルセットニップレス姿で踊りまくり、際どい絡みもみせています。



 かねてよりノンバイナリー(自らの性が男性にも女性にも当てはまらないという考え)だと公言しているスミスですが、ここまで目に見える形で自らの性的指向を訴えたのは初めてでした。

◆誰も「いい曲か、悪い曲か」を話さない議論

 ところが、これに批判の声があがったのです。そのほとんどは卑猥な演出と太ったスミスのミスマッチに不快感を示すもの。性的少数者に寛容で理解が進んでいるとされる欧米でなぜこんなことが起きてしまったのでしょうか?

 アメリカの全国紙『USA Today』(2023年2月2日)の取材を受けたUCLAの社会学教授のアビゲイル・サガイ氏は以下のように分析します。

 性自認と性的志向と体型のイメージはそれぞれが密接に関連しているので、同性愛者で太ったサム・スミスが欲望を率直に表現したときに、“世間の期待するふつう”からはみ出してしまう。そのときに反発を買ってしまうというわけですね。

 同様にファッション『Vogue』電子版(2023年1月31日)も、もしサム・スミスハリースタイルズのようにスリムだったら、ここまで笑いものになったり議論の対象になっただろうか? と疑問を投げかけています。

 凝り固まった“ふつう”から反感が生まれるのだから、「I’m Not Here to Make Friends」のMVは性的少数者や体型に悩む人たちを勇気づけるものである。『USA Today』と『Vogue』はいずれもサム・スミスを支持していました。

◆一方で作品や表現としての質を厳しく問う意見も

 その一方で、スミス自身のアイデンティティメッセージは受け止めつつ、作品や表現としての質を厳しく問う意見も。イギリス週刊誌『The Spectator』電子版(2023年1月30日)に掲載された「恥ずかしいほどお粗末な今日の性的マイノリティーのカルチャー」という挑発的なタイトルのコラムです。

 著者のギャレス・ロバーツ氏は自身が青春時代に聴いたSoft Cell(ボーカルマークアーモンドシンセサイザーのデイヴ・ボールによるイギリスの2人組テクノポップユニット)を引き合いに出して論じています。

ソフト・セルのアルバムもたしかに物議を醸した。しかしそこには大きな違いがある。彼らの作品は知的で独創的だった。音楽的なおどろき、ウィット、そして彼らならではの考えに満ち溢れたものだったのだ。ソフト・セルはありとあらゆるタイプヨゴレたちを曲にした。>

 売春や虐待が当たり前の日常や、セレブゴシップに夢中な大衆。退廃的な不道徳にひかれる都市生活の虚無感を歌ってきたソフト・セルも悪趣味でした。しかしながら、その表現技法や描いた世界の奥行きがまるで異なるのだとロバーツ氏は言います。

ソフト・セルの描いた世界がゴシック聖堂だとすれば、サム・スミスは園芸店程度のものだ。>(筆者訳)



 ソフト・セルの婉曲的で多面的な表現とは異なり、「I’m Not Here to Make Friends」は<見世物小屋でウケそうな陳腐な紋切り型>だと斬り捨てています。

◆“正しさ”による同調圧力

 そのうえでロバーツ氏はわかりやすいプレゼンテーションがウケる背景に、“正しさ”による同調圧力の存在を見るのです。

<時代から取り残されていると見られたくないがために、ファンキーで新しいと思えばいまや人々はなんでもかんでも称賛してしまうのだ。>

 その賛同とやらは差別にフタをしているだけなのではないかと懸念を示しているのですね。

 ソフト・セルのマークアーモンドも自身がゲイだと公言しています。しかしながら2017年のインタビューで昨今のLGBTQムーブメントがかえってマイノリティーの分断を招いたとも指摘しており、この点でもサム・スミスとは異なる視点の持ち主だとわかるのではないでしょうか。ソフト・セルは楽曲を通じて世間の同意を求めていないからです。

メッセージの正当性は曲の質を裏付けるものではない

 さて、こうして批判、擁護、時評コラムを一通り見てみると、なんか引っかかるのです。いずれにも音楽そのものへの言及がないから。いい曲なのか悪い曲なのかすら誰も言っていません。異常事態です。

 だとすれば、これはそもそも音楽作品なのだろうかとの疑問も浮かんできます。サム・スミスの訴えかけたい企みのために音楽が踏み台にされていないだろうか?

 同様に物議を醸した「Unholy」が曲としても中東音階を用いてインパクトを残したのに比べると、「I’m Not Here to Make Friends」は冗長です。完全に映像に負けてしまっています。



 メッセージの正当性は曲の質を裏付けるものではない。皮肉にも、サム・スミスは当たり前の真理を教えてくれたのです。

文/石黒隆之



【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツエンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

Sam Smith『Gloria』/Universal Music