「とりあえずもらおうかと思っている」

JBpressですべての写真や図表を見る

 近く満65歳になる筆者の知人はソウル地下鉄無料カードを申請するという。

 ゴルフに旅行に元気で、企業の顧問も務めていくらか収入もある。それでも「もらえるものはもらう」が心情だ。

 韓国で、いまは満65歳からとなっている地下鉄の無料制度についての論争が再燃している。

ソウル地下鉄料金値上げ計画

 今回の議論の引き金となったのは、ソウル市による地下鉄料金引き上げ計画だ。

 農畜産物や日用品などの上昇に加え、電気・ガス料金が大幅に上昇、インフレが国民生活を直撃している。

 そこへ、ソウル地下鉄(1~8号線)を運行するソウル交通公社を抱えるソウル市が、料金値上げの方針を明らかにした。

 ソウル市は、「地下鉄事業は大幅な赤字が続いているが、その主因は無料乗車だ。国が財政支援してくれないなら大幅値上げは不可避」と投げかけたのだ。

 これを機に、これまでも何度もあった「地下鉄無料制度の是非」を巡る論議が再燃しているのだ。

 その背景にあるのが、韓国で最大のベビーブーム世代といわれる「58年戌年(いぬどし、1958年生まれ)」が今年満65歳になり、本格的な高齢社会が始まることもある。

 インフレに、韓国で象徴的な世代が65歳になることが加わり、大きな論争になっているのだ。

暖房代の大幅増加

「ガス料金請求書爆弾」

 2023年1月、韓国の多くの国民が、12月のガス料金の請求書を見て仰天した。これまでに見たことがない金額だったのだ。

「5割増えた。間違いだと思ってアパートの管理事務所に抗議しようとしたら、同じような問い合わせが相次いでいますが、間違いありませんといわれた」

「我が家は2倍になった。何でこんなに使ったのだと夫婦喧嘩になった」

 こんな笑えない話をあちこちで聞いた。

 原料価格、特にLNG(液化天然ガス)価格の急騰で、韓国ではガス料金が2022年だけで4回引き上げられた。

 2022年は11月までは比較的暖かい日が続いた。ガス使用量がさほど多くなく、また、ほかの物価が上昇していることもあって、ガス料金の上昇も、さほど気にならなかった。

 ところが、12月半ばにソウルでも最低気温が氷点下10度を下回る日が続き、暖房利用が増えた。

1月の消費者物価反転

 そのために、一気にガス料金が跳ね上がったのだ。

 電気料金も上昇しており、こうした公共料金の上昇もあって、韓国の「物価高」になかなか歯止めがかからない。

 韓国の統計庁が発表した2023年1月の消費者物価上昇率は前年同月比5.2%だった。

 2022年5月に5.4%と5%台に上昇し、7月には6.3%となった。11月と12月は5.0%となり、利上げ効果もあって落ち着くとの期待もあったが再び上昇に転じてしまった。

 統計庁は、1月の上昇について、公共料金の大幅上昇が最大の要因だと分析した。

 特に、都市ガス料金36.2%、電気料金28.3%と突出して大きな値上がりとなった。物価上昇は国民生活に大きな影響を与えている。

 電気・ガス料金はさらに上昇する可能性があるが、ここにきて、交通費の値上げの動きが出てきた。

 まず値上がりしたのがタクシー料金だ。

 2022年12月に深夜料金、さらに2023年2月からは基本料金が引き上げになった。

 ソウルの中型タクシーの基本料金は、2キロメートルまで3800ウォン(1円=9.5ウォン)だったが、これが1.6キロメートルまで4800ウォンになった。

 距離追加料金の基準は、132メートルあたり100ウォンから131メートルあたり100ウォンに、時間当たり追加料金は31秒100ウォンから30秒100ウォンになった。

 深夜割増料金も大幅値上げになっていた。

赤字経営で値上げは不可避だ

 国民全体が「物価」にきわめて敏感になっているこの時期に、ソウル市が地下鉄料金の値上げに向けて動き始めた。

 ソウル地下鉄料金は、2015年に10キロメートルまで1050ウォンから1250ウォンになって以来8年間そのままだ。

 ソウル市傘下にある地下鉄運営会社、ソウル交通公社は、ここ数年赤字経営が続いており、ソウル市は「値上げは不可避だ」という立場だ。

 インフレや値上げという言葉に敏感な首都圏の利用者を意識したのか。

 ソウル市は、燃料費や人件費など諸経費の値上がりなどとは異なる別の理由を強調した。

「高齢者無料制度」だ。自分たちのせいではないと言いたいのかもしれない。

高齢者地下鉄無料制度

 韓国では、65歳になると地下鉄利用が無料になる。

 これは1980年に、70歳以上に対して5割引とする制度から始まった。その後、1984年に、65歳以上は無料とする制度が始まった。

 所得制限などはない。

 最初は、「お年寄りを大切にする」という制度で、反対意見はなかった。

 問題は、高齢化が急速に進んだために、それとともに無料利用者も急増していることだ。

 1984年に制度が始まった時点では、韓国の総人口は4040万人、65歳以上は167万人で、その比率は4.1%に過ぎなかった。

 ところが、65歳以上の比率は2008年に10.2%、2020年には15.7%になった。

 ソウル交通公社の試算では、2021年時点で「無料乗車」の人数は延べ2億人強だという。

 ソウル交通公社は、ここ数年巨額の赤字が続いている。営業損失は、2020年1兆902億ウォン、2021年9385億ウォンだった。

赤字の3割は無料乗車だ

 営業損失が1兆ウォンにまで膨らんだのには様々な理由があるが、ソウル市は「赤字の3割ほどは無料乗車による」と説明する。

 この問題に手を打たない限り、赤字体質から脱却できないということだ。そのためには、大幅値上げか政府の支援が不可欠だ。

 今の経済情勢で、大幅値上げはしにくい。となれば政府に頼るしかない。

 呉世勲(オ・セフン=1961年生)ソウル市長は「65歳以上に対する地下鉄無料化は、政府の方針で導入された。にもかかわらず、その費用負担は自治体が経営する公社だというのはおかしい。政府が負担してくれれば、地下鉄料金の値上げ幅も小さくできる」と話す。

 ソウル市は、1250ウォンである地下鉄の料金を、300~400ウォン引き上げることを検討しているが、政府の支援次第があれば再検討できるという立場だ。

 呉世勲ソウル市長を援護射撃する形となっているのが、韓国南東部にある大邱(テグ)の洪準杓(ホン・ジュンピョ=1953年生)市長だ。

人生100年時代におかしい

 政府の支援がなければ、「地下鉄の無料乗車の年齢基準を満70歳に引き上げる」と表明した。

 2017年の大統領選挙にも出馬した洪準杓市長は「人生100年時代に合った老人世代の基準」を適用することを検討すると話す。

 呉世勲市長も洪準杓市長も、政権与党の市長であり有力政治家だ。

 2人とも、今のような無料乗車制度を続けていては、正常な地下鉄事業経営はできないという立場だ。

 政府も、2人の言い分を理解していないわけではないだろう。「インフレ対策」は政府にとって最優先課題でもある。

 公共交通料金の大幅値上げは何とか先延ばししたい。それでも、「料金支援」を求められてすぐに「はい」とは言えない。

 秋慶鎬(チュ・ギョンホ=1960年生)副首相兼企画財政相は「地下鉄運営の赤字を中央政府が埋めるのは適当だとは思えない」と国会で繰り返し答弁している。

 企画財政部はもともと財政規律に厳格だ。

 高齢者の無料乗車は1984年からのことだ。今年から政府の負担ということになれば、それなりの理由付けも必要なのだろうか。

 また、高齢者団体などからは「そもそも地下鉄の赤字を高齢者の無料利用のせいにするのはおかしい」との批判も出ている。

 ソウル交通公社が運行する地下鉄の年間利用客数は、2019年の17億6900万人から2020年は12億8200万人に急減した。

 無料乗車制度のせいだと決めつけるのは無理がなくもない。

 高齢者団体は、ソウル交通公社の人件費の高さや赤字でも成果給を支払っている点を批判し、「コスト削減が先だ」という姿勢だ。

持続可能な制度ではない

 それでも、今の無料乗車制度をいつまで続けるのかという声も徐々に広まっている。急速に進む高齢化の中で持続可能な制度ではないからだ。

「58年戌年」が満65歳を迎え、2025年には65歳以上が全国民の20%を超えてしまう。

 韓国紙デスクはこう話す。

ラッシュアワーに登山服で地下鉄に乗る高齢者を見て、若い世代が不快そうにする様子をよく見る。地下鉄の赤字問題だけでなく、このまま放置すると、世代間対立を激化しかねない」

 韓国では、あちこちで考え方の衝突が起きている。

 政治理念を巡る対立、男女や世代間の対立、経済両極化が生む対立・・・政府も自治体もこうした対立を助長したくない。

 混雑するラッシュ時の地下鉄がその発火点になってはたまらない。ではどうすればよいのか。

 若者を中心に制度を廃止すべきだとの意見も少なくないが、国民の2割に達する65歳以上の反発は必至だ。

 このデスクは「年齢制限の引き上げや、政府による一部支援、または無料での利用時間を制限などで決着させるのか」と読む。

 いずれにせよ、一度導入していた「無料制度」を縮小するのは簡単ではない。

58年戌年

「58年戌年」には韓国では独特の語感がある。

 90万人以上が誕生した。

 出生人数だけで見ると、もっと多い年があるが、この世代が韓国で様々な社会現象の象徴だった。

 人数が多過ぎて小学校時代は、詰込み教室で「モヤシ教室世代」と呼ばれた。この世代が通過する際にはいつもうねりが起きた。

 受験競争、高度経済成長、就職競争、そして1980年代の民主化の主役だった。ファッションや音楽、映画、ドラマなど流行に敏感で、ブームを作ってきた。

 IMF(国際通貨基金)経済危機では大きな打撃を受けた。

 豊かになり、民主化も進んだ時代の主役だったこの世代が満65歳を迎える。

 地下鉄の無料制度の議論が再燃したのも、この世代が対象となったことと無縁ではない。

 この世代が動くと、制度も変わってしまう。今回もそうなりつつある。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  まさか! 韓国の経済成長率が日本より低くなる?

[関連記事]

韓国で相次ぐ銀行トップの交代劇はなぜ

韓国大統領、企業人100人連れてセールス外交

韓国では65歳になると地下鉄が無料になる(写真はソウルの中心街・明洞駅の出口)