NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康は、いわゆる「三英傑」の他の2人、織田信長豊臣秀吉と比べて地味な印象があります。しかし、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、家康は「普通の人」だからこそ、300年近く続いた江戸幕府という完成度の高い統治システムを構築しえたと指摘します。本郷氏が著書「天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略」(宝島社新書)より、信長、秀吉、家康の違いについて解説します。

「天才」織田信長

従来の戦国大名にとって重要なのは、あくまでも自分の本拠地となる土地です。

逆に言えば、自分の責任でその領地を支配する権力を有する者が、戦国大名だということになります。

その意味では、最初に天下を統一しようとした織田信長は「普通の戦国大名」とは真逆で、あまりにもかけ離れた存在でした。信長は自分の本拠地を決して特定の土地に縛り付けることはしませんでした。領土を拡張していく過程で、本拠地とはあくまでも統治に最も相応しい場所へと、次々に変えていったのです。

たとえば駿河の戦国大名・今川家では、「今川仮名目録」という自国内で使われる法律を定めています。そのなかには「駿河は今川家が誰の力も借りずに平穏に治めている国である。それゆえに駿河国のなかに今川家の手の入らない土地があってはならない」と記されています。将軍や天皇の力は借りず、駿河は今川がその責任において治める土地である、というわけです。

これがいわゆる室町幕府における守護大名であれば、名目としてはあくまでも将軍の代理であり、自らは将軍あっての存在ということになります。しかし、戦国時代における足利将軍家の存在感の薄さからしてよくわかるように、戦国大名にとってはもはや中央の力は関係ありません。

このような戦国大名のあり方を、日本中世史研究の泰斗である故・永原慶二先生(一橋大学名誉教授)は「大名国家」と呼びました。すなわち、ひとつひとつの戦国大名が、それぞれ国家なのだ、ということです。戦国時代にかけて、日本各地に「国」というひとつのまとまりが生まれ、そこに住む人々も、その「国」に帰属意識を持つようになったと考えられます。現代で言えば、それは県に当たります。その国の庶民たちは、たとえば越後の人であれば、「自分たちは越後人だ」というような意識を持つようになったわけです。

また、越前の朝倉敏景が定めた「十七カ条」では、「内政については他国の者を登用してはならない」とされています。信用できるのは同国人であり、他国人は信用できないというわけです。およそ、これが一般的な戦国大名の価値観だと思います。だからこそ、そう簡単には自分の本拠地を動かさなかったし、他国の人間を重用することもなかったわけです。

武田信玄を例に取れば、彼の本国は甲斐です。そこから信濃へと侵攻し領地を拡大すると、信玄は越後の上杉謙信とぶつかることになります。こうして、およそ一〇年にわたり「川中島の戦い」を繰り広げました。そうなると、当時でいう海津城(現在の松代城)が武田側の前線基地です。つまり上杉の軍勢を海津城で食い止めている間に、本拠地である甲府から本隊を動かして救援に向かわせることになります。ならば、いっそのこと諏訪あたりに拠点を移せば、対上杉の軍勢も動きやすく、かつ甲斐と信濃の領国全体を治めるのにも都合がよかったはずです。ところが、信玄は頑として甲府を動きませんでした。

繰り返すように、武田信玄にとってあくまでも甲斐が本国です。信濃へ領土を拡大しても、それは変わりません。

今川も駿河から遠江、三河と西へ領土を拡大しましたが、本拠地は駿河から決して移しませんでした。そこには、今川の本国は駿河であるという意識が感じられます。つまり、戦国武将にとって、守るべきものはあくまでも「自分の国」だったと言えるでしょう。

こうした戦国大名のあり方からすると、やはり織田信長の存在が際立ちます。尾張の那古野城で生まれたのち、清洲城へと移り、美濃攻めのために小牧山城、美濃を攻め取った後は岐阜城、その後、安土城へと、信長は本拠地を次々に変えていきました。先に述べたように、その次には大坂に入るつもりだったとも考えられています。

信長はその時々の戦略、政治上の目的のために自身の居城を移すことを全く厭わない戦国大名でした。その意味で、信長は戦国大名としては特異な存在だったと言えます。

武田信玄も信濃国を攻め、領土を拡大しています。今川も遠江、三河と次々に領国拡大に動いています。しかしながら、彼らは決して本拠地を動かしませんでした。これは領土拡大が一番の目的ではなく、自国領の安全を保障するための侵略に過ぎなかったのだと考えられます。つまり、本拠地を守るために、緩衝地帯となる領地を増やす、という意味での侵略です。

武田や今川と比べると、やはり織田信長は目的がそもそも違いました。彼が「天下布武」を掲げたとき、明らかに彼の構想の先にあったものは、全国の全てをまとめて、日本という国を統一することでした。

「天下統一」というビジョンを打ち出し、「日本をひとつにする」と考えた戦国大名は、信長が初めてだったのです。

つまり、信長は「天下布武」というビジョンを初めて提示したという意味で、「天才」的だったと言えるでしょう。

「アイデアマン」豊臣秀吉

信長は、国という単位に拘泥せず、自分にとって今、必要な地域はここだと決めて、支配地域を広げていきます。本拠地を次々に変えたのも、政治や軍事、経済の状況を見極めながら、その時々で最も重要な拠点と思われるところに移ったからなのです。

「日本をひとつにまとめて、ひとつの権力によって支配する」=「日本をひとつの国とする」こと。すなわち「天下布武」というビジョンを信長の死後、受け継いだのが豊臣秀吉でした。

信長は天下統一まであと一歩というところで、明智光秀の謀反に遭い、本能寺の変で討たれてしまいます。この光秀を倒し、信長の後継者レースに勝利した秀吉が、信長のビジョンを見事に実現したのです。

信長の死後、徳川家康落武者狩りに怯え、「神君伊賀越え」によって九死に一生を得る経験をしています。光秀もまた、秀吉に敗れたのちに農民たちによる落武者狩りで討たれています。

つまり、信長というカリスマの力で統治された政権は、信長が死ぬと同時にその秩序を一気に瓦解させました。いわばアナーキーな状態になってしまったのです。

その意味では、信長の政権は明確に天下統一というビジョンを打ち出しながらも、本能寺の変で討たれた頃にはまだ、ひとつの国としての秩序と体制を盤石にはできていなかったと言えるでしょう。

しかし、秀吉の場合はどうでしょうか。秀吉の死後、日本全土がアナーキーな状態になったかというと、そうではありません。豊臣政権は家康をはじめとした五大老石田三成らの五奉行を中心に運営されました。その後、東軍と西軍に分かれて天下分け目の合戦へと発展しますが、少なくとも信長が亡くなった後のようなアナーキーな状態にはなっていません。つまり、豊臣政権下で世の秩序は保たれていたのです。

秀吉は、太閤検地と刀狩などといった全国的な改革策を通じて、複雑に絡み合った土地の権利関係を一本化し、中世の間、続いてきた荘園制のあり方に終止符を打ちました。

まさに秀吉の改革によって、中世は終わりを告げ、日本というひとつの大きなまとまりが生まれていったのだと思います。

「天下統一」というビジョンを打ち出した天才・織田信長。そして、そのビジョンを引き継ぎ、持ち前の才覚でこれを具体的に実現したアイデアマン・秀吉。

この先行する天下人のビジョンとアイデアを引き継ぎ、これを統治システムとして完成させたのが、三人めの天下人・徳川家康でした。

「普通の人」徳川家康

家康は信長や秀吉とは異なり、関東に政権の本拠地を置きます。もともとは秀吉により関東地方へと移封された家康でしたが、自分の政権を立ち上げるに当たっても、その関東を選びました。

信長や秀吉がそうしたように当時としては、大坂や京都といった畿内の経済が盛んな都市で政権づくりをするのが定石でしょう。

しかし、家康はそうせずに江戸を選択しました。その結果、関東は江戸時代を通じて、西国に対するそれまでの遅れを取り戻すかのように急激に発展していったのです。

晩年の秀吉政権の失敗は、朝鮮出兵を強行したことでしたが、こうした極端な外交政策から一転、家康は内需拡大へと動いています。もちろん、それは朝鮮出兵の失敗を受けてということでもありましたが、関東や東北を開発することで、日本はまだまだ豊かになると考えたのかもしれません。

なぜ秀吉は家康を潰さなかったのか。

東日本よりも西日本のほうが進んでいるという日本史における大原則に則るならば、関東はあくまでも僻地であり、東北はさらに辺境の地ということになります。

その状況からすれば、家康を関東に追いやったことは明らかな左遷であり、秀吉はそれでよしとしたのかもしれません。

僻地とはいえ、関東に移されたのち、二五〇万石に加増された家康は、これを逆手に取って、新たな領地の開発と運営に努め、地力を増していきました。土木工事を好んだ家康にとってはやりがいのあった仕事だったのかもしれません。

家康は信長、秀吉が亡くなるまで、自らが天下人になるという野心を表に出すことはありませんでした。実際に家康がそのような野望を、自ずから抱いたかというと、否だと思います。家康は信長や秀吉に比べれば、明らかに普通の戦国大名の側にあるでしょう。自分の本領を守ることを第一と考えたはずです。

しかし、秀吉が天下統一に向けての戦いを続ける過程で、家康もまた秀吉と戦わざるを得なくなりました。すでに賤ケ岳の戦いにおいて野戦築城と兵の機動力による戦を完成させていた秀吉は、同じような戦法で家康を攻略しようとします。しかし、この小牧・長久手の戦いで一枚上を行ったのは家康でした。

おそらく家康は、信長や秀吉といった先行する天下人の姿に学びながら、少しずつ自分の天下というものを思い描いていったのでしょう。秀吉が亡くなり、自分を阻む大きな勢力が潰えたとき、改めて自分の政権構想を実行に移したのです。その政権づくりにおいても、家康は歴史によく学び、のちの長期政権につながる体制の基礎を築きました。

苦労を重ねながらコツコツと学び、天下を取った徳川家康。まさに普通の戦国大名が天下人となったのです。家康以降、徳川の幕藩体制によって日本はひとつにまとまり、安定した政権運営が続いていくことになります。

本郷 和人 東京大学史料編纂所 教授