鉄道開業150年の節目に、その始点となった新橋駅を見てきました。初代駅は現在の汐留にあり、そこには「旧新橋停車場」として駅舎が復元されています。丹念な発掘調査を経ているだけあり、鉄道開業に留まらない歴史に触れられます。

品川駅と横浜駅の方が早く開業したけれど…

1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)の新橋~横浜間開業が、日本の鉄道の夜明けです。鉄道開業151年目を迎えた2023年、鉄道各社は開業200周年に向け、更なる一歩を踏み出す年になりそうです。そこで改めて、鉄道の始点となった新橋駅はどんなものなのか、歴史を振り返ってみましょう。

東京都港区にある新橋駅は日本初の鉄道駅なのですが、6月12日(旧暦5月7日)に品川~横浜間が仮開業しているので、本当の日本初の駅は品川駅横浜駅だといえます。とはいえ本開業は新橋~横浜間であることから、一般的にも新橋駅が日本初の駅とされています。

当時の新橋駅は行き止まり式(頭端式)プラットホーム1面の先に駅舎を設けた構造で、構内には車庫や修繕施設があり、旅客ホームに隣接して貨車の留置線と荷物庫もありました。

現地で街の案内図を見ると、右下に浜離宮恩賜庭園、左には現在のJR新橋駅が確認できます。そのまま視線を右に移すと新橋交差点、蓬莱橋交差点があり、「現在地」と記載された場所に「旧新橋停車場」と書かれた博物館マークがあります。ここが最初の新橋駅のあった場所で、駅舎が復元されて資料館となっています。

ここでふと気がつくのは、旧新橋停車場と現在のJR新橋駅とが、微妙に離れていることです。明治後期に上野駅まで南北に市街地を貫く高架鉄道が計画されましたが(東京市区改正条例)、新橋は駅が行き止まり式構造で、そのまま北上すると繁華街の銀座があって延伸できず、西側に別線として上野へ至る高架線路を建設しました。

なぜ汐留の地に初代駅を設けたのか

この時、高架線路に新設された烏森駅が、現在の新橋駅にあたります。また新たなターミナルとして、東京駅が1914(大正3)年に開業します。この時点で新橋駅はターミナルとしての役目を終えて、土地名である汐留(貨物)駅となり、烏森駅が2代目の新橋駅へと改称しました。

ではなぜ、初代新橋駅は汐留に設けられたのか――それはうってつけの土地があったからでした。

現在、旧新橋駅の北側には、「東京高速道路」(通称KK線)という高架道路が通っていますが、ここには江戸時代から1950年代まで汐留川が流れていました。汐留川北側の銀座、西側の烏森は既に街が形成された密集地でしたが、汐留川南側と浜離宮恩賜庭園の間には、旧大名屋敷跡の広大な土地が残されていたのです。

汐留は江戸時代初期まで「江戸前島」と呼ばれた砂洲で、江戸城のすぐ近く、日比谷まで入江となっていました。江戸城から目と鼻の先が海だったのです。やがて江戸時代に埋立事業が行われ、江戸前島の先端には大名屋敷が造成され、龍野藩邸、仙台藩邸、会津藩邸が南北に連なった大名屋敷地帯となりました。しかしこれらの屋敷は明治維新により解体、跡には広い敷地が残されたのです。

加えて土地が平坦、東京の中心地に近いなど、汐留は駅を設けるのには適切でした。なお、駅名は汐留川に架かる東海道の「新橋」から命名されました。

一帯は1986(昭和61)年の汐留貨物駅廃止に伴い再開発され、現在は「汐留シオサイト」を構成する高層ビル群が聳え立っています。その麓部分に見える古風な洋館が、復元された旧新橋停車場です。アメリカ人の建築家ブリジェンスが設計した駅舎を再現したものです。

駅舎は関東大震災で焼失

ブリジェンスが設計した当時の駅舎は、左右対称の2階建て2棟を配し、中心部は平屋建て。骨組みは木の柱と梁を使用し、外観は石を貼った「木骨(もっこ)石貼り」という建築です。外観の石は凝灰岩の伊豆斑石を使用しました。開業時の古写真を見ると、平屋部分は木製の柱が見受けられますが、2棟の建屋は重厚な石造りに見えます。こうして駅舎は1871年12月14日に竣工しました。

余談ですが、私(吉永陽一:写真作家)の曽祖父が大正初期頃に、この駅舎を見たと話してくれたことがあります。石造りの駅舎だったという感想以外は特にありませんでしたが、駅舎は1923(大正12)年の関東大震災によって倒壊・焼失してしまったので、身近で実際に見たという話は貴重です。駅舎は石で覆われていても、骨組みが木製だったのが災いしたのでしょう。

駅舎は古写真でしか見られないものと長年思われてきました。しかし汐留貨物駅廃止後の再開発事業に先立って、港区教育委員会が江戸前島を埋め立てた大名屋敷群の発掘調査を実施し、思わぬものが見つかりました。プラットホームの基礎部分です。

それは初代新橋駅のものでした。プラットホームとつながる駅舎、転車台、機関庫、貨車用転車台といった基礎が次々発掘され、どんな設備があって、どのような建物だったのかと基礎から判明していきました。

藩邸の基礎に築かれていた駅舎

プラットホームの調査では基礎の一部が凹んでおり、さらに下方に埋められた部分を調査すると、龍野藩邸と仙台藩邸の石垣が発見され、その境界線にあった小さな堀部分が凹んだ基礎と合致しました。堀を埋めた土の上に重量物のプラットホームが造られ、重さによって一部が凹んだことになります。残念ながらこの部分は高層ビルとなったようですが、港区教育委員会が詳細に記録保存しています。

駅舎の基礎が発見されたことで、正確に寸法を割り出し、2003(平成15)年にJR東日本文化財団が駅舎を復元しました。復元作業では伊豆斑石の代わりに札幌軟石を使用し、古写真と基礎の寸法を分析して、現代の建築基準に則しながら行われました。東京駅丸の内駅舎とは異なり、復元ではあるものの一から造り上げる新築工事でした。発掘調査があったからこそ、土の中に眠っていた遺構が地層の如く折り重なって発見され、江戸時代の歴史だけでなく鉄道開業時の全容も掴めていったのです。

現在は要所で基礎の部分を観察でき、駅舎内では出土品も展示されています。また復元されたプラットホームの傍らには、開業時からしばらく使用された双頭レールがモニュメントとなっており、これは都心でいつでも見られる明治初期の線路設備です。

復元駅舎は銀座からもすぐの距離。少し時間があれば足を延ばして、鉄道開業の頃の息吹を感じるのも良いでしょう。

復元された旧新橋駅舎の全景。発掘された基礎の上にかさ上げして、現代の耐震基準や建築基準法に則って「新築」された。基礎の上に新築されたので、これは復元なのか、どこまで当時を再現するのか、歴史を歪めることにならないかといった議論が、復元プロジェクト内外であったという(2022年12月、吉永陽一撮影)。