大正時代に「自動車取締令」が施行され各地方によりまちまちだった自動車の運転資格の内容が全国的に統一されました。そこから現在に至るまで、運転免許証は時代に対応しつつ変化しています。

全国的に運転免許が必要になったのは100年以上前

1919(大正8)年2月15日、「自動車取締令」が施行されました。これにより、それまで各地方でまちまちだった自動車の運転資格の内容が全国的に統一されました。

現在では、クルマで公道を運転する際は必須となっているこの運転免許証は、そもそもどういった経緯で生まれたのでしょう。

日本で初めて自動車が話題となったのは、1903(明治36)年3~7月まで開催された「第5回内国勧業博覧会」でした。ここで、8台のアメリカ製自動車が出展されると、これが大きな人気に。会期中の来場者は435万人と当時としてはかなり大規模の博覧会だったこともあり、乗合自動車や運送用の車両の営業出願が盛んになりました。乗合自動車とは現在の路線バスのような扱いで、自家用車を持つという考えはこの当時まだありませんでした。

数が増えるとルール作りも当然必要となります。初めて運転免許証の原型のようなものが登場したのは愛知県で1903(明治36)年に制定された、「乗合自動車営業取締規則」でした。この規則では、乗合自動車の運転手に木の札の許可証を渡したそうです。

東京で自動車を運転するには許可が必要になったのは、1907(明治40)年2月19日に、警視庁が「自動車取締規則」を発令してからです。規則の発令を伝える当時の新聞には、「規則に従い、各会社は願書を差し出しするように」とあります。当時は営業車に向けた取り締まりという意味合いが強く、人員の他に車両も審査の対象になりました。

明治に考え出された東京の免許制度かなり先進的だった

東京府(当時)が制度化する以前、既に愛知県の他20の府県で自動車の免許のようなものがありましたが、そのどれもが、馬車に適応していた法律に若干の手直しを加えたというものでした。しかし、東京で制度化されたものは、警視庁が試乗会まで実施して入念に考えたものでした。

免許の取得に当たっては、担当警察官を隣に乗せての運転能力試験をしたほか、「登録車両にはブレーキを備えよ」「車両前面にはヘッドライトを付けよ」といった形で、自動車に必要な装備の記載もあり、より先進的なものでした。また、営業車の他に自家用車にも対応できるように条文化されたいたことも特徴です。ちなみに都内で初めて免許証を取得した人は、当時の三井銀行の三井高保社長を送迎する運転手だったそうです。

そして、1908(明治41)年に初の大衆車と呼ばれる「フォード・モデルT」がアメリカで登場すると、急速に自動車が普及しだします。それは日本でも同様で、自家用車も多く登録されるようになると、自然と県をまたいで走るクルマも多くなり、地域ごとにまちまちだった規定を統一する必要性が出てきました。それが、初めて全国統一の交通法規として1919年(大正8年)に施行された「自動車取締令」でした。

この法律では、甲種と乙種の免許が定められました。甲はどんな車両でも運転できる免許で、乙は特定自動車や特殊車両に限ってクルマを運転できるというものでした。18歳以上が対象で、自治体で定められた試験場で試験を受ける必要がありました。そして、最大の特徴が5年期限の“更新制”ではなく、“再試験制”だったことです。つまり、試験に落ちてしまうと免許が維持できませんでした。

1933年(昭和8)年になると、普通免許と特殊免許、小型免許の3種類に分類され、初めて「普通免許」という文言が登場します。現在の免許の形にほぼなったのは、1960(昭和35)年に、「自動車取締令」に代わって「道路交通法」が施行されてからです。このとき、普通免許、大型免許、第二種免許に分けられたことに加え、原付免許が新設された他、側車付き自動二輪免許が自動二輪免許に統合されるなどしました。

現在は高齢ドライバーの事故が増加したことから、2022年より免許更新時に75歳以上、かつ過去3年以内に一定の交通違反があった高齢ドライバーに対して、実車試験(運転技能検査)が行われるようになりましたが、再試験制だった初期の運転免許は現在よりも厳しかったといえるでしょう。

鮫洲運転免許試験場に展示されている昔の免許証(斎藤雅道撮影)。