2月15日大阪府藤井寺市の中学校教科書選定をめぐる「贈収賄事件」で、教科書会社と会食していた市の教育委員2人が辞職したとの報道がありました。

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 藤井寺市では3年前、教科書の選定委員を務めていた中学校の元校長(61)が、「数学」と「保健体育」の教科書選定に便宜を図る見返りとして教科書出版会社「大日本図書」から現金3万円などを受け取ったとして「加重収賄」他の容疑で在宅起訴されています。

 この事件で検察側は懲役1年6か月の実刑判決を求めました。しかし、判決は執行猶予3年がつき追徴金6万4000円が課せられました

 元校長は現金その他の提供を受け、各社の教科書を比較する調査員に任命予定だった教員氏名や、調査員が作成した資料を大日本図書に漏洩していました。

 贈賄罪に問われた大日本図書側は、元取締役(65)が罰金50万円、社員(35)が罰金30万円の略式命令を受けています。

 子供たちが主要学科を学ぶ「教科書」選定に、このような贈収賄が蠢く背景には何があるのでしょうか。

 教科書選定をめぐる「熾烈な争い」ならびに、それとは比較にならない教程そのものの見直しに関する無風状態という退廃と堕落が存在するように思われます。

 このような「教科書」をめぐる空疎化は、子供たちの学力という日本の未来を蚕食し、確実に日本を2等国以下に落としてしまう危険性を持っています。

「教科書の闇」に光を当ててみましょう。

不採択なら倒産も・・・

「教科書ビジネス」には、一般社会の目には見えないリスクが存在しています。

 教科書は各地の学校、自治体、教育委員会に採用されることで部数がはけ、売り上げが立つという極めて特殊な構造を持っている。

 分かりやすい話、「どこも採用しない教科書」を作ってしまえば、版元の教科書会社は倒産してしまう可能性もある。

 具体例を示しましょう。

「日本書籍」は、かつては東京都23区で歴史教科書が採択される、トップシェアの大手教科書版元として知られていました。

 それが、右派で知られた故・石原慎太郎氏が都知事に就任、都教育委を掌握したあたりからネガティブ・キャンペーンにさらされるようになったらしい。

従軍慰安婦」などの表現が明確にとられていた日本書籍の歴史教科書は、右翼から「自虐史観に基づく反日教科書」として槍玉に挙げられ、メディアで叩かれる事態となってしまった。

 こうなると、いろいろ面倒は避けたい集団心理を持つ各地教育委の「採用手控え」がトレンド化してしまい、かつてのトップシェアが不採択の嵐に見舞われることになってしまった。

 結果、2004年に「日本書籍」は倒産。

 事業は「日本書籍新社」に引き継がれますが、相変わらずのネガティブ・キャンペーンで、ついには検定教科書制作そのものから撤退してしまうという悲運に見舞われてしまいます。

 まあ「戦争」とか「慰安婦」といった、政治の色がついた分かりやすい教科は「反日」の何のと、あれこれ毀誉褒貶も容易でしょう。

 しかし、藤井寺で「元校長」が関わった「大日本図書」教科書の科目は「数学」と「保健体育」。

 こうした科目では「自虐史観に基づく反日的数学」とか、「事実を捻じ曲げる偏向した保健体育」といったレッテル張りにはなりにくい。

 勢い、団栗の背比べ的な横並びの内容の間で「調査員」の「票」を集める「実弾合戦」の状況を呈するようになります。

 その一例が、今回明るみに出て処断された贈収賄だったということになります。

 私はここで「史観」だの「弛緩」だのを扱おうとは思いません。

 そうではなく、相当残念な「前校長」が便宜を図った「数学」教科書などに「自虐的」なものがあまりに増えている実情と、それを固定化している構造に光を当てる必要があると思うのです。

「どこでも同じ」ではない数学教科書

 日本史の教科書なら「反日」とか「自虐」とか言いやすいけれど、数学ではね・・・というのは、理数やロジックに弱いイデオローグのお話です。

 その実、算数・数学を筆頭にサイエンスの教科書ほど、近年日本が「自虐」ぶりを露呈している教科はないように思われます。

 特に、私のような国立大学理系教官には強く感じられるところです。

 何が「自虐」なのでしょうか。

 日本の子供たちの学力を「下で揃える」方向で、どんどん貶めている現実。これを国辱ものの「自虐」と言わずして、誰が何を言えるでしょう。

 日本の教育は、一方では「IT、AI化対応だ」と称してプログラミング教育の何のと旗を振ってみたかと思えば、電子計算機の中で現実に数を扱う「行列」算などの線形代数を高等学校の教科から排除してしまっている。

 いまや「文系」に進めば、行列算の基礎である「ベクトル」すらお目に掛かることがないまま「大学受験」を通過できてしまいかねない。

 そのような状況で「経済学部」などに進学した学生母集団、大学に入るとかなりの割合の学生は勉強そのものを「卒業」してしまいます。

 サークルとバイトに明け暮れ、宿題をやるとことはなくなり、リポートを適当に作り、インターンシップだ就活だと「忙しいキャンパスライフ」へとシフトして、数学の練習問題を解くようなことは終生なくなってしまうケースが、割と普通にある。

 少なくとも東京大学の一部では、ここ25年来現実に起きている事態です。その延長に「数学無用論」の高級官僚OB諸君なども発生してくる。

 ここから、たかだか実変数のベクトルも行列も知らない、超丸腰人材が「金融」だ「証券」だといった電子市場の最前線に配属されることになりかねない。

 竹槍で「B-29」に立ち向かおうとした第2次世界大戦と大差ありません。

 生き馬の眼を抜く国際電子ビジネスの最前線では「必敗」確定ということで、これほど国民を愚弄する教育政策を展開する国も珍しいように思います。

 しばしば言及される高等学校の「三角関数」にしても「難しすぎる」などと、文部科学省主流派の初等中等局系官僚、官僚OB、次官経験者などまで口にするのを見、呆れて口がふさがりません。

 教科内容が「難しい」のではない。

 教え方が拙劣、かつそれを結果的に強要する学習指導要領が、日本の教育の宿痾となっているのが、元凶と思います。

 三角関数などというものは、コンセントのプラグが2本ついている「交流」電力で日常生活を支えられている私たちが、1秒の間断なくお世話になっているものです。

 その効用や広範無限の応用範囲など、いくらでも生き生きと教えられる典型です。私の「東京大学白熱音楽教室」の参加者には、小学校5年生でも完全に理解する児童が珍しくありません。

 なぜ理解できるか。

 数理を机上の空論ではなく、実際に振り子やバネ、楽器の弦や音叉などモノが動き、響きやリズムが目に見え音に聴こえるから自分たちも体を使ってそれを体得理解できる。

 これは何も奇をてらっているのではなく、ニュートンやダランベールラプラスフーリエガウスなどがやっていたこと、そのものを正統に伝授しているだけに過ぎない。

 物理と数学、さらに音楽など、教科の間に立つ無意味な障壁は、かつてこれらが誕生した際、ニュートンの脳裏にはなかった。

 かつての日本、旧制高校にもそんなバカな障壁は存在しなかったので、子供だってすぐに理解する。湯川秀樹くん、朝永振一郎くん、江崎玲於奈くん、みんなそうやって普通に学術の王道をまっすぐ歩んで、ノーベル物理学賞の独自業績を自らの手で創り出している。

 私の教室でも、それと同じことを21世紀の小中学生に教えているだけで、普通に理解して伸びたのが、いま大学生、大学院生の年齢に達して、オリジナルな成果を出し始めているわけです。

 そういう融通無碍を禁止する、実に愚かな「和風のルール」が、すべてを台無しにしてしまっている。

 完全に動脈硬化が進み切った日本の教育制度は、そうした融通無碍ができない。

 原因の一つは、教員の教育能力の不足、研修システムの欠如など、日本の教育全体がダッチロールを続けていることでしょう。

 例外的な先生が頑張っておられるのも、個別具体例を含め認識していますが、総体としてはかなり低空飛行を続けている。

 しかしそれ以上の教育を「死に至らしめる病」は、学問の自然が発生の生理に反して、数学を物理を切り離したり、音楽を筆頭に五感に直接働きかける刺激情報と、数理や統計的予測などの巧みな手法とを結びつける、気の利いたサイエンスと断絶したりすることに起因しています。

 ところが、大学に進学すると突然「研究成果だ~」「オリジナル論文の公刊本数だ~」と、それまで固着してきた拙劣な教育システムと正反対のミッションを振り回して見せる。

 支離滅裂です。

 ということで、私自身は小中学生からホンモノの学芸王道のみを伝授する役回りと思い定め、ここ15~20年ほど一貫した取り組みを続けてきました。

 そして、そうやって育った子たちが高校生になり、大学に進み、学部を卒業していま社会に出始めたり、大学院で専門の先端を切り開いたりするようになり始めた。

 そういう観点から見るとき、「算数/保健体育の教科書」選定を内容の洗練や平易な教授法、高度な指導可能性などではなく、賄賂、現金授受で票固めに役立つネットワークづくりのために選ぶなどというのは、五輪腐敗の集票買収まがいの犯罪行為です。

 まさに亡国そのもの、日本人の学力をそもそも低いものと規定する、自虐も自虐、最低最悪な「知のスタグフレーション」に陥っていると指摘せざるを得ません。

 どうでしょう。いま渦巻いているおかしな「教科書利権」すべて一掃して、義務教育教材すべて、ゼロから作り直してみては?

 かつて1930年代、物理出身で後半生を算数・数学教育に捧げた塩野直道は文部省の図書監修官として実際に国定教科書をゼロから作り直し、日本から世界に激震を発しました。

 1935年発表の尋常小学算術、1年「上」には一切文字が現れません。ゲーム感覚にあふれたカラフルな絵本としての算数教科書の創出、翌36年にノルウエーのオスロ―で開かれた世界数学者会議は「フィールズ賞」を制定したことで有名ですが、ここで発表されて全世界にセンセーションを巻き起こしました。

 以来、日本のオリジナルな算数教科書に影響を受けない初等算術教程は、先進国に存在しません。

 それくらい、独自の創意工夫と科学的な知的興奮に満ちていたはずの日本の教科書をこの70数年でどこまで堕落させたら気が済むのか?

「塩野直道の前で恥を知れ!」というのが、報道されるような恥辱の事態に活を入れる、学芸本来の在り方と思います。

 業者と癒着した元校長が有罪判決だ、教育委員が辞任だ、といった尻ぬぐいだけでなく、問題の本質的な根源に着目し、未来を担う人材を育てる教育教程、教科書の抜本的正常化への一石となることを祈らざるを得ません。

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