(宇山 卓栄:著作家)

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7世紀、巧みな国際戦略が生んだ称号

 2月23日天皇陛下は63歳の誕生日を迎えられました。謹んでお祝い申し上げます。

 天皇誕生日の一般参賀は新型コロナの影響で3年連続で中止となっていましたが、御代替わり後、初めて行われ、多くの人が皇居を訪れるでしょう。

 天皇誕生日には、一般参賀の他にも、さまざまな行事が行われます。内閣総理大臣などからお祝いを受ける「祝賀の儀」や、各国の外交使節団を招いてお茶会をする「茶会の儀」なども開かれます。

 ところで、天皇はなぜ「天皇」というのでしょうか。

「天皇」という称号は7世紀頃に使われはじめたとされます。この称号について考える時、我々は当時の日本の巧みな国際戦略をうかがい知ることができます。

「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスメラギ、スベラギ、スベロギ)」と呼ばれていました。「オオキミ」は漢字で「大王」と書き、史書にも記され、一般的に普及していた呼び方でした。

 一方、「スメラミコト」は格式ばった言い方で、「オオキミ」の神性を特別に表す呼び方でした。謎めいて儀式的な響きのする「スメラミコト」が何を意味するのか、はっきりとしたことはわかっていませんが、いくつかの解釈があります。

 その代表的なものが、「スメラ」は「統(す)べる」、つまり統治者を意味するという説です。この他に、神聖さを表す「澄める」が転訛したとする説もあります。

ミコト」の意味ははっきりしており、神聖な貴人を表します。「スベラギ」や「スベロギ」は、「スメラ」と「キミ」の合成語ではないかとみる説があります。

最初の記述は『日本書紀』に

 では、「オオキミ(大王)」や「スメラミコト」が「天皇」となったのはなぜでしょうか。

 608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書に「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記されていました。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされます。

 その前年、遣隋使の小野妹子がはるばる海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴きました。その時、携えていた有名な国書があります。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」の国書です。

 この国書に対し、煬帝から返書があり、さらに、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書です。

 日本が自らの君主を中国側が認めた「王」とせず、「天子」や「天皇」と明記して、国書を差し出したことには大きな意味があります。

 当時、日本は中国から「倭」と呼ばれ、その君主の称号として「倭王」を授けられていました。中国では、皇帝が最高の君臨者で、その下に複数の王たちがいました。

 中国の王は、皇帝によって領土を与えられた地方の諸侯に過ぎません。つまり、「倭王」は中国皇帝に臣従する諸侯の一人という位置付けだったのです。朝鮮半島諸国の王なども同様の扱いでした。

国際的な立ち位置を強く意識

 7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出しました。皇国として、当時の中国に互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあったのです。

 7世紀後半の第40代天武天皇の時代には、「天皇」の称号が一般的に使われようになり、孫の文武天皇の時代の702年に公布された大宝律令で、「天皇」の称号の使用が法的に定められます。

 いずれにしても、君主の称号は日本の国際的な立ち位置を決定する上で極めて重要なものであり、『日本書紀』などの史書も、そのことを強く意識し、「天皇」の称号について記録しています。

 では、「天皇」という言葉そのものの由来は何でしょうか。

 中国の神話では、「天皇(てんこう)」「地皇(ちこう)」「人皇(じんこう)」の3人の伝説の皇が世界を創造したとされます。その中でも「天皇(てんこう)」は最高神です。道教でも、「天皇(てんこう)」が崇められています。

 もともと、日本には「オオキミ(大王)」という俗権的称号の他に、「スメラミコト」という聖権的称号がありました。

 最高祭司としての「スメラミコト」に匹敵する漢語表現(つまり当時の国際言語)を探し求め、宗教的かつ神話的な意味を持つ「天皇」がふさわしいと選定され、この称号によって、「オオキミ」が天の神の子孫であることを知らしめようとしたのです。

唐の第3代皇帝高宗に触発されたか

 そして、同時に、その子孫の血統を守ることも強く意識されて、天皇の地位は天皇家の家系にのみ、独占的に世襲されることの正統性も導き出しました。

 前段で、聖徳太子が煬帝に送った国書(608年)で「天皇」が使われていたと『日本書紀』(720年完成)に書かれていたことを述べましたが、これは後追いで創作されたものとする説があります。この説では、日本で「天皇」が使われる以前に、唐の第3代皇帝高宗が「天皇」を名乗ったと捉えられています。

 なぜ、そう名乗ったのかは謎とされていますが、一つの解釈として、「皇帝」を越える最高存在として、「天皇」を考えていたのではないかと見られています。「天皇(てんこう)」は道教の最高神であり、高宗は道教に強く影響を受けていました。

 そして、高宗が名乗った「天皇」に触発され、日本も「天皇」を使いはじめたとされます。高宗の在位期間の649~683年と「天皇」称号の確立時期がきれいに一致します。『日本書紀』の編纂にあたり、国書原文で使われた称号等を「天皇」と書き換えた可能性は高いでしょう(つまり、「天皇」後追い説)。逆に、日本が608年の段階で「天皇」を使っていたのに、その後に高宗が「天皇」を名乗ったという可能性は低いと考えられます。

 しかし、「天皇」という称号は中国などに向けた対外用の書き言葉であり、依然、日本国内では、天皇を「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスメラギ、スベラギ、スベロギ)」と呼んでいたと考えられます。当時、日本で、天皇を「テンノウ」と呼ぶことはなかったでしょう。「天皇」はあくまで文書上の称号でした。

文書表記と一致させる過程で「テンノウ」に

 その後、天皇は御所を表す「内裏(ダイリ)」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門(ミカド)」と呼ばれたりしました。「ミカド」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、中国を意識した対外向けの表現であったと考えられます。

「テンノウ」という呼び名は明治時代以降、一般化しました。日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのですが、文書上の表記である「天皇」をその呼び方とも一致させなければならないとする明治政府の意向もあり、天皇を「テンノウ」と呼ぶ慣習が一気に普及し、定着しました。

 これらは明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で起きた変化だったのです。

「天皇」は英語で「エンペラーemperor)」、つまり「皇帝」です。しかし、ここまで見てきたように、その称号の誕生の歴史的背景を鑑みれば、本来、「エンペラー」とは異なるものであり、やはり天皇は「天皇」としか言い表せない存在なのです。

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