加齢により脳の認知機能が低下するとともに、この時期の人にありがちな思考の傾向がでてきます。その一つは「威張り好き」があります。老人医療に詳しい精神科医の和田秀樹氏が著書『70歳からの老けない生き方』(リベラル社)で解説します。

高齢者の「威張り好き」の末路

■「威張り好き」は裸の王様になる

思秋期には、加齢により脳の認知機能が低下するとともに、この時期の人にありがちな思考の傾向が見られます。「威張り好き」もその一つです。

私は社会における厳格な主従関係、先輩後輩関係のルールを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、流儀の問題かもしれませんが、そうした上下関係において、私は個人的には「上」とされる年長者、先輩、上司などの人間が年下の人、後輩、部下を「お前呼ばわり」することには抵抗感を覚えます。

いわゆる体育会団体や一部の企業においては、それが風土化していて当事者たちも当然のこととして受け入れていることは承知していますし、それが組織の結束力に結びついている面があることも否定しません。

ただし、そうした関係において理不尽に威張る人を私は好きではありません。なぜなら、そんなタイプの人は感情面、精神面を重視するあまり、論理的な思考に基づいた的確な行動、選択ができないケースがしばしばあるからです。極端なことを言えば、結果としてそれが組織の衰退、人間関係の崩壊に結び付くことさえあります。

「上」の人間が威張ることは、周りの部下や年少者の発言の機会を減らします。「言っても無駄」と彼らが感じて口をつむいでしまうことになりかねません。これでは、上司、年長者の判断に潜むリスク要因をスルーしてしまう可能性が生まれます。

また、上司、年長者が思いつかないような「下」の人の有益な発想、選択肢の芽を摘んでしまうことにもなりかねません。

さらに言えば、威張ることでフレンドリーなコミュニケーションや人間関係を構築することができなくなることもあります。

いわゆる忖度上手な人間ばかりを周りにおいておけば、威張っている本人はそれで気持ちがいいかもしれませんが、そうした姿勢は大きな過ちを犯す可能性があります。まさに「裸の王様」です。

特に高齢者の「威張り好き」は「裸の王様」への入り口と言ってもいいでしょう。

■「威張り好き」は人生の後半を“貧しく”する

20年ほど前、私がコメンテーターとしてテレビのあるバラエティ番組に出演したときのこと。リハーサルでのエピソードです。

「お前さ、精神科医って何する人?」

当時、人気を誇っていたせいでしょう。その司会者がまさに威張り風を吹かせながらそう尋ねてきました。私は「なんだ、この態度は?」と感じながらも、それをおくびにも出さず、精神科医の仕事の要点をかいつまんで説明しました。話を聞き終えると、彼はひと言こう言って立ち去っていきました。

「へぇー、ラクそうでいいな」

同じ楽屋にいた共演者たちもあきれた顔。中には私を同情の眼差しで見つめる人もいました。

「信じられない」

表情からはそんな思いがうかがえました。

『感情的にならない本』の著者でもありますから、普通は表情を変えない私ですが、このときばかりは怒りの感情で顔色が変わっていたかもしれません。「ラクそう」という言葉のせいではありません。人にはいろいろな意見があります。私は「ラク」とは思っていませんが、「ラク」という他人の見解の相違に怒ったわけではありません。

私が怒りの感情を覚えたのは、彼の無礼極まりない態度です。その無礼は「自分は偉い」と思い込んでいること、そして「偉いから無礼でいいのだ」と確信していることから生まれている。私はそう感じました。そんな彼に意見する人は周りにいなかったのでしょう。あるいは、そういう人を彼は遠ざけていたのでしょう。

彼はほどなく、テレビの世界から消えてしまいました。

後で聞いた話では、彼の降板をテレビ局スタッフも内心ホッとしていたとのことでした。当時、彼は40代前半だったと思いますが、いまはどんな人生を送っているでしょうか。もし彼が、あの無礼さ、傲慢さをいまも改めていないとしたら、「普通の」社会人は彼のもとにはいないに違いありません。彼もまた「裸の王様」のひとりでした。

もちろん「お前呼ばわり」はすべて悪とは思いません。しかし、中高年の威張り散らす「お前呼ばわり」にかぎって言えば、部下、年少者からの「あなた裸ですよ」という有り難い指摘を得る機会を失くすことにつながります。人間関係に恵まれた豊かな人生後半期とは言えません。

テレビの世界にかぎった話ではありません。

「話を聞かない」という客のほとんどが中高年

■「わからない」「教えてほしい」が素直に言えますか?

「何がイヤかと言えば、とにかく人の話を聞かないということですね」

スマホのアプリの操作方法がわからなくなって、詳しい知人に教えてもらおうと頼んだときのことです。現在はゲームソフトの制作会社に勤めていますが、彼は以前、スマホショップで働いていたことがあります。

「どんな客がイヤなの?」

そう私が尋ねたところ、開口一番そんな答えが返ってきました。「話を聞かない」という客のほとんどが中高年だとのこと。

「ひと言、“わからない”“教えてほしい”と言ってくれれば、こちらも気持ちよく教えてあげられるんですが……」

私も同感です。

これからの時代、スマホ、パソコンの知識に疎い人、特に中高年以上は苦労することは間違いないでしょう。特にコロナ禍による「人と会わない散り散りの時代」にあって、ITスキルは生活の質を維持するためには欠かせない。仕事はもちろん、プライベートの用件、連絡といった人間関係も「リモート」中心にならざるを得ないわけですから当然です。

「直接会って話す」が当たり前で正しいのだという時代は終わったといってもいいでしょう。

そんな時代ですから、70代、80代であっても、と言うよりも、70代、80代だからこそITスキルを身につけることが、生活の質を高めることにつながることを肝に銘じておかなければなりません。

日々進歩するIT技術ですから、使う側も学習しなければなりません。ただし、AIの時代になればITと違ってやり方を知らなくても向こうが考えてくれる可能性が大ですが。

いずれにせよ、「話を聞かない」「わからないと言えない」「教えてほしいと言えない」人たちは本当に苦労することになります。中には新しい文化や先端技術の習得を拒み、「ガラパゴス化」を選ぶ高齢者もいるかもしれませんが、それは賢い生き方とは言えません。

考えなければならないのは、70代、80代になって体の不調や認知症などによって「移動」が困難になった場合のことです。新型コロナウイルス以外の感染症の流行による「移動」の制限も生じるかもしれません。

しかし、ITスキルがあれば、こうした困難にもある程度対応可能です。食料、衣類ほか日常必需品の購入、新しい情報の入力そして出力はもちろん、病気の際にも在宅診療のリクエスト、リモートでの診察、薬の処方なども「移動なし」で可能になります。Zoomを使えば、直接会えない家族や知人とのコミュニケーションにも困りません。

70代、80代においては、「わからないから教えてほしい」というスタンスで習得したITスキルが、暮らしの豊かさ、便利さをもたらしてくれるのです。

ちなみに先に述べた伊能忠敬ですが、「わからない」「教えてほしい」が率直に言える高齢者であり、「初心者、素人である自分を受け入れる人」「威張らない人」でもあったようです。

前述したように、50歳のときに師事した19歳年下の暦学者高橋至時に対して、終生、弟子として師を敬い、教えを乞う姿勢を崩さなかったとされています。

師である高橋は伊能の死の14年前に亡くなりますが、伊能は師への恩を忘れることはありませんでした。自分が亡くなった後は、高橋の墓の隣に自分の墓を建ててくれるように遺言を残しています。実際、いまも高橋の墓の隣に伊能は眠っています。

ここにも「凄い高齢者」である伊能の姿勢が偲ばれます。

和田 秀樹 ルネクリニック東京院 院長

(※写真はイメージです/PIXTA)