主君に忠実なことで知られる三河武士たちですが、この「三河の一向一揆」では、家康の家臣らが一揆方に身を投じる裏切者が続出して、家康を苦しめることになりました。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

家康の家臣が引き起こした厄介な騒動

■三河の一向一揆

「家康」と改名して2か月後の1563(永禄6)年9月、東三河(愛知県の東部)を平定しようとした矢先に宗教がらみの問題が持ち上がった。「三河の一向一揆」の勃発である。

この厄介な騒動は、家康の家臣が引き起こした。新築した砦で兵糧米がなくなったために、「開山以来、守護不入」(守護使の立入り禁止特権)とされてきた上宮寺(愛知県岡崎市)という付近の大きな寺に踏み込み、境内に乾してあった大量の籾をごっそり掠<かす>め取ったのが原因だった。

一向一揆は、一向宗(親鸞を教祖とする浄土真宗本願寺派)の門徒が、守護大名戦国大名の支配に反旗を翻した一揆で、1465(寛正6)年が最初とされ、近畿・東海・北陸などで起こった次のものが有名だ。

1488~1580年 加賀の一向一揆 富樫政親 1563~1564年 三河の一向一揆 徳川家康 1570~1574年 長島の一向一揆 織田信長 1570~1580年 石山合戦 織田信長

親鸞が鎌倉中期に開いた一向宗が勢力を急拡大するのは、室町時代に本願寺8世となる蓮如(1415~1499年)の代になってからだ。京都を追われた蓮如が、1471(文明3)年に加賀と越前の境にある吉崎を訪れて、布教の拠点としたのが、そもそもの始まりである。

加賀の守護富樫政親は、応仁の乱では一向宗の信徒を味方につけていたから問題は起きなかったが、乱が終わると豹変、弾圧に転じたことで状況が一変する。怒った信徒が富樫を攻めて滅ぼし、自分たちで自治を行うようになるのだ。1488(長享2)年に起きたこの事件を「加賀の一揆」と呼び、信徒による自治は石山本願寺が信長に滅ぼされる1580(天正8)年まで100年近くも続き、三河の一揆にも影響を与えた。

信長が石山本願寺と戦った一揆は「石山合戦」と呼ばれ、三河の一向一揆が終結した6年後の1570(元亀元)年から1580(天正8)年まで11年も続いた。そのときの本願寺の法王は代替わりしていて、11代顕如だった。摂津国の本願寺に各地から集結した命知らずの宗徒たちは、「進者<すすめば>往生極楽、退者<しりぞけば>无間地獄」などと旗印や笠験に書いて勇猛果敢に戦った。

この戦は、いつ果てるともわからない持久戦に突入し、困り果てた信長は、正親町天皇に仲介を依頼し、ようやく和睦にこぎつけたほどだった。

その点、「三河の一向一揆」は半年たらずで終結するが、その間、家康の頭痛の種は、重臣を含めて家臣のなかに信者が大勢いて一揆に加わったことだった。

「殿とは戦いたくない」という武将も

■一揆を平定、三河統一なる

寺々に籠った家臣の数は、事件の発端となった上宮寺の200余騎をはじめ、本證寺 ・本宗寺・勝鬘寺が各100余騎で、上記以外の寺々を全部合わせると1000騎をはるかに超え、双方ともにおびただしい戦死者が出る悲惨な結果を招いた。

腕に自信があった家康は、自ら出陣して槍を取って戦っている。史料を見ると、波切孫七郎は家康の槍で二度突かれて逃げ去ったとか、大見藤六郎は軍議の内容を一揆軍に漏らしたことを知って家康は首を取ろうとしたが、その前に水野太郎作が大見の首を持ってきたので大喜びしたといった武勇伝がいくつも残されている。

また、一揆方に身を投じた家臣のなかには、「殿とは戦いたくない」といった武将が何人もいたし、土屋重治などは家康が危ないところを見た途端、助けようと寝返って戦死している。かと思えば、蜂屋半之丞は大久保忠勝に諭されて帰順を願い出たというような逸話も多い。

三河の一向一揆で講和に尽力したのが、大久保彦左衛門の叔父忠俊。大久保忠俊は、岡崎に参上し、家康に向かって、一揆に加わった者800余名すべてを許してほしいと次のように諭した、と『寛政重修諸家譜』(1812〈文化9〉年成立)は記す。

「去年以来、日々の合戦に某<それがし>が一族、身命を顧みず、君のために討ち死にし、あるひは、疵をこうむる者少なからず。君もしその忠義を忘れさせたまわずば、その恩賞に代えて、彼が請うところを免じたまへかし。しからば、彼の徒をもって先陣とし、上野城を攻め、吉良・荒川の両家を滅ぼし、ことごとく西三河を平治せば、御家門高大ならん。某、老耄して、事をなす事能わずといへども、いささか君のために遠をば駆り立てまつるところなり」

家康は、心を打たれ、その願いを聞き入れたのだった。家康は聞く耳を持っていたのである。

そのほかにも、一揆の大将になった家臣で国外逃亡した者(鳥居四郎左衛門、波切孫左衛門、本多弥八郎ら)もいたが、赦され、のちに帰参する。また家康は、逃亡僧も赦し、家康の叔母芳春院(生母お大の姉、妙西尼)の頼みを聞いて一向宗の道場再建も許した。

こうして1564(永禄7)年2月、一向一揆を平定し、三河をついに統一したのだった。家康、23歳のときである。盟友関係にある織田信長が近江の浅井長政と同盟を結ぶのは、その1か月後。家康の目は、浅井長政朝倉義景に向けられた。 

城島 明彦 作家

(※写真はイメージです/PIXTA)