ロシアウクライナに対する全面軍事侵攻を開始してから1年が経過した。

JBpressですべての写真や図表を見る

 この侵攻にあたり、ロシアウラジーミル・プーチン大統領が、短期でウクライナにおける親ロ政権樹立という目的を達成できると考えていたことは、これまでも再三報じられてきた。

 ロシアは、軍事侵攻の半年以上前から、親ロ派育成工作、偽情報拡散などによる世論操作、経済圧迫、サイバー攻撃工作員の潜入、大部隊の集結による軍事的威嚇など、周到に軍事・非軍事のハイブリッド戦争を進めていた。

 これらの企ては、このハイブリッド戦争を見抜いていた米英などが、各種の支援を行ったこともあって、ウクライナ側によって阻止され、最後の仕上げのつもりで侵攻を命じられたロシア軍は、泥沼の戦闘に陥ることになった。

 結果的に失敗に終わったとはいえ、プーチン大統領が軍事侵攻に踏み切ったのは、ハイブリッド戦争が功を奏して早期に侵略目標が達成できる「可能性」を信じていたからであろう。

 しかし、ハイブリッド戦争から軍事侵攻に至る大規模な侵略を行うからには、プーチン大統領は、その「可能性」を信じていただけではなく、このタイミングで侵略を行う「必要性」を強く認識していたのだと思われる。

 その「必要性」とは一体、何なのだろうか。

 それを解き明かす上で、大きな手掛かりとなるのが、ハイブリッド戦争への着手と同時期、2021年7月にプーチン大統領が公表した「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文である。

 この論文で彼は、ロシアウクライナが一体であるという歴史観を述べているだけではなく、ウクライナにおいて「完全な外部からの支配が起きつつある」ことが最大の問題であると論じている。

 以前からプーチン大統領は、ジョージアのバラ革命やウクライナのオレンジ革命といったいわゆる「カラー革命」や、チュニジアリビアエジプトなどにおけるいわゆる「アラブの春」など、1990年代以降に起きた民主化の動きは、欧米によるハイブリッド戦争であると捉えていた。

 そのような考え方からすれば、ウクライナで起きている民主化の動きも、外部勢力による工作だということになる。

 ロシア人と文化的に多くの共通点を持つウクライナ人が、すぐ隣で民主的な国家を打ち立て繁栄していくことになれば、ロシアにおける民主化の動きを加速させることになる。

 これは、2024年に次の選挙を迎えるプーチン体制にとって大きな脅威になるとの判断が、ウクライナ侵略の「必要性」だったのではないだろうか。

 これと同じ懸念を、中国の習近平国家主席も抱いていると考えられる。

 2019~20年に香港で民主化デモが高まりを見せたのに対し、中国政府はこれを弾圧し、香港国家安全維持法の施行によって、香港の人々の人権は大きく制限されることとなり、一国二制度は事実上消滅した。

 この強硬策も、民主的な香港が繁栄することが、中国国内で習近平体制を揺るがすという判断の下で取られたものだと考えられる。

 このように考えると、プーチン大統領習近平主席という個人のみならず、ロシアや中国において現在の政治体制を何とかして継続させたいと考えている勢力は、民主化の流れが自国に及ぶことを極度に恐れていることが分かる。

 自国民と共通の文化を持ち、地理的にも近接した地域で、人々が人権を主張し、民主的な政治体制を打ち立てて、経済的にも安定して発展していくことは、ロシアや中国などの権威主義的な体制にとって、大きな脅威なのである。

民主主義vs権威主義なのか?

 それでは今世界を動かしているダイナミクスの源は、米国のジョー・バイデン大統領が言うように、「民主主義vs権威主義の戦い」なのだろうか。

 今回のロシアによるウクライナ侵略に対し、日本やオーストラリアなども含む欧米などの民主主義諸国は一致してロシアに対する制裁に参加している。

 一方で権威主義国とみなされる北朝鮮シリアなどがロシア支持、中国やイランなどもロシア寄りの姿勢を取っているのを見ると、一見この構図が当てはまるようにも見える。

 その中で、アフリカ、中東、アジア、ラテンアメリカなど、いわゆるグローバルサウスと言われる国々の多くは、明確にロシアを非難することから距離を置こうとしているようである。

 これらの国に国際秩序の重要性を説いて、一国でも多く民主主義国と同じくロシアに制裁を加える側に引き入れることが重要だとの主張もある。

 しかしこれらの国々の政府は、それぞれ自国を取り巻く地域の国際環境の中で自国の利益を確保するために、厳しい判断を下しているわけであり、ことはそう単純ではないであろう。

 このように複雑な計算が錯綜する国際関係ではあるが、権威主義諸国、グローバルサウスの国々、そして民主主義諸国を全体として見通してみると、その中に共通する対立軸が存在している。

 それは「人権増進」と「体制維持」の対立である。

 これは一見、「民主主義」対「権威主義」という政治体制を巡る対立と同じように見えるが、一概にそのように言うことはできない。

 民主主義の政治体制を取る国の中であっても、「人権増進」と旧来の社会文化を含めた「体制維持」、そのどちらかを重視する民意がそれぞれ存在し、民主主義の維持に関しては同意しつつも、意見対立が生じている。

 その例として、欧州で移民や難民の増加に対抗する形でナショナリズムが喚起され、米国でブルーカラー白人層の相対的貧困化などを受けてトランプ現象が起こり、日本でLGBTQに対し一部の保守層が強い忌避感を示していることなどが挙げられよう。

 このような「人権増進」と「体制維持」の対立を、単純な善悪二元論で切って捨てることも、適切ではない。

 現代社会にとって人権が重要な問題であるのは間違いないが、人々の生存を確保していくためには、社会の安定とその上での経済発展が重要であることもまた事実なのである、

 特にグローバルサウスの国々は、この「人権増進」と「体制維持」のせめぎ合いの中で、綱渡りの政治を行っている。

 そのような中で、ロシアプーチン権威主義体制は、自国における「人権増進」を現「体制維持」の脅威であると捉え、それを増長する隣国における「人権増進」の動きを力で封じ込めようとして一線を越えた。

 冷戦時代の資本主義陣営と共産主義陣営の対峙は、経済体制を巡るイデオロギー対立であったが、今や「人権増進」と「体制維持」という、価値観に関する新しいイデオロギー対立が、世界を分断しつつある。

 この一筋縄ではいかない対立を、現代を生きる我々は、一体どのように捉えたらよいのだろうか。

「人権」をどのように考えたらよいのか?

 人間も生物である以上、自己が生き延びなくてはならないという生存本能がある。

 そこから生まれるのは、各種の危険から生命の安全を守り、かつ生存に有利なように、少しでも快適な環境に身を置きたいという欲求である。

 そのような生物としての生存本能を残しつつ、人間が人間として、他の生物とは異なる存在となった起源には、人間が他の人間を自分と「対等」な存在だと認識し始めたことがあると見られている。

 ここであえて「平等」ではなく「対等」という用語を使うのは、「平等」には第三者から見た客観的な状態を示すニュアンスがあるのに対し、「対等」は自分から他者を見た場合の主観的な意識を指す言葉として適しているからである。

 他の動物は、親子や群れで協力することがあるとはいえ、基本的には自己中心的な存在であり、自分以外は同種の生物でも自分を取り巻く環境に過ぎない。

 しかし、他者も自分と同じように一個の人格を持って主体的に考える存在であると気付いたことにより、人間は他の生物と異なる道を歩き始めた。

 他の人間たちを、自分と同じように物事を考える「対等」な存在だと見るようになったことで、「社会」が生まれたのである。

 同時に、自分だけでなく他者も共通に認めている事実があるとの認識、すなわち「客観」という概念が生まれ、科学的なものの見方が育まれていったと考えられる。

 ただし人間も生物である以上、生存本能を忘れてしまったわけではないし、そもそもそれがなくては、種として存在を維持していくことはできない。

 生存本能と「対等」意識を併せ持つに至った人間という種は、他の人間との社会関係を発達させることで他の生物に対して優位を得て、勢力を伸ばしてきた。

「対等」な存在とみなす範囲が、家族から部族へ、より大きな共同体へと広がっていく中で、人間には「いたわり」や「名誉」などの道徳感情が生まれ、社会的規範が形成されて、より複雑な社会を営むに至った。

 そして400年ほど前から、近代国家を単位とする現在の国際社会が生まれてきたわけである。

 近代社会では、基本的には国家が、他国から自国の生存を確保するとともに、国内で一人一人の国民の生存を保証することになった。

 その中で、人間同士が「対等」とみなす範囲は、現代になって急速に広がっているという事実がある。

 80年前の日本では、女性に参政権がないことに疑問を持たない人が多数だったし、70年前の米国のバスでは座席が白人用と黒人用に区別されていることは普通だった。

 急速な経済発展により、生存の保証が進む中で、ジェンダーや人種を超えた人間の「対等」性に、より重きが置かれるようになり、それが1945年の国連憲章に謳われ、1948年の世界人権宣言に結実した。

 この人権の基本にあるのが、すべての人間は「対等」だという認識である。

 しかし、生存を保証するための仕組みである国家をはじめ、今ある「体制」の維持と、個々の人間の「対等」意識の広がりは、しばしば衝突する。

 民主主義という政治体制は、この衝突を緩和するために生まれてきたものであろうが、民主主義になったからと言って、この衝突が一気に解消するわけではない。

 まして権威主義国の指導者は、「体制」の安定を理由に国民の「対等」な権利を認めないばかりか、自民族の優越やジェンダー差別を含む価値観を有している場合も多い。

 そのような指導者の言動からは、そもそも人間は「対等」ではなく、優秀な者が他を従えるのは当然であるというような人間感も透けて見える。

 これは「体制維持」重視に偏重した指導者に共通する傾向であり、権威主義やグローバルサウスの国々において多く見られると同時に、民主主義国においても、近年目立ってきた動きである。

「人権増進」という大きな流れに対する、一種の揺り戻し現象なのかもしれない。

 人間の生存を確保するための仕組みである国家が、その「体制」存続を自己目的化させ、国民の「対等」な関係の増進を認めないという例は多い。

 また、自国利益のために他国との「対等」な関係を無視し、力による一方的な現状変更を図るという現象も起きている。

 これらに起因する国内外の紛争を解決していくためには、今の世界において「人権増進」が重要な価値であることを強く認識した上で、頑なな「体制維持」への固執を排し、柔軟な体制変換を安定的に成し遂げていく必要がある。

「人権増進」は目的か、道具か?

 それでは、具体的に日本はどうすればよいのだろうか。

 今プーチン大統領に、「人権増進」の重要性について口を酸っぱくして説いたところで、ロシアウクライナから黙って引き上げることがないのは目に見えている。

 しかし現代の世界において、「人権増進」と「体制維持」のせめぎ合いが各地で起きており、その中で「人権増進」をよりスムーズに進めることが、世界の安定にとってのカギであると、強く認識すること自体、重要ではないだろうか。

 いずれの国であっても、この「人権増進」という大きな流れを意識することなしに、自国の国益だけを追求するのでは、自国の生存に必要な安定的な国際環境を実現することはできない。

 この流れを意識した上で、具体的に世界の「体制」を安定的に変化させつつ、全体として「人権増進」を達成していく方策が必要となる。

 もちろん、「人権増進」はあくまでも目的であって、これ自体を手段として利用するのでは、長い目で見て逆効果になる場合もあるという点は、十分認識しておかなくてはならないだろう。

 グローバルサウスの国々と対する場合も、権威主義国と向き合う場合も、「人権増進」を意識し続けることは重要だが、具体的にどう相手を動かすかについては、長期を見通した外交戦術が必要である。

 個々の国々の個別的事情に基づき、経済発展にも配慮しながら柔軟な「体制」変革を促しつつ、大局としては、少しずつであっても「人権増進」を達成していくという粘り強い知恵が求められる。

 もちろん、各論としては非常に難しいことが山積しているわけではあるが、その中で大局を見失ってはならない。

 日本が世界に対する上でも、国内外にこのような「人権増進」と「体制維持」のせめぎ合いが存在することを意識しながら、常に「人権増進」という大きな流れへの貢献を見失わないことが、最も重要なのではないだろうか。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  台湾有事に日本は戦場になる――が既成事実化し始めた危険度

[関連記事]

歴史的大転換が見える「戦略3文書」、その正しい読み方

ウクライナ戦争勃発から両軍の戦略戦術を陸自元幹部が徹底検証

中国外交トップの王毅氏と固い握手をするプーチン大統領。体制維持こそ最優先であることをお互いに再確認したのだろうか(2月22日クレムリンで、写真:新華社/アフロ)