いま人気急上昇中のAV女優、MINAMOが愛する映画や本、音楽、さらには自身の様々なことを語る連載「MINAMOの話をきいてミナモ?」。最終回は、MINAMOがこれまでの人生を振り返り、家族への思いを語ります。

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■私は端からみたら、ただの問題児だった

ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ヤンヤン 夏の想い出』が公開された頃、千年の都、京都で私は生まれた。私の人生は今、振り返ればなんてことのない、普通の人生だった。

物心ついた頃から、私は何かをむいてしまう子供だった。足や指の爪を血が出るまでむいた。爪が生えていることがむず痒かったからだ。ある日、私のボロボロになってしまった爪の先を見て友達が「気持ち悪い」と言った。確かに、小学生からすれば私の原型を保っていない爪は気持ち悪かったかもしれない。そこから私はどうやらこの世界が生きづらいようだ。

昔から暗いトイレにこもること、特に何もないのに朝まで起きていることが好きで、こだわりが強く、おかず、ご飯、汁物が最後に一口ずつ残るよう、計算して食べるのが得意だった。そして今考えれば、人の悲しみや不安や怒りに敏感な子どもだった。相手の少しの変化に過敏になり、声のトーンがいつもより低いこと、急にしゃべらなくなったこと、背中を向けたこと、そんなことに常に目を配っていた。それは子供には重いものだった。

今までのコラムで、いくつかの悩みのようなものを取り上げてきたが、今回は私の最後の難題について、書いてみようと思った。

■私の成長と共にそばにいてくれた本たちは、薬となり、教科書となり、師となった

8歳、実家からテレビが消えた。理由はよく覚えていない。親に「どうしてテレビがないのか」と聞くと「捨てた」という回答だけが返ってきたような気がする。子供心に、それ以上聞いちゃいけない気がした。だがそれは母の愛だった。のちに、私の個性をなくしてほしくない、本を読んでほしい、そんな思いからテレビをなくしたのだと聞いた。

いつも一緒に通学していた5人くらいの女子グループがあった。ある日待ち合わせ場所に着き、声をかけたらいつものような返答はなく、無視された。いじめのスタート地点に私は立ってしまったようだった。このいじめが私にはなかなかきつかった。いじめなんていじめる側が絶対悪だが、私はこう思ったのだ。「いじめられないようになろう」と。家にテレビがないにも関わらず、同級生が夢中になっていたテレビ番組を想像だけで知ったかぶりし、買ってもらった服を友達に見せびらかすことはなくなった。

私はいわゆる「鍵っ子」で、学校帰りの楽しみは友達の家で出してもらうお菓子だった。子どもはなんでもうらやましがる。友達の家にある大きな木でできたミニハウスや、家に帰ったらお母さんがいること、ママ友というコミュニティに属しているお母さんたち、全部うらやましくてしょうがなかった。そして子供は時に残酷なことを平気で言う。私は母に「将来は専業主婦になる」と言った。その時の母の悲しそうな顔はずっと私の記憶にこびりついている。それから嫉妬心やうらやむ気持ちがなくなることはなく、年々増すばかりで、私はどんどん孤立していった。

私は本の虫となった。家にあった本や、図書館の本を読みふけった。宮沢賢治芥川龍之介夏目漱石。わからない漢字はたくさんあったが、そのたびに辞書を引き、戻ってはまた読み進め、偉人たちがこの世に残してくれたそれぞれの世界に浸った。私の成長と共にそばにいてくれた本たちは、薬となり、教科書となり、師となった。

松本大洋の「Sunny」を読んだ16歳の頃。常に人の顔色を伺う自分を嫌い、周りの人と比べ自分が普通に生きていけないこと、自分の未来に悲観していた。ずっと本しか読んでこなかった私には漫画は貴重で、1ページ1ページ大切に読んだ。「Sunny」は、家族と暮らすことができない、施設で過ごす少年少女たちの群像劇。子供にしかわからない複雑な感情や、子どもの頃しか考えられないようなこと、今まで忘れていたそんなこと、今なお抱えているものを改めて思い出させてくれた。それはじんわりと私の心を満たし、湧き上がる何かを、噛み締めた。なによりも「絵が言葉を話す」、そんなことができるものなのかと私は圧倒された。技術はもちろん、天才、松本大洋の魂に惚れ込んだのだ。

それから私は、その時まで知っていた漫画とは全く違う、今まで触れてこなかった宝の山に足を踏み入れた。浅野いにおや魚喃キリコ、森泉岳土、内田春菊。学校帰りに行く古本屋が私の楽しみとなった。

17歳の私は、自分の未来になんの興味も示せなかった

私は、学校も先生も友達というものも大嫌いだった。同じクラスの子たちが同じ人間かと疑うほどにまぶしくて、先生はいつも正しくて、学校はただの狭苦しい箱で。私はとにかく不安定でひどく醜かった。内部生がたくさんいた私の高校では、スクールカーストがより残酷な形で現れた。「実家が太い」なんてくだらない言葉を覚えたのもその頃である。大好きな英語を学ぶために進学した高校は、見栄や虚勢を張ることに勤しむ、そんな人たちであふれていた。

「愛されているのは分かっている。家族や恋人、友達、先生、常に愛は感じる。それでもどうしようもないほどの喪失感に襲われる。愛されたい。気にかけられたい。大事にされたい。そんな思いでいっぱいの私の心はきっとおかしい。」――16歳の日記より。それは私の悲痛の叫びだった。子供と大人の間で、自分を冷静に分析しつつも結論はなに一つ得られない。自分の知識や経験のなさに絶望した。

17歳、皆が人生の岐路に立ち、泣いたり笑ったり毎日がイベントだった頃、私は自分のこれからの未来になんの興味も示せなかった。

なんの気なしに観た『ナイト・オン・ザ・プラネット』に惹き込まれたのはその頃である。週一で通っていた古本屋のDVDコーナーにふらっと立ち寄った。古い映画ばかりが並んでいて、どれも難しそうだった。ジャケットに惹かれて、なんとなく選んだのがジム・ジャームッシュ監督の映画だったのだ。それは運命的な出会いだった。高揚感で胸をいっぱいにしながら6歳の頃に読んだ「大どろぼうホッツェンプロッツ」シリーズや、ロアルド・ダールの書籍以来の感動を覚えることとなった。それまで映画にあまり触れてこなかった私にはこの『ナイト・オン・ザ・プラネット』の世界観はとても新鮮で、衝撃を受け、食い入るように観たのを覚えている。車内の映像が淡々と流れるその画は、見ていてなぜか飽きない。観終えた頃には私はこのまま宙に浮いてしまうんじゃないかと思うほど軽やかで、あんなに怖かった悲しみが襲ってくる夜も、なんだか愛せるような気がした。

「エスプリ」。それは簡潔かつ明快で、鋭い切り返しを称賛したフランス語の言葉だ。『ナイト・オン・ザ・プラネット』はまさしく、エスプリに富んだ作品である。私がこの作品を愛する訳は、映画の素晴らしさを教えてくれ、「もっと映画を見てみたい」と思わせてくれたからだ。

■18歳、不器用な父から、ギクシャクしてしまった家族から、私は逃げた

ひとしきりいろんな国の映画を見た後、私は邦画の良さに気づき、毎日何本も映画を見た。『嫌われ松子の一生』を観たのはその頃。あれよあれよという間に坂道を転げ落ちていく主人公・松子の人生を喜劇のように映し出したこの映画の、松子のセリフ一つ一つに私は魅了された。『嫌われ松子の一生』では、余計なシーンは一つもない。全てのシーンに意味があり、訴えかけるものがある。松子が作中に何度も弱々しくつぶやく、「なんで?」は誰もがきっと心の中でつぶやいたことのあるセリフだろう。この世に、どれくらいの「松子」がいるのだろうと、想像すると、つらくてやるせない。だが絶対にいる。作中で松子はどんな不幸に陥ってもそれを受け入れ、下を向かずにずっと前を見続けた。松子の真っ直ぐさは私の魂を揺さぶった。その頃私は下ばかり向いていたからだ。

松子が父からの愛を渇望する姿を見て、いつも無口だった私の父を思い出した。私の中の父は怒ると物に当たり、大きな音を出す。そしてたまに優しい顔で私の頬を大きな手で撫でてくれた。「誰が飯を食わせてやってると思っているんだ」。そう言っていた父から、ギクシャクしてしまった家族から、私は逃げた。バイトをして貯めていたお金で大阪へ行った。

18歳。育った土地から離れる日、私は安堵の息をつくかと思いきや、真昼間の阪急電車の中で涙が止まらなかった。今思えば、父は確かに口は悪いし、荒い。でもただ不器用なだけだった。私は父と上手くコミュニケーションが取れなかったことを、ずっと父のせいにして生きてきた。話さなければいけないことを話したがらず、どうしたら父の怒った顔を見ずに済むのかばかり考えていた。父は幼い私に四字熟語の面白さを教えてくれ、私の数学への苦手意識を緩和してくれた。本当に不器用だったけれど、怪物なんかじゃない、優しい私の父親だった。そして不器用だったのは私もだった。

■周りに支えてくれる人が増え、私も守りたいと思う人が増えた

一人暮らしを始めて、私は自分がどれだけできない人間だったのかということに気づかされた。その後、正式に病院で診断を受けた。先生に「けっこう頑張って生きてきたんじゃないですか」と言われた時、私は言葉がつまって出てこなかった。何度も何度も自分を責め、私なりにたくさん考えてきたことは、無駄ではなかった。

やがて大人になり、知りたくなかった感情や理不尽な痛みの槍が飛んできて、私の心が死んだ。心が死ぬのはこんなに一瞬にして死んでしまうのだと私は思った。狭い土地に嫌気が差して、飛び出してきた東京は広いようでやっぱり狭かった。毎日のように欲望の渦に埋もれながら「なにになりたいの?」「どうしたいの?」という質問に答えられず、私は疲弊した。自分のことが分からなくて、目をパンパンに腫らしして、泣きながら渋谷を歩いた。そこでは自分と歳の変わらない子たちが今を全力で駆け抜けていた。

AV女優になって、本当に良かったのかと不安に思い、悩む時はたくさんあった。それでも私はやはりエロいものが好きで、AVの世界が好きで。エロいものを楽しむのに男も女も関係無いのだと言いたかったのだ。人の生まれる根底にあるもので勝負し、衣装は自分の裸体だ。

今まで生きてきて「おかしい人」だった私は、AV業界では「面白い人」と言われるようになった。それだけで、私は救われた。

たくさんの発見や気づきがあったAV現場からの帰り道高速道路を走る車に揺られながら私は幸福感に包まれる。孤独な時間は長かったけど、私は自分の繊細さで今仕事を得ているのだ。ちょっと面倒だけれど、今だに爪はむいてしまうけれど、こんな自分でよかったと、生きててよかったと、そう思う。私はずっと、幸せになりたかった。人生が壮絶だったかといえば、そんなことはない。ただ少し生きるのがつらかっただけで。

私は自分の正体がなにか、これまでずっと考えてきた。どんな人間なのか、どんなことを考えているのか、今回改めて振り返ってみたが、自分のことをわかっているようであまりわかっていなかったのだ。だが、私は思った。そこに気づいていれば可能性はまだまだあるということに。自分のことをわかった気でいないほうが良いということに。

私は今、幸せに生きている。大切な家族がいて、多くはないけど友達もいて、大きく息を吸うことだってできる。自分を恥じることもない。私を「支える」と言ってくれる人がいつのまにか周りに増えた。そして、私も「守りたい」と思う人がたくさん増えたのだ。

■母は今も昔もずっと私と懸命に向き合ってくれているのだった

今回のコラムを私は母へ送った。一番最初に書いた、拙い文章の自分の気持ちや想いをとりあえず書いたものを。すると母は私に電話で「ごめんね」と言った。自分でも気がつかなかった、今まで見ないふりをしていたものが、一気にあふれて止まらなくなった。父とうまくいかなかったのは確かだが、私の中のこびりついたものは、母に対するものだったのだ。私は電話で母に自分の思いの丈を話した。なんであの時ああ言ったのか、いつに戻ったらやり直しがきくのか、お母さんっ子だったからこそ、お母さんの言動は私を傷つけたんだよ、そんなことを話した。全て話したら、自分の長年密かに抱えていたものが、スッと落ちていくのを感じた。母はずっと、耳を傾けてくれた。母はなんとなくわかっていたそうで、あの時救いの手を差し伸べてあげられなかったこと、分かってあげられなかったことをずっと後悔している、だからこそこれから先なにがあっても受け止めるつもりだよ、と話してくれた。

私が小さかった頃、中高生だった頃、私のような性質の人間を世間はまだ知らなかった。世間が知らないのだから、親だって知らない。母は毎日仕事に追われながらも私のことで傷つき、たくさん悩んだ。そして今も昔もずっと私と懸命に向き合ってくれているのだった。私が過去に負った傷は、一つの思い出として、大切にしまうことにした。私も、もう前に進む時なのだと思うのだった。母はもう十分私を受け入れてくれた。今度は私が母を許し、あの時の母を理解する番だ。デリケートな家族の問題というのは、周りには分からない。トラブルもあるが、目には見えない築いてきた思い出もある。

■痛くて孤独な時間があっても、大丈夫。それに勝るものがきっとあるから

生きるうえで、私が大切にしていることがある。知ること、興味を持つこと。信念を貫くこと。人の意見はまず受け入れてみる。何かに感情や感性を刺激され、自分の価値観や考えを築き、人に優しく生きる。自分が過ごしてきた時間に無駄な時間など一つもなく、生きてるだけでお金にはならないが、価値のある財産を築いているのだ。

人それぞれ、人と違ったところや人より上手くできないことがある。だがそれにとらわれないでほしい。否定したいところも、見方が違えば長所になると私は思う。自分に負けないで。私は私。人は人。

痛くて孤独な時間があっても、大丈夫。それに勝るものがきっとあるから。

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そしてこのたび、こちらの連載の書籍化が決定いたしました。発売日や内容などは決定次第お知らせしますのでぜひ楽しみに待っていてください!

エンタメを愛するMINAMOの連載コラム最終回のテーマは「私の歩んできた道」/撮影/SAEKA SHIMADA ヘアメイク/上野知香