大震災直後、私は被災地の三陸各地を取材していたが、北海道に次ぐ面積を誇る岩手県での取材は、広範に渡った。沿岸沿いのホテルや旅館は被災しているところが多く、被災していないホテルの中には、NHKなどの大手マスコミが取材拠点として、貸し切り状態になっているところもあった。

 沿岸取材を終えて盛岡や奥州市のホテルまで帰るには100キロ近くあるため、毎日がロングドライブか、あるいは車中泊することも珍しくなかった。

 震災からすぐに被災地ではガソリン不足が発生し、震災で亡くなった身内のための火葬場が足りず、隣県の秋田や青森で行われることになった。そこに行くためにガソリンが必要だという、切羽詰まった状況になっていたのだ。花巻市の近くにはリッター300円近いぼったくりガソリンスタンドまで現れたが、警察は見て見ぬフリをしていた。

 ガソリンスタンド前は長蛇の列がお馴染みとなり、1~2時間待ちはザラだった。緊急車両のステッカーを持つマスコミなどの車両は、高速道路である東北自動車道の紫波SAガソリンスタンドを利用できたため、並ぶことなく給油ができた。その意味では運が良かったが、給油のために100キロ移動するのも大変なことだった。

 3月30日の夜に、大船渡の三陸町の漁業組合理事から、

「明日、漁に出るよ」

 という連絡があった。震災前から知り合いのこの理事は震災後、

「すぐに漁に出てもいい」

 と口にしていた。

 大船渡市の北の三陸町吉浜地区は、明治・昭和の大津波の被害後、当時の村長の決断で全戸が高台に移転して震災の被害を受けなかった「奇跡の地区」として、マスコミがこぞって記事にしていた。住宅地を移転させ、残った空き地は水田になっている。

 明治時代に三陸から北海道、そしてロシアと接する千島列島オットセイ漁をしていた吉浜出身の水上助三郎は、クジラ漁で財を成したマルハ大洋が「西の中部」と称されていたのと比較され、「東の水上」と呼ばれた。

 オットセイの毛皮は防水性や保温性に優れ、日清・日露戦争で兵隊用の軍需物資として、高価で買い取られていたのだ。水上の船は2隻あり、漁獲量は日本トップを何年も続けていた。

 水上は宮城県塩釜市の沿岸の湾で日本初のカキ養殖を手掛けたり、ウナギの養殖もし、三陸の産業を興すために尽力していた。そのひとつが干鮑(かんぽう)の輸出だった。三陸には多くの鮑の産地があり、水上はそこを回って干鮑の製法を漁民に伝えた。三陸沿岸の製品を吉浜の港に集め、そこから香港へ輸出するようになった。味が濃い三陸の鮑は香港でも大評判となり、金と同じような高価な値段で取引きされるようになった。

 これが吉浜鮑(きっぴん・ほー)と呼ばれていたのだ。今でも香港の市場では「きっぴん」といえば、最高級の干鮑とされている。

 大正時代に水上が亡くなってからはその後を継ぐ者がおらず、三陸で今でも干鮑を製造しているのは僅かに1、2カ所しかない。かつての栄華の影すら見られない寒村の港が、縷々あるのみだ。しかも吉浜は湾内の海藻が痩せてしまい、鮑の漁獲量もすっかり減っている。吉浜の小学校の校庭には、湾を睥睨する水上の胸像が、かつての栄華を偲んでいるだけである。

 話を戻そう。

「避難所に新鮮な魚を届けて励ましたい」

 先の三陸町の漁業組合理事はそう思っていたのだが、隣接する地区の被害が甚大なため、「漁をするのは控えた方がいいのでは」という意見に従っていたのである。

「明日ですか」

 盛岡のホテルにやっと宿泊場所を確保した記者は、ベッド脇の時計をチラリと見た。原稿や写真を送っていたので、もう深夜12時近かった。

「何時の出漁ですか」

「朝6時半だな。記者クラブに連絡したので、NHKや他のマスコミも来るから」

 当初は私だけが漁船に乗って独占取材できるはずだったが、しょうがないと、独占記事にすることは諦めた。直ぐにベッドに入ると、日中の被災地取材の疲れが出たのか、爆睡してしまった。

 午前4時に起きて大船渡の三陸町吉浜へ向かう心づもりだったので、余裕を持って到着できるハズだった。が、パッと目を覚まして慌てて脇の時計を見ると、午前5時を過ぎていた。アチャー、やってしまった。6時半に吉浜に到着するなど、物理的にまず不可能だ。

 慌てて車に乗り込んで、寝ぼけ眼の中、ルートを頭の中で考えていた。盛岡北のインターから東北自動車道に乗って南へ向かう。高速道路一般車両が通行禁止のため、走行中の車はほとんどおらず、アクセルをベタ踏みして飛ぶように走っていった。

 花巻から釜石に向かい、高速道路が延びていることに感謝をして、なおも飛ばす。釜石市内は下道であるが、車両は本当に少なくて、貸し切り状態の国道45号線を、なおも南へ向かった。漁船が出港してしまえばジ・エンドで、徒労に終わる。吉浜の港に到着したのは6時45分頃。港に15人ぐらいのテレビクルーの姿が見えたことで、緊張感から解放されたのを覚えている。

おはようございます。間に合いましたか」

 岸壁にいた理事に挨拶をすると、

「あのな、マスコミの連中は船に乗らないんだってよ~」

 と、口を尖らせた。

「どうしてですか」

 意味が分からず、顔見知りの新聞記者に聞いた。

「上司が、この時期に船に乗る取材は危険だ、と言っているんです。NHKも乗らないと決めたようですし」

「はあ~、何を言っているの」

「ですよね。ここに来た皆は怒っているんですよ」

「そりゃあ、怒るよな」

 私は笑いたいのを抑えていた。

 津波が来ると、岸壁に置かれている漁船は水平線を目指して全速力で沖へ進む。水深100メートルほどの場所にいれば、大津波の被害を受けることがないのは、海辺で暮らす者たちにとって常識で、イロハのイと言える。だが、テレビや新聞の上司たちは、そのことも知らなかったのであろう。

 私の知人のタコ漁師は、震災の日の昼に漁から帰宅して、息子とテレビゲームをしていたが、地震と津波警報で走って船に乗り込み、沖を目指して全速力で船を走らせた。しかし、避難解除は出ていないし、自宅がどうなっているのかも分からない。結局、津波で全壊していて、避難所生活を送ることになったのだが、

「何も食べるものがなくて、参ったなと思っていた明け方に自衛隊の船が近づいてきて、おにぎりなどを差し入れてくれたのは忘れられません」

 天皇皇后両陛下が5月になって三陸を巡った際に、彼が暮らしていた体育館の避難所を訪れた。

「オレは赤いつなぎの服をきていたんですが、美智子さまが『どこかの店員さんですか』と聞くものだから『いや、漁師ですよ』って答えたら、にっこりと笑って下さいました」

 顔見知りの新聞記者は三陸の港の出身で、当然、海上の方が安全だと上司に言ったというが、

「何かあったら、誰が責任を取るんだ」

 と怒鳴られたとこぼした。

「バカな上司を持つとツライなぁ」

 私は岸壁で待機しているテレビーのクルーたちに挨拶して、一人で漁船に乗り込んだのである。アクシデントによって、まさかの独占取材が転がり込んできた。出港する漁船に向かって、岸壁のクルーたちのカメラが回っている。私はそれに笑顔で手を振り続けていたのだ。

 漁師の倅だった私は、幼い頃から漁船に乗って定置網漁などに連れていってもらっていたから、船には慣れているし、魚のことにも詳しい。

 この朝に出港し、目指したのは吉浜湾の先の地点だった。港から10分程度の近さのところに、前日に刺し網を仕掛けておいたのである。湾の底に津波で流された家屋や遺体が沈んでいるおそれがあったが、そのようなことはなかった。刺し網の端をローターに付けて、モーターで巻き上げる。

ガガガガ」

 とモーター音を立てながら、刺し網が上がってくるのだ。震災後、半月以上も漁はしておらず、魚影は濃いハズと予想していたが、その通りで、次から次へと25センチクラスのメバルが上がってくる。春告げ魚と呼ばれるメバルの大漁だった。たまには40センチ近くのサクラマスも上がってくる。サクラが咲くころに北洋から生まれ育った川に帰ってくるサクラマスは、清流ではヤマメと呼ばれているが、春に川から海に出て、数年後に戻ってくるのだ。

 1時間半近く網を上げて、多くのメバルを手にした我々の漁船は、港に戻っていった。そこでは婦人部のおばちゃんたちが手慣れたように、金属の棒が先に着いた道具で刺し網からメバルを外していく。100匹以上ものメバルを黄色いプラスティックの籠に入れて、避難所になっている公民館へと、軽トラックで運んでいった。

 その調理場には醤油や砂糖のタレが既に用意されており、メバルは大きな鍋に入れられて、軽く煮つけられたのである。早朝に船に乗れなかったマスコミの記者やカメラマンも詰めかけていた。

 震災後に生魚を食するのは誰もが初めてのことで、数十人が腰掛けた食卓では久しぶりの歓声が上がり、それは新聞やテレビで報道されたのであった。

(深山渓)

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