『新世紀エヴァンゲリオン』は、なぜ熱狂的なブームを起こせたのか? 知られざる『エヴァ』制作の裏側 から続く

君の名は』『天気の子』『すずめの戸締まり』など、数々のヒット作を世に送り出してきた新海誠氏。その作風は「セカイ系」という概念を基に評価されることが多いが、新海氏は自身の作家性についてどのように考えているのか。

 ここでは、アニメ・特撮研究家の氷川竜介氏による『日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析』(角川新書)の一部を抜粋。氷川氏による新海作品の分析、そして、新海氏が語った自作への思い、影響を受けた作品について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

◆◆◆

「個」の時代が求めた作品性

 新海誠作品は、キーワードセカイ系」によって論じられることがあります。この言葉にはいくつか定義が存在しますが、筆者は「個人の問題とセカイの問題が直結する作品傾向」と理解しています。「どんな願いでも叶えられるアイテム」などの特殊な設定を使って「世界の変革」ないし「願望の成就」を描いた作品は、20世紀末から21世紀初頭にかけて急増していきました。

 ところが現実世界では願望成就のためには「社会」があり、それを会社や部署など何階層かに分割した領域で、個人の努力と協調が求められます。とは言え、その努力は報われない傾向にありますから、「世界」のほうを書き変えて幸せになりたいというわけです。その努力の意識が欠落し、「世界」に直結させるのは「チート(不正)」願望だという点で批判もされ、カタカナで「セカイ系」と呼ばれるようになりました。この進化形が「異世界転生もの」です。重労働で報われない主人公トラックや電車で事故に遭い、死んでしまう。目ざめてみるとオンラインゲームのような中世風異世界に転生している。新たに得た環境で主人公は本来もっていた才能や特殊能力を発揮し、ストレスなく願望を叶えていく……といった定型のあるサブジャンルです。

 そのように「個」が肥大化し、社会性とは別の面で何らかの「承認」を求める傾向は、「ネットコミュニケーション」の常態化と並走して急加速しました。旧世代から否定的にとらえられることも多かった現象ですが、筆者なりに共感もできます。

ネット時代が求めた新しい作家の代表

 インターネットの効果・効能は多岐にわたりますが、かつて通信系のエンジニアだった筆者がつかんだネットの本質は「中ヌキ」です。

 通販業者は問屋・小売りを通過せず、ダイレクトに商品を顧客へ届ける。動画配信は映画館や放送局を介せず、観客に直接作品を見せる。ある世代以後は生まれたときからその「中間排除」の環境で生まれ育ちました。ならば「社会」も中ヌキできるのではないか。そう考えるのは自然です。個に重点をおくネットの特質は「コミュニケーション=人の意思疎通」で顕在化します。SNSは音声も「中ヌキ」し、思考直結に近い文字を使う。「テレパシーコミュニケーション」を重視するのが、現代の若者です。

 昭和の高度成長期からしばらく、大衆娯楽は「個」とは逆の「人の絆」や「団結」など社会性を重視してきました。スポーツアニメ、部活もの、ロボットアニメ魔法少女アニメチームワークを重視する。アニメもまたその強い影響下にあるのです。しかし時代が平成になってから10年あまり。バブル経済崩壊後は、日本社会が激変します。電子機器で娯楽も趣味もコミュニケーションも変わっていくにつれ、「個の追求」が強まっていく。

 そんな時代性の急変期に、新海誠が登場したのです。ファンの中には「自分の気持ちが分かっているのは新海さんだけです」と語る人も多い。つまり「ネット時代が求めた新しい作家の代表」なのです。

自己分析は「欠落やギャップがキー」

 では新海誠監督自身は、どのように自作を考えていたのか。先述のインタビューで新海監督は、当時公開されたばかりの『言の葉の庭(13)テーマを“孤独という状態を否定しない”と位置づけました。制作動機を「孤独のまま立ちすくんでいる大勢の人に向けて、ひとりで誰かを求めている状態をむしろ肯定し、励ますような作品にしたかった」と語る新海監督の姿勢は、『君の名は。』(16)以後にも引き継がれていきます。

 さらに過去作に関し、「『欠落』や『ギャップ』がキー」と総括しています。

〈『ほしのこえ』の場合は宇宙と地球の「距離」、『雲のむこう、約束の場所』では「現実と夢」、『秒速5センチメートル』はシンプルな「遠距離恋愛」で、これが『星を追う子ども』になると「地上と地下」や「生と死」という距離感になります。

(動画配信サイト「バンダイチャンネル」掲載「クリエイターズ・セレクション アニメーション監督:新海誠インタビュー2014年9月25日 https://www.b-ch.com/contents/feat_anitsubo/backnumber/vol_2/p01.html より)〉

 この応用編としての『言の葉の庭』におけるギャップは「年齢差」で、「現実世界」のドラマとして描くことにより、「大人と子供」という点で社会性が発生したと、自身で明確に「脱セカイ系」を言語化しています。だからこそ『君の名は。』以後の3作品では、いずれもどこかに「社会性」が自覚されているわけです。

 さて、『ほしのこえ』でとった方法論に関しては、こう語っています。

〈 大学4年の時の『新世紀エヴァンゲリオン』(95)で、特にラスト2話ですね。まるで動かず声だけなのにものすごく緊張感があって、ショックを受けました。同時に「これなら手間的に自分も作れるんじゃないか」と(笑)。庵野監督の『彼氏彼女の事情』(98)も弟に貸してもらい、あのエッジの効いた演出の学園ものと『エヴァ』のラスト2話の手法は、『ほしのこえ』をつくる直接的なきっかけだと言えます。(中略) なのできっかけというより手法や発想の影響を受けたんですよね。劇場版パトレイバー』も念頭にあって、レイアウトや風景だけで見せたり、動かさずに30秒の長台詞にするみたいな点で、「最低限の物語さえあれば、アニメっぽい映像ができるかも」と思いました。今考えるとかなり浅はかな受け取り方で、ホントに恥ずかしいんですけど(笑)

 

(同サイトから引用)〉

新海誠監督によって「背景美術の重視」がさらに強化

 新海誠作品で真っ先に話題になる「風景の美学」への意識についての原点です。

ほしのこえ』発表時に筆者が注目した特徴は、「ラブストーリーなのに2人の触れ合いがほとんど存在しないこと」でした。ドラマの基本となる「接触」よりも、人のいない風景、あるいは登場人物が見つめる風景のカットが多用されている。セリフにしても大半が弁証法的な「ダイアローグ(二者の会話)」ではなく「モノローグ(独白)」なのです。これは「物語」として特殊なことで、「ポエム(映像詩)」に近い印象はここから来ています。

 一方で「風景に託して言外の感情を伝える」は、もともと高畑勲宮﨑駿らを契機に大きく発展した日本製アニメの特徴の系譜に位置づけられます。本書ではここを重視したいです。さらに『機動警察パトレイバー』『新世紀エヴァンゲリオン』ですでに実現されていた「背景美術の重視」の傾向は、新海誠監督によって、さらに強化された。すべてが「世界観主義」の系譜上で一本の線に結ばれています。

アニメーション文化でも「人の動き」による表現が重視されてきたワケ

 新海誠以後の深夜アニメでは、演出用語「BGオンリー」のカットが目立つようになりました。「BG」とは「バックグラウンド(背景)」の略で、「オンリー」は手前にセルのキャラクターがいない状態を意味します。つまり「キャラの代わりに背景を見てくれ」が演出意図で、キャラの出入りもありません。シーン(舞台)が転換したときに説明としてよく使われる手法ですが、新海誠監督は風景そのものを主役級にとらえた演出を効果的に提示しました。そして『エヴァ』の影響も含めて「背景主体」の映像が増えていったのです。

 舞台劇と映画では、人のいない風景を「空舞台」と呼びます。逆に幕が上がったときから役者が舞台にいる状態を「板付き」と呼び、演出としては厳密に区別します。これはシーン単位に関する区別ですが、カット単位でも空舞台に被写体がフレームインしてくることで「ドラマの予感」が生じ、意味が発生します。舞台に人の出入りが始まり、役者と役者が絡み、芝居やセリフに乗せて情の動きが生じることが「劇(ドラマ)」の本質なのです。その葛藤(コンフリクト)が内圧を高め、クライマックスでカタルシスが起きて解放され、感情が観客と共有される。これが一般的な「作劇」のセオリーです。だからアニメーション文化でも「人の動き」による表現が重視されてきたわけです。

物語性のある新海誠作品

 ところが初期新海作品は、そのセオリーとは根源的に異質です。むしろ光や雲の変化に動きをつけ、淡々としたモノローグを重ね、時に言葉を途絶させる。代わりに落ち着きのある音楽がカットの断層を貫きます。この積みかさねで、大きな情動が観客側で自発的に醸成されます。美術が「作品の世界観」を主張し、目立たない領域で心理の奥底深く作用する。だからクライマックスで観客は「風景と心情」を登場人物と自発的に共有し、カタルシスを覚える。物語性のある作劇にはなっていて、ポエムと同じではないのです。

 新海誠監督作品に多い独白も、絵コンテ上では「OFF」として音響の現場に指示するものです。動きや出番のある「ON」の逆の意味です。後ろ向きなど口の写らないカットも「OFF」になりますが、アメリカ作品では誤解なく伝える目的でリップシンク(口の動きへの同期)が重視されるため、背景だけ声だけの「OFF」演出は避けられています。この「OFF」こそが、新海誠作品において観客の想像する余白を生むものなのです。

メジャー向きではなかった新海誠の作家性

 風景、独白、音楽……。すべて感性主体で、そこにロジカルな関係性や因果はありません。だから「映像詩」とも呼びました。しかし新海誠監督の意識としては、それこそが「物語を語るためのツール」です。多くの観客は「キャラクター」に注目し、その変化を求めるものです。「空舞台」も「OFF」も、観客に想像力や読み解きの努力を求めるものですから、新海誠の作家性は決してメジャー向きではなかったはずなのです。

◆◆◆

 しかし、新海誠の「君の名は。」は、興行収入250.3億円(公開終了時)という空前の大ヒットとなりました。その大ヒットに至る道のり、日本のアニメ史における新海誠の位置づけ、それらの作品が「セカイ系」ではない理由、さらに最新作「すずめの戸締まり」については、新刊『日本アニメの革新――歴史の転換点となった変化の構造分析』(角川新書)をご覧ください。

(氷川 竜介/Webオリジナル(外部転載))

©AFLO