(平井 敏晴:韓国・漢陽女子大学助教授

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 完全な解決はもはや不可能になった。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領も思い切ったことをしたものだ。これほどのことを決断するには、相当の覚悟が必要だ。私はそこに驚いた。

 3月6日、日本戦時下における強制徴用工問題の解決案が韓国政府により発表された。日本側が譲ったところは事実上なく、韓国側が大きく譲歩したと言ってよい。報道によれば、賠償金の支払いを徴用工訴訟で被告になった日本企業に求めない点に、岸田首相は最もこだわったとされる。

 韓国の世論調査によれば国民の60%以上が反対しており、解決案撤回へのシュプレヒコールが熱を帯びている。

 抗議集会では、元女性徴用工ヤン・グムドク(93)さんのすぐ後ろに野党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)代表の姿があった。韓国の国会は野党が圧倒的多数を占めており、今後、政局を巻き込んでの大混乱が予想される。

林外相のG20見送り、徴用工問題も一因に?

 今回の解決案発表は急転直下だった。発表が予定されていると報じられたのは3日ほど前であり、それまでは、解決案がまとまるのは「まだしばらく先」と韓国の専門家たちも口を揃えていた。

 とはいえ、今年(2023年)に入ってから韓国では、政府内で解決案が模索されているとの報道が相次いでいた。

 そのなかでとりわけ最も注目されていたのが、G20外相会合での動きだ。3月2日インドで開かれるG20外相会合では、林芳正外相と朴振(パクチン)外交部長官が2者会談を開いてこの問題を議論するのではないかとの予測が広がっていた。だが実際には、2月末に林外相のG20出席の見送りが発表されると、韓国ではみるみるうちに解決案に関する報道が沈静化した。

 今から思えば林外相のG20出席の見送りは、徴用工問題も一因になっていたのではないかと思えなくもない。出席すれば朴振外相と顔を合わせることになり、少なくとも韓国で、解決案をめぐる動向にさらに熱い視線が向けられてしまう。それは日韓両政府にとって決して好ましいことではない。

 産経新聞によると、岸田首相は外相時代に慰安婦合意を骨抜きにされた苦い経験を味わっており、韓国側との解決案の摺り合わせは慎重に進めていたという。

背景に北朝鮮と中国の動きへの警戒

 では、なぜ韓国政府は解決案の発表をそこまで急いだのか。

 まずは、徴用工訴訟をめぐり韓国政府が取ってきた立場について簡単におさらいしておこう。

 徴用工問題が日韓両国間で大きな懸案事項となったのは、文在寅ムン・ジェイン)政権のときに韓国の大法院で被告の日本企業に下された賠償金の支払い命令である。

 この判決が出されるまでは、共に民主党も、1965年に結ばれた日韓請求権協定に則って、元徴用工への賠償金の支払いを日本側に求めるのは適切ではないと考えていた。文在寅大統領でさえも就任当初はそうだった。だがこの判決が出されると、文大統領三権分立を理由に司法判断を尊重するとして態度を一変させた。多くの韓国人もそれを支持した。

 それは、日韓請求権協定の反故も止む無しということを意味する。究極的には日韓関係ご破算への道である。

 その道を変えたのが、ちょうど1年前に行われた韓国大統領選挙である。尹候補と薄氷差で敗北を喫した李在明候補は日本に対する強硬的な言動を繰り返し、大統領になったら中国を最初に訪問するとも公言していた。そんな李在明氏が当選していれば、日韓関係は完全に修復不可能になっただろうし、ウクライナ戦争の勃発もあり、米韓関係も凍結状態に陥っていたかもしれない。

 一方、尹大統領の考え方はその対極にある。特にウクライナ戦争により不安定化する世界情勢の中で、日韓関係は大きな意味をもつ。日韓関係を改善し強化することが、日米韓の軍事協力関係の強化につながるからだ。

 尹大統領が最も恐れているのは、北朝鮮核兵器保有である。現在のところ、中国は北の核兵器保有に反対の立場を示している。だが、もしもロシアウクライナで領土を拡大して戦争終結を宣言した場合、中国が台湾へ軍事侵攻する可能性は高くなる。そして実際に中国の思惑通りになれば、覇権獲得のために北の核兵器保有を認めるかもしれない。

 それに台湾といえば、今や世界の半導体サプライチェーンのハブである。台湾侵攻が起こった場合、世界市場への半導体の安定供給が滞り、東アジア経済が大きく揺らいでしまう。そうなれば、韓国経済の打撃は計り知れない。特に尹政権はIT関連技術を今後の韓国経済をけん引する重要分野としている。もしも半導体の安定供給ができないとなれば、その根幹が揺らいでしまうのだ。

 このダブルパンチが現実となると、韓国社会は極めて厳しい状況に置かれることになる。それだけはどうしても避けたい尹大統領は、日韓関係の改善が急務と考えているのだろう。

成果がなければ日本にも厳しい視線が

 それにしても、この解決案で本当にうまく行くのだろうか。私はそうは思えない。

 賠償金は企業からの拠出金から支払われるとのことだが、その企業に被告となっている日本企業が参加するかは極めて不透明だ。しかも一部の原告は日本企業からの直接の謝罪を望んでいる以上、解決案が行われても、政権が変われば蒸し返される可能性は十分にある。

 また、15名の原告は賛成が4名、反対が3名と伝えられており、原告の半分以上がまだ態度を明確にしていない。そうした状態で、最終的にどれだけの原告が解決案を受け入れるのかについてもまったく見通せない。ただ少なくとも言えるのは、原告全員が今回の解決案を受け入れることはあり得ないということだ。

 実際のところ、尹政権もこれで問題が完全解決するとは考えていないはずだ。重要なのは、日韓関係改善への努力のアピールなのである。

 今回の解決案によって支持率は一度落ちるかもしれないが、まだ4年の任期が残されている。その間に支持率の回復はいくらでも可能だ。それには自国経済の安定と東アジアの安全保障の強化はもちろん、現在の日本ブームを後押しすることが先決だと考えているのだろう。

 そうした状況のなかで日韓関係改善に努力する政府の姿に、韓国社会がどれだけ共感できるのか。その行方はけっして楽観できないと言わざるを得ない。

 それに日本側にしてもこれで安住していられるわけではない。岸田首相は何か新しいことをしたわけではなく、これからも何もしなければこの解決案は何も実りを結ばない。そうなれば、国際社会は日本の外交と安保に対する姿勢をどう見るだろうか。韓国の京郷新聞は「韓国の今回の決定はアメリカが最も望んでいたものであり、これによって最大の恩恵を被る勝者はまさにアメリカである」と論じている。日本が今後も努力をしなければ、立場がむしろ危うくなる。

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