賃上げの機運が大きく高まっていますが、日本の賃金は長期にわたり低迷が続いてきました。賃金上昇のためには、労働生産性の向上が不可欠とされますが、日本の労働生産性の上昇率は諸外国と比べて必ずしも低いわけではありません。それにもかかわらず賃金が低迷を続けているのはなぜなのでしょうか。ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎氏によるレポートです。

1―低迷が続く日本の賃金

消費者物価が約40年ぶりの高い伸びとなったことをきっかけとして、賃上げを巡る環境が大きく変わっている。岸田首相は、2023年春闘でインフレ率を上回る賃上げの実現を経済界に要請し、連合も賃上げ要求を前年までの4%程度から5%程度に引き上げた。大幅な賃上げを表明する企業も相次いでおり、ここにきて賃上げの機運は大きく高まっている。

しかし、日本は長期にわたり賃金の低迷が続いてきた。G7各国について、1990年を起点とした2021年*1の賃金水準を比較すると、日本以外の国は2倍から3倍近い以上の水準となっているのに対し、日本は1990年比で5.5%とほとんど伸びていない(図表1)。日本はデフレが長期化したことも名目賃金伸び悩みの一因となっている。物価上昇率で割り引いた実質賃金は6.3%とイタリアの伸び(1.2%)を上回るなど、各国との差は縮小するが、それでも日本が主要各国と比べて賃金が低迷していることに変わりはない(図表2)

*1:データの制約上、本稿では直近を2021年としている。

日本の労働生産性は低くない

賃金上昇のためには、労働生産性の向上が不可欠とされる。労働生産性は労働投入量1単位当たりの産出量(付加価値)を示す指標である。これを実際の経済変数で表すと、下式のようになる。

①の式に②を代入すると、③となる。

④とすれば、⑤となるため、労働分配率が変わらなければ、実質賃金(時間当たり)は労働生産性に連動することになる。

ここで、G7各国について、労働生産性の推移を確認すると、日本は1990年からの約30年間で労働生産性は約50%高まっている。米国、ドイツは下回っているものの、英国と同程度で、カナダフランスイタリアは上回っている(図表3)。また、日本の労働分配率(雇用者報酬/名目GDP)は振れを伴いながら50%前後で推移しているが、2021年の水準は1990年よりも高く、この期間でみれば、実質賃金の押し上げ要因となっている(図表4)。少なくとも、労働生産性の低迷が実質賃金伸び悩みの主因とは言えない。

*2:厳密には、実質賃金(時間当たり)= となる。

2―生産性向上の中身が問題

労働生産性上昇率が諸外国と比較して必ずしも劣っているわけではないにもかかわらず、日本の賃金が長期にわたって低迷している原因は、労働生産性向上の中身にある。

労働生産性は高めるためには、その式から明らかなように、分子の付加価値を増やす、分母の労働投入量を減らすという二つの方法がある。

ここで、労働生産性の内訳をみると、日本は経済の長期停滞を反映し、国全体の付加価値を表す実質GDPは1990年を起点とした2021年までの約30年間で27.2%の増加にとどまっており、G7では、イタリア(19.4%)に次ぐ低い伸びとなっている。一番伸びが高いのは、米国の109.2%、それに続くのがカナダの92.6%、英国の68.1%、フランスの55.2%、ドイツの51.8%である(図表5)

実質GDPの伸びが低いにもかかわらず、日本の労働生産性が向上しているのは、労働投入量、特に労働時間の減少幅が非常に大きいためである。

かつては、日本の労働時間は国際的にみて長いことで知られており、1990年には年間労働時間(一人当たり)が2,000時間を超えていた。しかし、法定労働時間の短縮、週休二日制の定着、非正規雇用比率の上昇、働き方改革などを背景に減少傾向が続き、2021年は1,607時間となり、米国、カナダイタリアの水準を下回っている。約30年間の労働時間の削減幅は▲20.9%とG7の中では最も大きい(図表6)

1990年から2021年にかけての労働生産性の変化率を実質GDP、就業者数、労働時間の変化率で寄与度分解*3すると、日本は実質GDPの増加によるプラス寄与は小さいが、就業者の増加によるマイナス寄与が小さく、労働時間の減少によるプラス寄与が非常に大きくなっている(図表7)。すなわち、日本の労働生産性の向上は、付加価値である実質GDPを増やすことではなく、労働投入量の削減、特に労働時間の削減によってもたらされている。

労働生産性の上昇率が同じだとしても、付加価値の拡大によってもたらされた場合と、労働投入量の削減によってもたらされたものである場合では、その意味合いが異なる。

定義式上、労働分配率が変わらなければ、実質賃金の上昇率は労働生産性の上昇率と等しくなる。しかし、この場合の実質賃金はあくまでも時間当たり賃金である。実質GDPが変わらずに労働時間の削減だけで労働生産性が向上した場合、時間当たり実質賃金は増加するが、一人当たり実質賃金は増加しない。日本が労働生産性が一定程度伸びているにもかかわらず、実質賃金が伸びていない原因はここにある。

労働生産性が向上したとしても、一人当たりの実質賃金が伸びなければ、消費を増やすことはできず、経済成長率も高まらない。生産性の向上が重要であることは言うまでもないが、日本経済の長期停滞の一因は、生産性の向上はある程度実現したものの、付加価値(実質GDP)を増やすことが出来なかったことにあるのではないか。

*3:労働生産性の式の両辺を自然対数に変換してその差分をとることによって、労働生産性の変化率を寄与度分解している。

3―人口減少が低成長の主因ではない

日本の実質GDP成長率は長期にわたり低迷が続いている。日本は人口がすでに減少局面に入っており、このことが経済の停滞をもたらしているとの見方は根強い。しかし、日本の経済成長率の低下に大きく寄与しているのは、人口増加率の低下よりも一人当たりGDPの伸び率低下である。

実質GDP成長率(年平均)を人口増加率と一人当たりGDPの伸び率に分けてみると、人口増加率は1970年代までの1%台から1980年代が0.6%、1990年代が0.3%、2000年代が0.1%と徐々に低下した後、2010年以降は▲0.2%(人口のピークは2008年)と減少に転じたが、変化のペースは緩やかである。これに対し、一人当たりGDPの伸びは1960年代の9.4%、1970年代の4.0%、1980年代の3.7%から1990年代に1.2%と大きく低下した後、2000年以降はゼロ%台となっている(図表8)

人口増加が一国の経済成長にプラスに寄与することは確かだが、人口増加率は一人当たりGDPの伸び率と連動しない。実際、OECD加盟国(38ヵ国)における約30年間の人口増加率と一人当たりGDP成長率の関係を見ると、両者に明確な相関関係はない(図表9)

日本の低成長は人口減少とは直接関係のない一人当たりGDP成長率の低下によってもたらされている部分が大きい。現時点では、人口の減少ペースは緩やかなものにとどまっている*4ため、一人当たりGDPの伸びを高めることによって国全体の成長率を高めることは可能と考えられる。

かつては、日本はもう十分に豊かになったので、これ以上成長する必要がないという意見も少なくなかった。しかし、それはあくまでも過去の話である。経済の停滞が長期化したことで日本は国際的にみて豊かとはいえなくなっている。国全体のGDPの規模は米国、中国に次ぐ世界第3位を保っているものの、2021年の一人当たりGDPは、OECD加盟国の中で中位から下位(ドルベースでは20位、購買力平価ベースでは26位)に位置している(図表10)。裏を返せば、日本はまだ豊かになる余地があると言えるだろう。

*4:ただし、新型コロナウイルス感染症の影響もあり、2021年の人口減少率は前年比▲0.5%と2020年の同▲0.2%から大きく拡大している。

4―経済成長率低下の主因は家計消費、設備投資の停滞

実質GDP成長率の長期推移を需要項目別にみると、家計消費と設備投資の伸びが大きく低下しているのが目立つ。家計消費の伸びは1970年代の5.4%(年平均、以下同じ)、1980年代が3.7%、1990年代が1.8%、2000年代が0.8%、2010年以降が0.2%と低下傾向に歯止めがかかっていない。一方、設備投資は1970年代の4.0%から1980年代に7.5%に伸びを高めた後、1990年代(0.4%)、2000年代(0.2%)と急低下したが、2010年以降は1.5%と若干持ち直している。

2010年以降の実質GDP成長率に対する寄与度は、家計消費が0.0%、設備投資が0.2%と両者ともに経済成長にほとんど寄与していない(図表11)

上昇する家計の消費性向と低下する企業の投資性向

家計消費、設備投資ともに経済成長率低下の主因となっている点では共通しているが、低迷の理由は大きく異なっている。

家計の消費性向*5は、1980年の80%台前半から長期にわたり上昇傾向が続き、2013~2015年にかけては100%を上回った。消費性向が100%を上回っていた(貯蓄率はマイナス)ことは、可処分所得以上に消費していたことを意味する。消費性向は、2020年、2021年には新型コロナウイルス感染症の拡大を受けた度重なる行動制限によって急速に落ち込んだが、これは一時的なものと考えられる。

一方、企業の投資性向*6は、1990年代半ばまでは100%を上回っていた。このことは企業がキャッシュフローを上回る水準の設備投資を行っていたことを意味する。企業の投資性向は1990年代初頭の150%程度をピークに大きく低下し、1990年代後半に100%を割り込み、2010年には60%台前半と過去最低水準となった。その後、投資性向は若干持ち直しているものの、100%を大きく下回る水準での推移が続いている。企業は20年以上にわたって、設備投資をキャッシュフローの範囲内に抑えている(図表12)

消費低迷の理由として、家計の節約志向や将来不安に伴う過剰貯蓄が挙げられることも多いが、マクロ的にみれば消費性向は長期的に上昇(貯蓄率は低下)している。消費低迷の主因は可処分所得の伸び悩みにある。これに対し、設備投資はキャッシュフローが潤沢にあるにもかかわらず投資性向の低迷によって抑制されている。設備投資低迷の主因は、期待成長率の低下などを背景として企業の設備投資意欲が慎重なものにとどまっていることにある。

*5:家計の消費性向=家計消費支出÷(可処分所得+年金受給権の変動調整)

*6:企業の投資性向=総固定資本形成÷(貯蓄(純)+固定資本減耗)

可処分所得低迷の要因

消費低迷の主因と考えられる家計の可処分所得の動向を、現行の国民経済計算(GDP統計)で遡ることができる1994年以降について確認する。

家計の可処分所得は1994年298.1兆円から2021年は309.0兆円と10.9兆円増加したが、27年間の増加率は3.7%(年平均0.1%)にとどまっている。この間、家計消費支出の伸びはほぼ一貫して可処分所得の伸びを上回っており、可処分所得の伸び悩みを消費性向の上昇が補うという構図が続いてきた。ただし、2020年は特別定額給付金の支給などによって可処分所得が大幅に増加する一方、緊急事態宣言で家計消費支出が急速に落ち込んだことから、一時的に両者の関係は逆転した(図表13)

可処分所得の内訳をみると、超低金利の長期化に伴う利子所得の大幅減少を主因として財産所得(純)が一貫して可処分所得の押し下げ要因となっている。社会給付(現物社会移転以外の社会給付-純社会負担)は増加傾向が続いていたが、マクロ経済スライドや特例水準の解消によって年金給付額が抑制される一方、年金保険料率が段階的に引き上げられていることから、2010年をピークに減少し、2016年以降はネットの社会給付(受取-支払)がマイナスとなっている。

可処分所得の増加に最も大きく寄与しているのは、雇用者報酬である。雇用者報酬は景気循環に合わせて増加と減少を繰り返してきたが、アベノミクス景気が始まった2013年頃から増加傾向が明確となっている。雇用者報酬は1994年から2021年までの27年間で10.4%(年平均0.4%)増加した(図表14)

雇用者報酬を雇用者数と一人当たり雇用者報酬に分けてみると、雇用者数は27年間で12.9%の増加、一人当たり雇用者報酬は▲2.3%の減少となっている。雇用者報酬は、賃金・俸給と雇主の社会負担に分けられる。雇主の社会負担は、年金、医療・介護保険、雇用保険、児童手当にかかわる雇主の負担金、雇主による退職一時金の支給額などが含まれ、27年間で47.2%の大幅増加となり、雇用者報酬の増加に寄与している。しかし、雇主の社会負担はGDP統計に計上されるものの、その多くは雇用者の手元に入るわけではない。

雇用者が実際に受け取る一人当たり賃金・俸給*7に限れば、27年間で▲6.5%の大幅減少となっている。

*7:賃金・俸給には、現金給与のほかに、現物給付、雇用者ストックオプションが含まれる。

5―まとめ

賃上げのためには生産性の向上が不可欠とされるが、日本の労働生産性の上昇率は諸外国と比べて必ずしも低いわけではない。それにもかかわらず賃金が長期にわたって低迷を続けているのは、労働生産性の上昇が主として労働投入量の削減によってもたらされており、付加価値(GDP)の拡大を伴ったものとなっていないためである。付加価値の拡大がなければ、時間当たり賃金は増えても一人当たり賃金は増えないため、「賃金上昇」→「消費の拡大」→「企業収益の改善」→「賃金の上昇」という前向きの循環が生まれない。

実質GDP成長率の低迷が長期化しているのは、家計消費、設備投資がほとんど伸びなくなっているためである。設備投資停滞の主因が投資性向の低下であるのに対し、家計消費停滞の主因は消費の原資となる可処分所得が伸びていないことにある。

家計消費の本格回復のためには、可処分所得の増加が不可欠である。家計の所得を増やすためのルートは雇用者報酬(雇用、賃金)のほかに、財産所得(利子、配当)の増加、所得税減税、社会給付の増加、社会負担の軽減など複数ある。

このうち、黒田日銀総裁のもとで続けられてきた異次元緩和は今後修正される可能性はあるものの、短期間のうちに金利が大幅に上昇する可能性は低いことから、利子所得のルートを通じた家計所得の改善は当面期待できない。企業が配当の支払いを増やすことも企業から家計への所得移転を進める有効な手段だ。ただし、日本の家計は株式の保有比率が低いため、企業が配当の支払いを増やしてもそれを受け取るのも企業となり、企業部門内に資金が滞留してしまう面がある。

また、国の厳しい財政状況を踏まえれば、所得減税、社会保険料の負担軽減、マクロ経済スライドの停止による年金増額などは困難と考えられる。

現時点で最も実現可能性が高く効果も大きいのは、賃上げの本格化による雇用者報酬の拡大である。ニッセイ基礎研究所では、2023年の春闘賃上げ率は前年から0.70ポイント改善の2.90%と、1997年以来26年ぶりの高水準になると予想している。ただし、定期昇給を除いたベースアップでみれば1%強で、引き続き消費者物価上昇率*8を下回ることが見込まれる。中長期的にはベースアップが物価上昇率を上回ることを目指すべきであり、2023年の賃上げは本来あるべき姿の実現に向けた第一歩と位置づけることができる。物価安定の目標が2%であることを前提とすれば、賃上げ率はベースアップで2%超、定期昇給込みで4%程度となることがひとつの目安となるだろう。

資源高や円安に伴う輸入物価の急上昇を起点とした現在のコストプッシュ型のインフレは、企業収益の圧迫、家計の実質購買力の低下につながるため、決して望ましいものとは言えない。しかし、企業の値上げに対する抵抗感を和らげるとともに、賃上げの重要性を再認識させるきっかけとなったことも事実である。賃上げによって消費が拡大すれば、企業の売上や収益が増加し、さらなる賃上げにつながる、という好循環が生まれる可能性が高まる。今回の予期せぬ物価上昇を、これまでの縮小均衡を脱却し、拡大路線へ転換する絶好の機会と捉えたい。

*8:ニッセイ基礎研究所の消費者物価上昇率(生鮮食品を除く総合)の見通しは2022年度が3.0%、2023年度が2.3%と予想している。

(写真はイメージです/PIXTA)