(河崎 環:コラムニスト)

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「デート代は男がおごるもの」?

 今年(2023年)2月、バレンタインデーを前にして、我が国日本は相変わらずのジェンダー後進国ぶりにネットが沸いた。

 セクシー女優による「デート代は男性がおごってほしい」という趣旨のツイッター発言が炎上し、批判が殺到。驚いた当人は「酔った勢いだった」と釈明してツイートを削除、翌日のYouTubeで謝罪するに至った。

「デート代、なんで男が払わなくちゃいけないのって言葉 女性はそのデートの為に準備して洋服、メイク、美容代も入ってると思う 全部安くない リップだってブランドなら4000円はする」

「可愛いって言って欲しくて、その為に凄く早起きして準備してる それを考えた上で、女性に出してあげて欲しいって思う!」

 こんなツイートをきっかけに論争が勃発。「男だって準備に費用がかかっているんだが?」「女性側から男女平等を叫ぶ割に、こういう奢る奢らないの場面では男に奢れと。ダブルスタンダードじゃないの?」という男性からの反発は想定の範囲内だが、女性を中心に擁護派も多く、「よくぞ言ってくれました」「これが女の側の現実。男はそれを知ってデート代を負担してほしい」「せめて食事はおごってほしい」という意見がこの2023年においてなお噴出したことにも考えさせられた。

何が男女平等やねん

 ツイッターでのデート代論争はこれまでにも何度か起こっており、何年かに一度、思い出したように祭りが起きる。

 その際、女性側の主張はたいてい「デートの準備に、女の子の側はすごくコストがかかっているのを男性の側はちゃんと意識してほしい(そして空気を読んで応分の負担をしてほしい)」というものだ。

「そもそも脱毛やスキンケアやメイクアップ、髪やネイルやまつエク、洋服に下着にバッグに靴にアクセサリー、女の子ってすごくお金がかかっているんだから! 相手に可愛いと思われるよう、好きになってもらえるよう、自分にいっぱい時間もお金もかけてデートに臨むんだからね! ご飯代や移動費(交通費)はおごってくれていいんじゃない?!」

 このように、「デート代や食事のお金は男性側が負担すべきだ」と人を性別で雑に分類して、役割を押し付けながら疑問を持たない“性別による無意識の思い込み”をアンコンシャスバイアスと呼ぶが、ジェンダーバイアスは、女性の側にも大いに、かつ深刻に残っているということである。

 この件に関して、タレントのフィフィさんが的を射た指摘を残している。「家事は女性がするものだ!には発狂して、食事は男性が奢るものだ!には黙り・・・何が男女平等やねん。上げるならどちらにも声上げなきゃだよ」と彼女がツイートした通り、いまの時代、男女反転して男性側から女性へ「~してほしい」「~すべき」という性別役割を固定するような発言があれば「男尊女卑」と大騒ぎになるが、女性側から男性側へのバイアスに関してはまだまだ「ゆるい」のが現状だ。

おごるのがいい男?

 そしてまた、下心満々の外野のおじさんたちが「えっ、若い女の子に食事をおごるのってもう“コンプラ的に”アウトなの? 断られたり怒られたりするの?」と恐々としながら、議論の行方を見守る様子も興味深かった。

 暇を持て余して「食べログ文学」なんかをしたためる素人おじさんたちのメシ批評を見ていると、必ずと言っていいほどキレイな女子と一緒に行ったとアピールし、自分は黒光りする(何が)百戦錬磨のグルメであると主張し、何やらを連想させる官能的な食材の描写をし、なるほど、食と色の近距離ぶりを感じる。おじさんなのに若い女子のふりをして巧妙な投稿をするタイプのネカマもいる。

 グルメ系のコンテンツが大流行りしたり、人々がSNSにメシの写真をせっせと上げたりメシ批評を書き続けたりするのは、どこか現代人類が社会的動物として色の欲求を食の欲求に置き換えて依存するような部分もあるのだろう。

 色(モテ)と食(グルメ)はかくも近距離だ。ことデートなどの場面において、男性が女性に「相手が女性で、自分が男性だから」食事をおごるのが紳士(またはいい男、モテる男)のマナーに違いないといった刷り込みは大きい。

 今回の炎上では、ネットもテレビも、さまざまなメディアがこの話題を取り上げた。街頭インタビューや「あなたはおごる派? ワリカン派?」のようなざっくり粗いパイチャート調査で、20~30代の未婚男性の中に、「実態はワリカンだけれども本当は男性がおごるべきなのではないか」と思っていたり「本当はおごりたいんですけど」などと口にしたりする人が多いのが印象的だった。

 未婚既婚にかかわらず、中高年層は特にその価値観(責任感?)が強固で、かつて“アッシー”“メッシー”という女性に貢ぐトレンドカルチャー下で青春期を過ごした現在55歳のバブル世代以上は、経済崩壊後もいまだに半数以上の男性が「デートの食事は男性がおごるもの」と認識している・・・という調査結果もある。

東カレ文化を支える、バブル世代以来の男女の固定観念と男のやせ我慢

 その延長線上にあるのが、以前この連載でも取り上げた雑誌「東京カレンダー」が展開する、「(港区あたりで)綺麗な若い女子に高いメシを食わせてその後の色っぽい展開にも大いに期待する」消費行動だ。

 この価値観は、女性の就職なるものが、基本的に一般職で、数年を大企業の腰掛けOLとして過ごし、寿退職するのが女の花道と考えられていた時代の遺物である。

 きっと今の若者は聞いてドン引きするだろうが(というか、私としてはぜひドン引きしてほしいのだが)、彼らの両親が若かったバブルの頃、日本は男女の学歴差や賃金差が大きく、女性の専業主婦率が高く、しかもそれが社会の求める男女のあり方であり当たり前であると受け止められていた。その価値観体系のもとで、女性は自らの容姿やモテを資産化し、「若くてキレイな私があなたとご飯を食べてあげる」対価としてより良いブランド品や結婚相手や暮らしを手に入れ、「三高(学歴・年収・身長が高い)男性に“永久就職”して玉の輿に乗る」ことを目指すという、実にリスキーな賭けをしていたのである。

 若さも美しさも、年々日々刻々と目減りするだけの時限的な資産でしかない。いわば「若くてキレイな自分を今のうちに即金で換金」、より高く売れれば勝ち組という発想である。

 そんなバブル期の価値観をリスキーとか破廉恥と時代が感じていなかったのは、それほどに女性の側がサバイバルに際して持つリソースが限定的だったからだ。

 東京カレンダーのギラギラした世界観は、「女は着飾り、男はおごるもの」という性別役割への強い固定観念と、女の自己換金発想と、男の痩せ我慢と、何よりも溢れてダダ漏れする下心が支えているのである。

人間関係も恋愛もコスパ? 徹底したコスパ思考は貧困の表れ

 となれば、この「女の子は着飾るのにコストがかかっているからデート代は男性におごってほしいよね」という話題がツイッターで何度も思い出したように湧くという現象は、もはや懐メロというか、「あの人は今」というか、既視感たっぷりに同じ話題──日本人がみんな大好きな歌謡曲──を、言い出す役者を少しずつ変えながら何度も舞台に引っ張り上げているだけなのだ。

 この頻度から察するに、どうやらこの話題は老若男女、「世の中が変わらないでほしい」「このままでいい」と無意識に願う人たちにとって居心地がいいようだ。

 古いのである。「また(まだ)言ってんのか」である。

 若い子たちが(若いのに)「そうだそうだ」なんて言っていたりするのを見ると、「ああ~、日本は結局、先進国じゃないんだな~。そりゃいまだ先進国中最低、UAEより中韓より低いとされるジェンダー意識と、OECD加盟国中最大の男女間賃金格差が放置されているわけだわ~」と、日本の貧しさを痛感する。

「もう戦後じゃない?」 いいや、日本は男女の価値観はまだ戦後、ていうか、日本っていう国は、世界大戦も経済戦も、敗戦して貧しくなるとここに戻ってくるのである。

 この問題は男子より女子の方で根深い。女子よ、自分を換金する貧しい発想からとっとと自由になりなさい。もっと他の持続的で生産的な武器を手にして生きなさい。人間関係や恋愛をコスパで考える発想は「女子が貧しい」ことの表れだ。

 私は、経済失墜と“失われた30年”の末に、日本の若い女子の中にいまだそういう「自分の美や肉体を換金する人生」発想や人間関係をコスパで捉える貧しい発想が生きていること、そういう女子を21世紀にもなお育ててしまったことを「日本の大人たちは大いに反省するべきではないか」と、胸が痛むのである。

 自分で食べる分は自分で払える人間でいた方がいい。そもそも「おごる」とは「相手をもてなす」精神だ。もてなされることを端(はな)から当然と思う人間は、男性であれ女性であれやはりちょっと立ち止まって考え直せと叱られても仕方ないだろう。

 何をどう食べるか、食とはその人であり、食にまつわる言動とはその人自身にまつわる言動である。食と人間関係の交差点である「デート」をコスパで考えている間は、男も女も、まあモテない。

◎連載「河崎環の『令和の人』観察日記」記事一覧

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写真はイメージです(出所:ぱくたそ)