子育て本著者・講演家として活動する私は仕事柄、よく幼稚園や保育園に出入りしていますが、そうした場所で教育理念として「みんな仲良し」と書かれているのを見かけることがあります。交通安全の標語のようなものなのかもしれません。

 しかし私は、ちょっとひねくれているかもしれませんが、「絶対に誰とでも分け隔てなく、みんなと仲良くしないとダメなの?」「子どもだって、苦手な相手くらいいるでしょ?」「自分の気持ちにうそをついて、誰とでも分け隔てなく付き合うことって、そんなに大切なことなの?」「幼い頃から八方美人になるように訓練されたら、自分の感情にふたをする悪い癖がついてしまうのでは?」「自分をいじめる相手とも仲良くしないとダメなの?」「仲良くすることよりも、けんかしてぶつかり合うことも大切ではないの?」と思ってしまうことがあります。

自分が遊んでいたおもちゃを壊されて…

 保育園や幼稚園に置いてあるおもちゃは「自分専用」のものではありません。そうした中で、園のおもちゃであるブロックを電車に見立てて遊んでいる子がいました。その子はブロックを誰にも触らせず、独り占めしていました。

 そこへ、他の子がやってきて「それ、貸して」とブロックを持ち上げると、電車はあっという間にバラバラになってしまいました。

 ブロックで遊んでいた子は自分の世界を壊され、友達をたたきました。線路をつなげている真っ最中だったのですから。

 そこに保育士が来て、「どうしたの。みんなと仲良く一緒に遊ばないとダメじゃない! 『ごめんね』は? 『ごめんね』は!」と、友達をたたいた子を叱りました。

 電車を壊され、たたいた子が「ごめんね」と言い、電車を壊し、たたかれた子が「いいよ、許してあげる」。これでめでたし、めでたし…なのでしょうか。

 ブロックで電車を作っていたところを、友達に邪魔されたらとても嫌な気持ちになるものです。たたく行為自体は確かにいけないことではありますが、その前に起こっていたことを把握しないまま、いきなり謝罪を強要するのはどうなのでしょうか。

 親の場合も同様です。親は、親同士の人間関係を大事にしたいがために、自分のおもちゃを貸そうとしないわが子に「意地悪しないで貸してあげなさい」「『いいよ』と言いなさい」と許容の言葉を言わせようとしたり、友達のおもちゃを奪い取ったわが子に「ごめんねは? ごめんねは?」と謝罪させようとしたりします。

 そうした親の言葉を受けて「いいよ」「ごめんね」と言ったとしても、子どもは両者とも納得していないのです。

 おもちゃを奪い取った子どもは「とりあえず『ごめんね』」と言えば済む」と思い、同じことを何度も繰り返します。一方、譲ることを強要された子どもは「自分の気持ちを押し殺してまで相手を優先しなくてはならない」と幼いうちから思うようになってしまいかねません。

裁判官のように“判決”を下さない

 こんなときは、友達をたたいた子に、親が「まだ遊んでいたかったんだよね。でも、お友達も遊びたいんだって。一緒に遊ぶことはできる?」とまず声をかけてあげましょう。それでも相手に譲らなかった場合には、「貸してあげなさい」と言わないこと。子どもは、自分の気持ちを大切にしているのですから。

 保育士も、たたいた子には「◯◯君も嫌だったら、お友達をたたかないで『嫌!』と言おうね」と歯や手などを使わないことをしっかりと伝え、たたかれた子には「◯◯君はまだ、電車を作っている最中だったみたいね。貸したくないんだって。残念だったね」と言って諦めさせるのもよいのではないでしょうか。こうした体験を通して、「この世には、思い通りにならないこともあるんだ」ということを学べます。

「みんな、仲良くしなくてはならない」という強い信念のもと、裁判官が判決を下すように「貸してあげなさい」「みんなのおもちゃでしょ。仲良く使いなさい」と大人が命令しないのも大切なことです。

 人生が始まってまだ数年の幼児期から「他者のために生きること」を強要するのではなく、子ども本人の気持ちを大切にしてあげることがポイントだと私は思います。どうしてかというと、自分の気持ちを大切にされた体験を積んでいる子は、他者の気持ちも考えることができるようになるからです。

 皆さんはどうお感じになりますか。

子育て本著者・講演家 立石美津子

「みんな仲良く」…本当に正しい?