武田信玄が2万7000の大軍を率いて駿河から遠江に侵攻し、家康の居城浜松城に迫ります。このとき、家康は籠城戦法をとらず、城を飛び出して大軍に戦を挑みます。それはなぜだったのでしょうか。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

信玄はまともに戦って勝てる相手ではない

■九死に一生「三方ヶ原の戦い

徳川家康の生涯で最大の危機を2つ挙げるとしたら、上洛する武田信玄と戦って大敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」か、信長に招かれて堺見物に出かけた先で「本能寺の変」が勃発して逃げ帰った「伊賀越え」ではないか。どちらも、自決する一歩手前までいったからだ。

家康は、伊賀越えでは、明智光秀軍に追われる不安と戦い、いつ襲ってくるか予測がつかない土民らの落ち武者狩りに脅えながらも決死の思いで逃走したが、三方ヶ原の戦いでは、信玄の大軍に追いつめられ、「もはや万事休した」と腹をくくり、自決しようとしたところを忠臣に制止され、かろうじて居城まで逃げおおせることができた。

三方ヶ原の戦いは、武田信玄との戦いである。信玄には上洛して天下人になるという大きな野望があったが、国境を接した周辺国との関係から容易には動けなかった。特に脅威だったのは、犬猿の仲ともいうべき越後の上杉謙信の動きだった。

信玄にとって謙信は、千曲川と犀川に挟まれた川中島で幾度も対戦を繰り返してきた不気味な存在であり、気を抜けば、いつなんどき侵攻してくるかわからなかった。

川中島で最初の“信・謙勝負”が始まったのは、1553(天文22)年で、そのとき家康は、竹千代という名の12歳の少年で、人質として今川義元の監視下にあったが、両雄のことは聞き知っていた。そのとき信玄は33歳、謙信は24歳だった。参考までに信長は20歳、秀吉は17歳だ。

武田信玄が上洛へと動いたのは、姉川の戦いから1年後の1572(元亀3)年、家康が31歳の秋である。前年10月に信玄と敵対していた相模国(神奈川県)の戦国大名北条氏康が没し、息子の氏政が家督を継いだことで、両国の関係が改善され、「甲相同盟」が復活したからだった。

そのとき氏康は58歳、氏政25歳である。氏政は次男だったが、嫡男が夭折したために跡目を継いだ。母は武田信玄の娘である。武田家と北条家は、政略結婚で誕生した親戚なのだ。甲相の甲は「甲州」の甲、甲斐国(山梨県)。相は「相州」の相、相模国である。

戦国大名間の同盟ほど脆いものはない。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵。いつなんどき、攻め込まれるかわからない。そういう不信感と恐怖心が常につきまとう。

武田・北条の場合は、1544(天文13)年から1568(永禄11)年まで「甲相同盟」を結んでいた。家康の年齢でいうと、3歳から27歳までの長きにわたった両国の同盟関係だったのだが、信玄が北条軍の拠点である深沢城(静岡県御殿場市)を制圧したのが原因で破綻、北条氏康は今度は謙信と「越相同盟」(1569〈永禄12〉年)を結んだのである。越相の越は「越州」の越、越後国(佐渡島を除く新潟県)だ。

一向一揆という難敵

信玄と謙信の対立の裏には、もう一つ、一向一揆という大きな宗教問題が絡んでいた。一向宗徒は信玄に味方し、謙信に敵対したのである。その理由は、“一向一揆の元締め”というべき顕如の正室が信玄の正室の妹という血縁関係にあったからである。

上杉謙信は、信玄と北条氏政の同盟と一向一揆という2つの“負の出来事”によって、動くに動けなくなっているのだ。信玄にとっては、上洛を決行する千載一遇のチャンス到来である。

信玄は、動いた。まず9月29日に山縣昌景率いる5000の軍勢を先陣として送り出し、自らは10月3日に2万の軍勢を率いて甲府を発進、京の都へ向かって西上を開始した。その2万5000に、さらに、同盟を結んでいる北条氏政の援軍2000も加わって総勢2万7000の大軍である。

信玄が京へと向かう道筋に最初に立ちはだかっているのが遠江・三河を支配する家康だったが、兵力差は歴然としていた。122万石の信玄に対し、家康は56万石(姉川の戦いのときより4万石減)だから、理論上の兵力は武田3万、徳川1万4000。倍以上の戦力である。加えて、武田には日本一の騎馬軍団がいた。まともに戦って勝てる相手ではなかった。

しかも、信玄は“日本一の知将”といわれるだけあって、進軍する道筋の地理をとことん調べさせ、満を持しての西上だった。

信玄が警戒したのは、家康と謙信が親密な関係にある点だった。謙信が家康に援軍を送りはしないかという不安である。

家康は、29歳のときに上杉謙信と誓書を取り交わしており、「親・謙信、反・信玄」という旗色を鮮明に打ち出している。30歳の2月には名刀(守家の刀)を、8月にも唐頭を贈って謙信を喜ばせている。信玄は、そういう情報も把握していた。贈答品の詳細は後述する。

だが、謙信は援軍を送らなかった。だからといって、安心はできない。同盟を盾に信玄に背後から襲ってきて挟み討ちに遭う懸念もあるのだ。そこで信玄は、謙信が動けないように国境に1万の軍勢を張りつかせた。

武田信玄「百戦錬磨の知将の手練手管」

■家康31歳の大決断「籠城か、野戦か」

三方ヶ原の戦いで家康に突き付けられたのは、「籠城か、野戦か」という二者択一の大決断だった。結論から先にいうと、家康は、何とかして「野戦」に引きずり出そうとする信玄の作戦を読むことができず、信長や家臣が主張する「籠城」に耳を傾けようとしないで、独断で「野戦」を選択し、死にかけたのである。そうなった経緯をこれから述べたい。

信玄が率いる本軍は、1572(元亀3)年10月7日に駿河から遠江に入り、山縣昌景率いる別動隊は三河東部を南下縦断して遠江に入った。

武田軍がまず陥いれたのは、家康の支城「二俣城」である。二俣城は、家康の居城浜松城まで20 キロしか離れていない地点にあった。

遠江に侵攻して6日後の10月13日、家康は、信頼する大久保忠佐本多忠勝、内藤信成の3武将に偵察を命じ、3000の兵をつけて送り出した。

3人はやがて戻ってきて敵情報告をしたが、意見が異なっていた。大久保と本多は、すぐにでも戦う意思を示したが、内藤は反対し、家康にこう告げたのである。

「衆寡敵せず(少人数は大人数にかなわない)と申します。今、信玄の大軍と交戦するのは不利です。織田の援軍到着を待って戦うべきで、ひとまず兵を収めるのが最良の策かと存じます」

家康が大きく頷くと、大久保や本多は「交戦案」を撤回し、内藤の「撤兵案」を受け入れた。

家康が信長に援軍を要請したのは、11月に入ってからだった。

信長は援軍を送ることを了承したが、次のような策を家康に伝えた。

「野戦は控えられよ。ただちに浜松城を引き払い、岡崎城へ戻って籠城し、われらが援軍を待たれよ

信長は、平手汎秀滝川一益佐久間信盛らの重臣に3000の兵をつけて送り出したが、そのときに「勝てる相手ではない。まともに戦うな」と因果を含めた。そのせいで、合戦では信長軍の兵士のやる気のなさを武田軍に見透かされ、こてんぱんにやられることになる。

信長の援軍は、東海道を進軍し、11月下旬にようやく浜松に着いた。

一方、信玄は、信長の援軍が浜松城に入ったとの知らせを受け、さらに、後続の援軍も岡崎山中から東下しつつあることを知ると、思案し、こう決断した。

「やみくもに浜松城を総攻撃して兵を失うよりは、押さえの軍勢のみを張りつかせて動きを封じ、本隊は本来の目的である上洛を果たす方が得策だが、こちらが通り過ぎるのを家康が黙って見送るわけはない。籠城か、野戦か。籠城されたら攻略するのに日数もかかるし、そこへ信長の第2弾の援軍が大挙してやって来て、背後から襲われたら戦死者が出る。だが家康は、籠城戦法は採らずに合戦に打って出る可能性が高い。そうなったら100パーセント勝てる。籠城されて手間どるよりは、家康を刺激して野戦に誘い出し、一気に壊滅させる。そうする方が時間の無駄が省ける」

数は力なりで、信玄には大軍を率いている余裕があった。

信玄は、浜松城へは向かわず、方向転換して三方ヶ原方面へ向かったのである。それが武田信玄という稀代の“百戦練磨の知将の手練手管”というものだった。

そんなこととは夢にも思わなかった家康は、まんまと信玄の術中にはまった。二俣城を陥落させた武田軍は、破竹の勢いで浜松城に向かって直進してくるとしか思わず、まさか途中で進路を変え、浜松城を素通りしていくなどという策は読めなかったのである。

なぜ家康は浜松城に籠城しなかったのか

三河武士の面子と意地

戦雲急を告げたのは、12月21日の夜だった。家康が放っていた斥候が戻ってきて、

「武田軍は、明日、大挙して祝田、井伊谷 (いずれも浜松市)へ入り、東三河(愛知県東部)へ向かおうとしている模様であります

と報告。家康は決断を迫られたのである。

家康は、諸将を集めて緊急軍議を開くと、開口一番、

「城を出て要撃する」

と宣言した。要撃とは「待ち伏せ」である。

家臣たちは、「要撃など、とんでもない」と次々に反対を表明した。

「敵衆は3万を超えており、戦力に圧倒的な差があります。いくら殿が野戦を得意でも、完敗します」

「信玄は軍事に長けています。どんな突拍子もない策を繰り出してくるか、わかったものではありません」

「信玄の究極の目的は上洛であって、われらを滅ぼすことではない。だから、みだりに戦うべきではなく、籠城すべきです」

日頃は家臣の諫言を喜んで受け入れる家康だったが、この日はそうではなかった。諸将の考えを激しい口調で全否定し、信長の忠告をも無視した。

織田の諸将が、信長からの伝言として家康に申し伝えたのは、次のようなことだった。

「わが殿も籠城すべきと申されています。信玄がたとえ戦いを挑んで来ようとも、断じて兵を出してはなりませぬ、と」

家康の決断を決定的に左右したのは、三河武士としての面子と意地だった。

家康は、こういったのである。

「敵がわが領土を蹂躙して通り過ぎていくのを、息をひそめて見送り、一矢も報いないとは何事か。ただ城に潜んでいて、どこが三河武士ぞ。勝敗は、天にあり、衆寡にあらず(兵力の問題ではない)」

このときの家康のもっと詳しい発言内容は、江戸時代中期の山鹿流兵法家佐久間立斎の『東遷基業』によれば、次のようだったという。

「どんなに武田が猛勢だからといって、城下を蹂躙して進軍していくのを手を組んで黙って眺めている理由などない。これ以上の弓矢の恥辱はない。後日、敵に枕の上を踏み越されたのに、起き上がりもしなかった臆病者と世間の笑いものになることこそ、後代までの恥辱だ。勝敗は天にあり。とにもかくにも、戦をしないでおられようか」

城主にそこまでいわれたら、家臣たちは従うしかない。

「ならば、天下無双のわれら三河武士、殿のために三方ヶ原で正面切って堂々と戦い、白黒つけようではないか」

だがこのとき、家康はたった2時間の戦闘で300人もの戦死者を出すことになろうなどとは予想だにしなかったのである。

大軍と小軍が正面きってぶつかり合えば、勝敗は戦う前から見えている。織田信長が少数の兵で今川義元の首を取れたのは、奇襲攻撃によってである。野戦で真正面から対決していたら、ものの見事に完敗していただろう。

だが、そのときの家康には、そこまで考える余裕がなかったのかもしれない。若さという名の経験不足が邪魔をしたのだろうか。家康31歳。

城島 明彦 作家

(※写真はイメージです/PIXTA)