
悦びのために殺す――「ブラジル史上最悪の殺人鬼」と恐れられた男の腕に彫られていた言葉だ。“殺人鬼”の名はペドロ・ロドリゲス・フィーリョ。「生涯で100人以上殺害した」と公言し、ブラジル中を震撼させてきた男が3月5日、68年の生涯に幕を閉じた。数えきれないほどの人を殺してきた男は、初めて殺人の被害者となって世を去った。
YouTuberになるも、ジョーカーの覆面男に銃撃され死亡「ブラジル現地紙『エスタード・デ・ミナス』などによると、ペドロは5日、サンパウロ州のモジ・ダス・クルーゼスにある親戚宅付近にいたところ、映画『ジョーカー』の覆面を被った男ら数人に銃撃され死亡しました。犯人はまだ特定されていませんが、捜査当局は犯行に使用された車を発見しています」(大手紙国際部記者)
ペドロは40年以上の服役を経て2018年に出所していた。服役を終えた彼が何を思ったかYouTubeチャンネルを開設するや、たちまちブラジル国民の注目を集める。殺人鬼にそぐわないなじみやすいキャラクターと、殺害してきた人物の多くが「悪党」でもあったことからたちまちフォロワーは18万人を超えた。
ペドロはメディアで発言することを好んだ。現地紙の記事やインタビューでは、幼少期の虐待、麻薬の密売、父親への逆襲、刑務所内で繰り返した殺人……常軌を逸した半生が明かされている。稀代の殺人鬼は大衆の支持を集めるダークヒーローか、それともシリアルキラー(連続殺人犯)に過ぎないのか――。
母胎内で受けた暴力で頭蓋骨に重傷ブラジル現地紙「オ・グロボ」などによると、ペドロは1954年、ブラジル南東部に位置するミナス・ジェライス州の街、サンタ・リタ・ド・サプーカイの農園で産まれた。ペドロの家庭環境は劣悪で、暴力の飛び交う日常を過ごしたという。
「ペドロはこの世に生まれ落ちる前から父親に虐待されていたという“伝説”があります。母親がペドロを妊娠中に父親から複数回暴力を振るわれたことで、ペドロは母胎内で頭蓋骨に重傷を負ったというのです」(同)
コロンビアの現地紙「エル・ティエンポ」は、ペドロが母親の胎内で負ったこのケガは脳の「共感領域」に影響を与えたとみられるという専門家のコメントを伝えている。「脳への外傷、幼少期の家庭内暴力に遺伝要素を組み合わせて考えると、ペドロがシリアルキラーとなる土壌は出来上がっていた」と評し、「父親の殴打はペドロ自身だけではなく、ブラジルにとっても高い代償となった」と結ぶ。
13歳で殺人衝動を覚え、14歳で初めての犯行ペドロは学校へ通わず、秘められた残虐性が教育で矯正される機会はついになかった。初めて殺人衝動に駆られたのは13歳のとき。もみ合いになった年上のいとこを、サトウキビの粉砕機に押しつけ殺しかけたという。この一件は未遂に終わったが、ペドロが人殺しに手を染めるまでにそう時間はかからなかった。
「ペドロは14歳で初めて殺人を犯したとされています。学校の警備員として働いていた父親が、昼食を盗んだというあらぬ疑いをかけられて解雇されたことが原因でした。激昂したペドロは解雇を命じた副市長を襲い、真犯人と睨んだ別の警備員を殺害したといいます。しかし現地紙はこの事件に関する警察当局の公式記録は存在しないとしています」(ブラジル在住ジャーナリスト)
麻薬王の未亡人と恋に落ち、暴力性を加速させ副市長らを襲撃した後、ペドロはサンパウロ州のモジ・ダス・クルーゼスへ向かい身を隠した。この逃避行の最中に、麻薬王の未亡人・ボティーニャと恋に落ちることになる。ペドロはボティーニャのそばで暴力性を加速させていった。敵対する麻薬の密売人3人を殺害するなど、いっぱしのアウトローとして存在感を高めていく。
「危険なロマンスは長くは続かなかったようです。現地紙によると、ボティーニャは捜査の過程で警察当局に殺害されました。その後、ペドロは自ら売人を雇い麻薬密売の世界で頭角を現すようになりました。殺人とは無縁でいられない稼業なので、ここでも次々と商売敵を手にかけたのでしょう。やがてブラジル国内で最も恐れられる売人の1人として名が知れ渡っていきました」(同)
父親の胸から心臓を取り出し、噛みちぎって復讐ペドロのモットーは「死には死を」。復讐が彼の行動原理であり、「やられたらやり返す」という姿勢は一貫していた。恋人を敵対組織の銃撃で失った際の復讐劇が知られている。自らの主義を貫徹するため、ペドロは犯人と見立てたライバルの密売人が出席していた結婚式に乱入。席上で7人を殺害し、16人に重傷を負わせたという。悪行はとどまるところを知らなかった。
ペドロの人生をトレースする現地紙は「本当の狂気は、ペドロの人生で最も受け入れ難い知らせを耳にした時に爆発した」と書く。知らせとは、ペドロの父親が、南米で使われる山刀「マチェテ」で母親を21回も刺し、殺したという事実。最愛の母の惨い最期を聞いたペドロは、父親への復讐を誓った。
刑務所にいた父親の元を訪れたペドロは、母の命を奪ったのと同じ凶器マチェテで父親を惨殺した。復讐はそれだけでは終わらず、父親の胸を切り開いて心臓を取り出すと噛みちぎり、残りを捨てたのだという。
虚実混じる自白と、杜撰な訴訟記録ペドロの狂気と異常性を伝えるに十分なエピソードだが、後にペドロは精神科医に対し、父親を殺したのは父親の愛人の親族だったと証言したそうだ。現地紙「オ・グロボ」はペドロの告白にはこういった食い違い、辻褄の合わない事実がいくつかあると評価している。
「少年時代から数々の犯罪に手を染めてきたペドロですが、初めて逮捕されたのは意外にも19歳になる年だった1973年のことです。この時の罪名は強盗、麻薬密売、殺人だったと言います。ペドロの自白には虚実が混ざっているようですが、現地紙は様々な報告書を根拠に、最終的に71件の犯罪が立件され、延べ400年の懲役が言い渡されたと調査で結論づけています。ですが、1970年代のブラジルでは訴訟記録の管理が杜撰で、これが本当の数字かどうか。かつて行われたペドロへのインタビュー当時は、殺人の記録が18件分しか残っていなかったといいます。その数字をインタビュアーに知らされたペドロは、その少なさに驚いていたそうです」(前出・大手紙国際部記者)
刑務所内でも死体の山を積み上げたペドロペドロは人生のほとんどを刑務所で送った。長期の刑務所生活は彼の更生を促すどころか、死体の山を積み上げる結果となった。ペドロにとって刑務所は凶器を簡単に手に入れられる絶好の環境だった。自分の命が狙われていると知るや看守からナイフを購入し、中庭で敵対する囚人3人を殺したという。
「受刑中のペドロの生活はとても規則正しかったようです。朝4時に起床し、6時まで独居房で縄跳び、腕立て伏せなどの運動を行い、冷水のシャワーを浴びると刑務作業へ向かう。デッサンを学ぶ授業を受けていたこともあったといい、アカデミー脚本賞を受賞したこともある小説家のシドニィ・シェルダンの作品を読んで過ごしたことも明かしています」(同)
ペドロは2003年にブラジルの雑誌「エポカ」のインタビューに応じ、13人きょうだいであるとし、うち1人は泥棒に殺害されたが、その犯人は自身が後に殺したと明かしている。生涯で100人以上の命を奪い、刑務所内だけでも47人を殺したと告白。「ぺドリーニョ・マタドール(殺人者)」というニックネームが定着したのは獄中にいる時期だった。
ペドロが生涯で殺害した大半が看守と受刑者だったという。ペドロを好意的に見る者が少なからず存在するのは、多くの殺人が刑務所内で行われ、被害に遭ったのがそもそも犯罪者であったことが理由のようだ。コロンビア現地紙でさえ、ペドロについて「一部の人にとっては治安を守るガードマン、他にとってはサイコパス」と表現し、大量殺人は「社会浄化」とまで持ち上げたことがある。だが、この見方は必ずしも正当ではないだろう。「いびきがうるさい」という身勝手な理由で同房者の息の根を止めたこともあったのだから。
2007年に釈放され「元連続殺人犯」としてインフルエンサーに「ペドロは07年に釈放されました。ブラジルには原則として死刑がなく、30年以上の拘禁も禁じられているためです。当初は収監から30年後となる03年に釈放される予定でしたが、刑務所内で犯した罪の刑期が加算され、刑期が4年伸びていたようです。出所したペドロは、ブラジルを震撼させた連続強姦殺人犯を脅したとして11年に再び逮捕され、2度目の刑期を終え出所したのは18年のことでした」(前出・ブラジル在住ジャーナリスト)
出所後のペドロは犯罪行為から足を洗ったことを強調。「元連続殺人犯」として凶悪事件を分析することで影響力を持てると踏んだのか、インフルエンサーとして余生を過ごそうとした。ブラジル紙のサイト「グロボ・ドットコム」などによると、2021年、4人を殺害したとして警察当局に追われていた男についてペドロがコメントしたのがきっかけで彼のチャンネルは注目を集めるようになった。「男は憑依されており、黒魔術を使い、当局を混乱させている」「当局が男を見つける可能性は低い」と、独創的な見立てを開陳したところ大いにウケたのだという。
ペドロは殺人を繰り返した過去を後悔することはなく、むしろ悪党を倒したと誇らしげに振る舞った。一方で“普通”の人間ではないと自覚していたからこそ、他人に拒絶されることを恐れていたのかもしれない。晩年、SNSで過剰に自らを露出したのはその臆病な心情の現れだったのではないか。自伝につけたタイトルは『私は怪物ではない』だった。

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