代替テキスト
(写真:アフロ

大谷翔平選手から行かせてもらいます。

打って投げて。そんな姿を誰もが見たいし、待っている。そこはいちばん、僕が感じている」

絶大なる信頼を互いの言葉から感じるが、今から12年前に両者が最初に出会ったとき、大谷選手は高校生、栗山監督は現役を離れてスポーツキャスターをしていた。

プロ野球を辞め、キャスターになった栗山監督。高2の大谷は「ヒョロヒョロした」選手だった

「野球は、たいしてうまくもなかった。一流の選手になれなかったトラウマがある」

と、常々、インタビューなどでも、現役時代について自嘲気味に語ることの多い栗山監督。

東京都小平市出身の独身。生まれは’61年なので、大谷選手とは33歳の年齢差となる。

創価高校、東京学芸大学の野球部を経て、’84年にヤクルトスワローズドラフト外で入団。俊足を生かした守備でゴールデングラブ賞も取ったが、激しい目まいや耳鳴りなどを伴うメニエール病に苦しめられ、わずか6年で引退してスポーツキャスターに転身した。

一方、’94年生まれの大谷選手は岩手県水沢市(現・奥州市)出身で、スポーツ選手だった両親のもと、小2で地元の少年野球に参加し、中学生で時速140kmを投げ、花巻東高校の野球部で佐々木洋監督(47)の指導を受けたといった10代までの野球遍歴は、大谷伝説の序章として誰もが知るところだ。

栗山監督と大谷選手、2人の出会いは’11年4月。前述のとおり、栗山監督がキャスターとして、東日本大震災後、大谷選手の母校である花巻東高校を訪れた際に、高2の野球部員として言葉を交わしている。すでに天才の片鱗を見せていた大谷選手だが、世間的には今ほど知られていなかった。

そもそも小中学校時代まで、地元の野球関係者によれば「小食で、身長ばかり高いヒョロヒョロとした体格だった」という大谷選手。それを、高校入学直後から、

「いずれ160kmが出るよ」

と声かけし、食事やウエートトレーニングの助言をしたのが、もう一人の恩師といわれる佐々木洋監督。肉体改造だけでなく、同校野球部の先輩でもある「(菊池)雄星さんのようになりたい」と口にしていた大谷選手に、

「『誰かみたいになりたい』という考えでは、その人を上回ることはできない」

と、教え諭したのも同監督だった。

この生徒一人一人の個性を重んじる名将のもとで、着実にアスリートとして経験を積み重ねていた大谷選手を思いがけないけがが襲ったのは、’11年6月。くしくも、栗山監督と出会った2カ月後のこととなる。

骨端線損傷という野球選手として初めての大きなけがに見舞われるが、結果として、このときに痛みの少なかったバッティング練習に比重を置いたことが、のちの二刀流の萌芽ともなる。

佐々木監督も、

《大谷本人もそうだったと思いますが、その時点では『ピッチャー大谷翔平』の意識しか私にはなかった。もしかしたら、ピッチャーとして三年間、順当にいっていれば『バッター・大谷翔平』があそこまでのものになっていなかったかもしれない》(佐々木亨著『道ひらく、海わたる』扶桑社

そして’12年7月、高3の大谷選手は夏の岩手県大会で、「球速160Km」を達成。

高校生活をふり返れば、甲子園には2度出場し、エースとして力投を見せていたが、そのマウンドで勝利をつかむことは一度もかなわなかった。

その悔しさを胸に、すでにプロ野球界からも注目される逸材となっていた大谷選手は、卒業後に進むべき道をしかと見定めていた。

■栗山監督、そして佐々木監督との出会いが、大谷選手の才能を最大限に引き出した

栗山監督に誘われ、日本ハム入団を決めた大谷。

以降、大谷選手と栗山監督、スタッフらは、日本プロ野球史上前代未聞の二刀流挑戦への道のりに踏み出した。

やがて、師弟で歩んできた道が正しかったことが立証された。

’16年7月のソフトバンク戦に、1番・投手として先発出場した大谷選手。バッターとして打席に立つや、いきなり初球をスタンドにたたき込む。投手による先頭打者ホームランは日本のプロ野球初どころか、メジャーリーグにもない歴史的な大記録だった。

教員免許も持つという、緩急を知り尽くした栗山監督の指導法が実を結んだ瞬間だった。

その後も、大谷選手を軸として日本ハムの快進撃は続く。9月には完封勝利でパ・リーグ優勝を決め、日本シリーズ出場をかけたクライマックスシリーズファイナルステージでは、165kmのプロ野球最速記録を自ら更新。

この年、日本ハムは日本一となり、大谷選手はMVPに輝いた。以降、「日本のベーブ・ルース」の名が定着する。

そして’17年10月のオリックス戦で「4番・ピッチャー」となった大谷選手は、オフを迎え、メジャー挑戦を正式に表明。

メジャーの全30球団のうち、実に27球団が獲得に名乗りを上げたのだった。

メジャー行きを決めた大谷選手に対して、栗山監督は「ホッとしました」と、心情を語った。

大谷選手の母親の加代子さんの言うとおり、「プロ野球界のお父さん」ならではの本音に違いない。

この栗山監督、そして佐々木監督との出会いが、大谷選手の才能を最大限に引き出したという見方を否定する人はいないだろう。

「大谷の表情が柔和で、野球ファンだけでなく一般の女性にも親しまれるのは、いまだスポーツ界にはびこる暴力のにおいがないからでしょう。

日本ハムのスカウトに聞くと、佐々木監督の花巻東高校野球部にも、生徒や後輩を力で支配しようとする空気がないと言っていました。栗山監督もまた、力の支配とは縁遠い指導者。

選手主体の指揮に定評があり、長所を伸ばせるようケアする監督たちの指導法が、大谷の気質に合っていたと思います」

と語るのは、『大谷翔平 日本の野球を変えた二刀流』(廣済堂出版)の著書もあるスポーツライターの小関順二さん。

栗山監督は、大谷との出会いで、逆に「多くを教わった」と語る。著書『栗山魂』(河出書房新社)に、こんな一節がある。

《僕自身もまだまだ、夢を追いかけています。マンガやアニメといった非現実の世界でしか考えられなかった二刀流を、翔平は自分のものにしつつあります。マンガのスーパーヒーローが、現実の世界へ飛び出してきている》

共に夢を追う師であり、野球界の父に見送られて、大谷選手は5年越しの願いを実現させ、アメリカへ渡った。

■舞台をアメリカに移しての決勝ラウンド。準決勝戦の相手はメキシコ代表だ

その後、アメリカのファンをもうならせた活躍ぶりは、ここで語るべきもないだろう。

’22年の新人賞受賞に続き、’21年にはイチロー選手(49)以来、日本人2人目のMVP獲得。

’22年8月には、2桁勝利2桁本塁打を達成。実に、ベーブ・ルース以来104年ぶりの歴史的快挙だった。

そして今、まさに初参戦で、小学校のころから憧れていたWBCが佳境を迎えつつある。

WBCは初めてなので緊張すると思うけど、いつもどおりの自分らしいプレーをしたい。今の100%は出せると思う。自分のプレースタイルではあるので、投打ともチームに必要と思われているのであれば、できるかぎりのことをしたい」

初戦前日のインタビューで語られたとおり、大谷選手にとっては前回不参加の無念を晴らす大舞台となる。その活躍について、

「日本ではチャーミングな大谷の表情がクローズアップされますが、日の丸を背負い、追い詰められた極限の状態で勝負する彼の“戦う男の本能”が見られる可能性がある。日本中の期待を背負った大谷がどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、そんな期待があります」

と、MLBアナリストの古内義明さんは語る。

最強チームを率いる栗山監督も、「世界一しかない」と、力強く言い切った。

東京ドームでの準々決勝を勝ち抜き、舞台をアメリカに移しての決勝ラウンド。準決勝戦の相手はメキシコ代表だ。

二刀流を世界に認めさせた大谷選手と栗山監督の師弟愛を原動力に、侍ジャパンは3度目の優勝に向かい突き進む。