モーリー・ロバートソン「挑発的ニッポン革命計画」
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、「女子アナ」の存在に象徴される日本社会のジェンダー問題について指摘する。

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国際女性デーを間近に控えた3月6日関西テレビの報道番組で、同局の竹上萌奈(たけがみ・もえな)アナウンサーが「女子アナ」という呼称、あらゆる職業に「女性○○」とつける風潮に対する違和感を吐露する特集が放映されました。

女子アナ」は若さと素直さ、器量が大切とされ、"お飾り"であることが求められる。それを受け入れて仕事をしてきたことで、「ジェンダーギャップ指数146ヵ国中116位」という日本社会の不平等に加担していたのではないか――。

この話題を現役の社員アナウンサーが堂々と発信できるようになったことは、時代の前進と言っていいのでしょう。

「若くかわいく素直な女子アナ」を望むのは視聴者だ。そして視聴者が見たいものを提供するのがテレビだ。そんな反論はこれまでも山ほどありました。

しかし「女子アナ」という存在を抱える限り、テレビ局がジェンダー問題に関してどんな主張をしても、その説得力には一定の制限がかかってしまう。テレビが"社会の公器"であろうとするなら、それはおかしなことだと私は思います。

もうひとつのよくある反論は、女子アナにしてもある種のアイドルにしても、自ら望んでやっているのだから問題ないというもの。確かに多くの場合、本人たちは自主的にそう振る舞っているのだと思います。

以前、共演した「女子アナ」の方に「なぜこんな扱いを我慢するんですか?」と聞いたことがありますが、「なんの不満もない」という答えが返ってきました。

思わず「いや、問題あると思いますよ」と言うと、「欧米ではそうなんでしょうけど」「チャンスをもらえてありがたいです」と。"わきまえている女"でなければこの社会では生きていけない、という一種の生存戦略なのでしょう。

やや乱暴なたとえ話をします。仮に、問題の多い独裁国家で愛国心に燃える国民が多くいたとして、その根本的な理由は「民度が低いから」でしょうか。そうではなく、海外の情報を遮断・制限されるなど、ほかの選択肢を与えられていないことが大きな要因だと考えるのが自然です。

逆に言えば、情報も選択肢もオープンな状況で判断されるのが怖いからこそ、独裁者は報道を統制し、強権を振るうわけです。

同様に、新しい気づきを得るテレビ局が機会を与えないこと自体、いびつな構造であるとの指摘は免れないでしょう。そんな状況で「視聴者や本人が望んでいる」というのは、率直に言ってアンフェアです。

ただし、社会の価値観が変わって困るのはゲタを履かされてきた男性だけではありません。"ガラスの天井"が割れたとき、その天井の存在を最大の生存戦略としてきた人々はジェンダーを問わず傷つくこともあるでしょう。そんなリスクを負うより、今までどおり生きていくほうがいい――そう考える女性が一定数いるのは仕方ないことだとも思います。

だからこそ、冒頭で紹介した竹上さんや特集制作陣の誠意には意味がある。これは自戒も込めて申し上げますが、仮に(才能にしろ努力にしろ)実力だけで判断される時代が来れば、「有名だから」起用されるキャスターやコメンテーターにもより厳しい目が注がれるはずです。

いつか日本にもクリスティアン・アマンプールのようなジャーナリストが生まれることを私は望んでいます。

モーリー・ロバートソン(Morley ROBERTSON)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。レギュラー出演中の『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(カンテレ)ほかメディア出演多数。富山県氷見市「きときと魚大使」を務める

「『女子アナ』という存在を抱える限り、テレビ局がジェンダー問題に関してどんな主張をしても、その説得力には一定の制限がかかってしまう」と指摘するモーリー氏