「言われてみれば、確かに不思議だなあ」地元住民も存在意義を知らない“森の中の謎ロータリー”…現地を訪れて“歴史の真相”を探ってみた から続く

 酷道マニアとして知られる鹿取茂雄氏のもとに寄せられた“森の中に、ポツンとロータリー道路がある。しかも、ロータリーが3つも連続している”というナゾの情報。

 本来であれば、必要のない場所に3つも連続して造られたロータリー。これはいったい、誰がどんな目的で……? 前編では現地を訪れ、地元住民に聞き込みを行うも、その真相は明らかにならなかった。

 しかし、その後も諦めず“不思議道”が作られた理由を追っていくと意外な事実が判明した……。

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航空写真に写ったロータリー

 現地を訪れた翌日、私は過去の地図や航空写真を調べた。すると、1981年国土地理院地図に道の表記は無く、1982年の航空写真にもロータリーは写っていなかった。それが、1985年の航空写真には、はっきりとロータリーが3つ写っていたのだ。

 つまり、ロータリーが造られたのは、1982年から1985年の間に限定される。30年以上前からロータリーがあったという区長さんの証言とも合致する。これで、ロータリーができた年代はおよそ特定できた。

 次に、土地の登記も調べてみた。しかし、当地には番地が付けられておらず、土地の所有者を特定することができなかった。通常であれば、国道や市道、林道などにも番地があり、法務局で調べれば所有者を特定できるのだが、それができなかったのだ。

 そこで、地名を調べてみたが、1つ目のロータリーと2つ目のロータリーの間で地名が変わってはいるものの、特にロータリーと関係している様子はなかった。

 続いて、ロータリーがある三重県いなべ市役所に問い合わせた。

 その結果、問題の道は“法定外公共物”であること、道の周辺は農事組合などが管理していること、所有はいなべ市であることが分かった。“法定外公共物”の道というのは、赤道(あかみち)や里道(りどう)とも言われるもので、昔からある誰のものでもない道などを示す。番地も振られておらず、かつては国有地とされたが、現在は市町村に移管されている。

役所が回答した“ロータリー”に関する情報

 ここまでわかったのは収穫だったが、肝心のロータリーについては「都市整備課では何もお答えできることがなく申し訳ないです」との回答だった。

 諦められなかった私は、周辺の建設会社、学習教室、キャンプ場など、あらゆるところに問い合わせてみたが、思うような回答は得られなかった。私は再びいなべ市役所に、これまでに現地で話を聞いて分かったこと、地図や航空写真から推定される完成年などを伝えたうえで、「個人的な推測や、この人に聞くと分かるかもしれないというようなことでも、どんな些細な情報でも教えて頂けると助かります」と長文のメールを送った。

 すると数日後、思わぬお返事を頂いた。回答をくれたのは、これまでやり取りを続けていたいなべ市都市整備部都市整備課の井川恵美さんからだった。井川さんは、この道路について関係していそうな市の職員さんに片っ端から声をかけて調べてくれていたのだ。しかし、残念ながら確実な情報を得ることが出来ず、どのような経緯でこの道路が造られたのか、知っている職員はいなかったという。

 ただ、当時を知る職員さんのかすかな記憶によると、1982年頃に当時の大安町(合併していなべ市になる前の町名)が舗装したのではないかという。これは、航空写真から推定した時期とも合致する。また、この道路周辺の森林の一部は丹生川中農事組合が管理しており、植林を効率的に管理するための道路である可能性が考えられるという。

 そして、丹生川中農事組合に聞けば詳しく分かるかもしれないということで、代表理事の葛巻武広さんを紹介してくれた。

1週間後、改めて真相究明へと向かう

 前回の訪問から1週間後、私は再び三重県いなべ市を訪れた。もちろん、ロータリーの謎を解明するためだ。もう一度ロータリーを見ておきたくて訪れると、3つ目のロータリーキャンプをしている人に出会った。

 一応聞いてみたが、やはり道路のことは分からないという。なぜここでキャンプをしているのか尋ねると、ただ山奥に行くだけの道なのに綺麗で走りやすく、めったに人が来ないから、たまにキャンプに来るのだと話してくれた。なるほど。謎の道を逆手にとって、きちんと有効活用している人もいるのだ。

 山を下りて向かったのは、丹生川中農事組合だ。到着すると、代表理事の葛巻武広さんのほか、もう一人の男性がいた。井川さんと同じいなべ市の職員で、都市整備部住宅課の山北克成さんだった。休日にも関わらず、駆けつけてくれたという。

 早速、ロータリーがある道路のことを聞いた。葛巻さんは、先代、先々代の組合長から伝え聞いた話として、順を追って話してくれた。

 そもそも、ロータリーがある山は、大事な里山だった。町の人たちが暮らす上で必要な柴や薪を調達していた。そのため、麓の町の4地区で、それぞれ山林を区分けして利用・管理していた。地区の境界線は「あの松の木からこの大きな石まで」というような決め方だった。

 1952年、山林を管理する4地区で話し合い、分かりにくかった境界線を直線に引き直した。1980年頃になって、国から地方に予算が下りてくる機会があり、何かやることがないかと考えていた。そこで、境界線をはっきりと明示するため、境界線上に道路を造ろうという話になったという。そう、あの道路は、里山の境界線を示すための道路だったのだ。

 そして、最も知りたかったロータリーも同様の理由で、里山の境界を分かりやすく示すため、3箇所にロータリーを造ったという。そのため、道路の左右と、ロータリーの前後で山林を管理する地区が異なる。境界を示すのであれば、四角でも三角でもなく丸にしたほうが中心が分かりやすい。1つ目のロータリーの中央部に大きな木が1本生えていたのも、目印のためだ。

予算が余ったから造った……?

 これまで道路としての機能ばかりに注目していたため、境界線というのは盲点だった。葛巻さんのお話を聞いて、目から鱗が落ちる思いだった。急こう配なのに道路が直線だったのも、境界線と思えば理解できる。交通量が少ない森の中に存在するロータリーは、山林の利用・管理を行う境界線だったのだ。地名の境界でもなく、里山を利用する地区の境界だったので、いくら調べても分からなかった。

 ついでに、1つ目のロータリーから分岐してすぐ行き止まりとなる道についても聞いてみた。すると……あの道はロータリーが出来た後、1991年頃に造った道だが、特に目的は無いという。強いて言えば、予算が余ったから造った、とのことだった。様々な理由で道路が造られている……。

 念のため、この道が造られるきっかけとなった予算について調べてみた。葛巻さんは「特措法か何かだった」とおっしゃっていたので、おそらく1982年に施行された“地域改善対策特別措置法”ではないかと思われる。この特別措置法は1987年に終了しているが、ロータリーが造られた時期とも合致している。

 葛巻さん、山北さんにお礼を言って別れた後、私はもう一度ロータリーに向かった。葛巻さんのお話を聞いて謎が解ける前と後では、同じ風景でも違って見える。それを確認したかったからだ。

 道の南側には杉が植林されているのに対して、北側は広葉樹が点在している。道の左右で管理する地区が異なるため、利用の仕方も異なっているのだ。しかし、共通していることもあった。それは、きちんと草が刈られ、道が綺麗に整備されていることだ。今では里山として利用されることはほとんど無いが、それでも各地区が定期的に掃除したり、土砂を除けるなどして管理してくれている。

 道路は3つ目のロータリーで終点となるが、この先も地区分けされている。先ほど聞いた話を元に周辺の林野を歩き、境界石と思われるものを発見した。葛巻さんの話を聞いていなければ、これが管理地区を隔てる境界を示しているなんて思いもしなかっただろう。

 今回、たまたま知った森のロータリーについて調べた結果、境界線を示すために造られた道路であることが分かった。しかし、ほとんど記録が残っておらず、地域の人たちが作ったわずかな資料があるだけだった。

口伝によって残った歴史

 当時、境界線を決めた人たちは、全員亡くなっている。葛巻さんは先代の組合長から話を聞き、先代の組合長は先々代の組合長から聞いた話だという。こうした口伝がなければ、ロータリーの謎を解き明かすことは出来なかった。

 しかし、考えてみれば、道路が造られたのは40年ほど前の話だ。当時は大安町だったが、2003年に町村合併によりいなべ市になった。その際、役場に残されていた資料は全て捨てられてしまった可能性が高いという。この道路については町村合併という事情が絡んでいるものの、今となってはルーツが分からない道路というのは、実は全国にたくさんあるのではないかと思っている。

 道路というのは、人間がお金や労力を使って造るものなので、必ず理由がある。歳月が流れ、分からなくなってしまった道路の理由やルーツを調べている過程は、まるで謎解きをしているような楽しさがある。

 最後に、調査にご協力いただいた丹生川中農事組合の葛巻さん、いなべ市役所の井川さん、山北さん、突然押しかけたにも関わらず快く話してくれた区長さんや商店主さん、そのほか話を聞いた多くの方々に心から感謝を申し上げたい。

(鹿取 茂雄)

出典:国土地理院撮影の空中写真(1982年)