歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

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民衆に敬服された親氏の子、泰親

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康。その家康の先祖である松平親氏は、慈悲深く、家臣のみならず、民にも愛されてきたことは前回述べました。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)によると、その親氏の子は松平泰親(法名は用金)。同書によると、この泰親も、父と同じく、武芸に優れ、慈悲の心を持っていたようです。

 泰親が三河国中の侍や民衆に敬服されたのは、彼のそうした振る舞いが影響したのでしょうが、どうやら、もう1つ理由があったようです。

 都のある貴族(大臣)が罪を得て、三河国に流罪となっていました。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、その貴族の名は、洞院中納言実煕とあります(『実紀』は、実熙は左遷ではなく、応仁の乱後の混乱を避けるため、荘園があった三河に身を寄せたと書いています)。実熙は都に帰ることになったのですが「名のある侍に都まで供をして欲しい」ということになります。

 そこで、白羽の矢が立ったのが、泰親でした。松平家は源氏の流れを汲む家柄。「これに優る家柄はない」として、実熙から直々の仰せがあったようです。

 実熙のお供として、都に上り、無事に役目を果たした泰親。それ以後は、三河国への綸旨(天皇の秘書的役割を果たした蔵人が天皇の意を奉じて出す文書)は、泰親に宛てて下されたとのこと。そのようなことで、三河の侍や民百姓は、泰親の仰せ(命令)がないものは、受け取らなくなったということです。

 武勇・慈悲に加えて、朝廷から発給された綸旨により、権威を更に身に付けるに至ったということでしょう。もちろん、『三河物語』のこの逸話が、本当か否かは分かりません。「伝説」の可能性が高いですが、リーダー論の観点から見れば、泰親が権威を身に付けたということは重要です。

権限を委譲しても、権威は委譲したらあかん

 実業家として、パナソニックホールディングスを一代で築き上げた松下幸之助氏(1894〜1989)。「経営の神様」と讃えられた松下氏は、権威について「権限を委譲しても、権威は委譲したらあかん。それがなかなかむずかしい」と述べたと言います。

 上司が権威を保つのは難しく、部下に仕事を任せると、自分は為すべきことをせずに「付き合いだといってゴルフに出かけ」「交際費を節約しろと言いながら、自分は会社のカネで飲み歩く」ようになる。要は堕落する。そして、リーダーとしての権威がなくなる。

 松下氏は権威というものは「人間としてなすべきことをなす」、「なすべからざることはやらん」ことから生まれてくるとも説いています(江口克彦「松下幸之助「リーダーには強い権威が必要だ」東洋経済オンライン 2016・11・4)。権威というものの重要性と、人が権威を維持することの困難さを松下氏はよく分かっていたのです。

「突然変異」とも言うべき当主・信忠

 泰親の子は、松平信光。そして、親忠、長親と続くのですが、『三河物語』によると、何れの当主も、慈悲深さと武勇の心を持っていて、侍や民に愛されたようです。

 これは、松下氏流にいうと「人間としてなすべきことをなしていた」からこそでしょう。しかし、その松平家に「突然変異」とも言うべき当主が登場します。長親の子で、家康の曽祖父にあたる松平信忠です。信忠はどのような当主だったのか?

『三河物語』には「慈悲の心なく、政務の手腕もなく、家来衆に言葉をかけることもなく」と信忠に対し、散々な書きようです。民衆も信忠を恐れて、慕うものはなかったとあります。『徳川実紀』も信忠の心映えは良くなかったと記します。そのような有様でしたので、一門衆や家臣までバラバラになり、従う者もいなくなる。

 信忠の弟・信定もしくは信忠の子・清康(家康の祖父)を当主にしようという動きまで出てきます。とは言え、全員が信忠を見捨てたわけではなく、なかには「当主の能力が足りなければ、皆で盛り立てよというのが、長親様(信忠の父)の仰せであった。当主の能力が足りないことは残念ではあるが、この当主(信忠)をご主君と仰ぐべきだ」という「忠臣」もおりました。

 それに反論する家臣もいて、彼は「松平家は、第一にご武芸、第二に家来衆へのお情け、お言葉がけが厚く、第三に慈悲深いというのがお家柄。ところが、信忠様はこの3つのものをどれも持ってはいない。それではお家の存続が危うい。信忠様の弟・信定様は3つのものを持っている。信定様こそ当主となるに相応しいお方」(『三河物語』)と主張していました。彼も彼なりに松平家のことを案じる「忠臣」ではあったでしょう。

 家中が分裂していることは、当然、信忠もよく分かっていました。信忠はこれにどう対処したのか?弟を担ぎ上げようとする首謀者を手討ちにしたのです。しかし、そんなことをしても、家中は1つになることはありませんでした。

 一門衆や家臣の不出仕(ストライキ)という事態まで生まれ、それほどまで嫌われているならということで、信忠はついに隠居。子の清康に家督を譲るのです。これが、大永3年(1523)のことでした。

 信忠の事例は、リーダーにとって、部下に慕われるには、何が大切かを教えてくれます。思いやりがなく、冷たいリーダーはやはり嫌われるのです。そして、そのようなリーダーが強権的に物事を推し進めようとしても、かえって、社内は「空中分解」してしまう。世界には、独裁的に振る舞う指導者がいる国があります。そういう国は一見よく纏まっているようにも見えますが、一皮剥けば人々の不満が溜まりに溜まっているものですし、ちょっとした契機で、体制が崩壊してしまうこともあり得るでしょう。

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松平家・徳川将軍家の菩提寺である大樹寺(愛知県岡崎市) 写真=アフロ