日本海軍の戦艦「大和」が1945年の今日、沈没しました。沖縄戦が始まり、その掩護のために艦隊を成して沖縄へ向け出撃しましたが、アメリカ軍の圧倒的な航空戦力を前に、作戦は失敗に終わりました。

「大和」は水上特攻として沖縄へ…

1945(昭和20)年の4月7日は、旧日本海軍の戦艦「大和」が沈没した日です。「大和」は同型艦「武蔵」とともに、世界最大の戦艦として知られます。

さて太平洋戦争末期であるこの時、すでに沖縄戦が始まっていました。絶対国防圏もとうにアメリカ軍に突破されており、太平洋の島々を発つ爆撃機によって、日本本土は連日 激しい空襲を受けていました。「大和」はこれ以上のアメリカ軍の侵攻阻止と自軍の掩護を目的に、4月6日軽巡洋艦駆逐艦8隻を率いて沖縄へ出撃したのです。

作戦としては、沖縄で艦を座礁させ砲台化し、アメリカ軍に砲撃を加えるというものでした。ただ、すでに制海権・制空権ともに喪失していた中、航空機の護衛がない艦隊が沖縄に到達できる見込みは非常に低いものでした。

海上における当時の日本軍の戦法は、航空機に爆弾を搭載し、機体もろとも敵艦艇に突入する捨て身の戦法「特攻」が主体となっていました。これは「航空特攻」と呼ばれますが、対して艦艇を用いたものが「水上特攻」です。先述の通り生還はおろか到達する望みも薄い中、「大和」は特攻作戦に投入されたのでした。

困難を極めた対空射撃

山口県の徳山湾を出撃して5時間、早くも艦隊はアメリカ軍潜水艦によって動向を察知されます。攻撃を受けるのは時間の問題となりましたが、この日は交戦することなくそのまま翌7日を迎えます。

正午過ぎ、沖縄近海のアメリカ軍空母が発進させた艦載機の大編隊が襲来、艦隊は猛攻にさらされます。当日は低い雲が垂れ込む曇天。アメリカ軍艦載機は雲間を縫うように攻撃を仕掛け、応戦する「大和」など日本艦隊は、対空射撃に困難を極めたといいます。

随行した軽巡洋艦駆逐艦が撃沈されていきます。「大和」も回避行動をとりますが、魚雷や爆弾が次々に命中、戦死者も増大し、浸水により次第に艦の傾斜が増していきました。

2時間弱の戦闘の末、「大和」は12本の命中魚雷(防衛研究所戦史『沖縄方面海軍作戦』)や10発以上の命中弾を受けます。14時半前、とうとう「大和」は大爆発を起こしながら沈没。作戦は失敗に終わり、駆逐艦4隻のみが本土へ帰還しました。

基準排水量6万4000トン、全長263.4m、最大速力27.46ノット(約50km/h)。そして目玉の主砲も世界最大となる46cm砲を9門装備した「大和」は今なお、鹿児島県の坊ノ岬沖約200km、北緯30度、東経128度の海中深くに眠っています。

1941年10月、高知県の宿毛湾沖で全力公試中の戦艦「大和」(画像:アメリカ海軍)。